■哲学者内田樹氏については、何度もふれているが(笑)、今回は、そのうちの教育論の続編。おもには「内田樹『先生はえらい』」と、「試行錯誤過程と整理」で、特に前者〔このブログ開始期なので、よみかえすとはずかしい(笑)〕。
■内田御大の教育哲学をごく乱暴にまとめてしまうなら、表題どおり、「先行者にして継承者としての教育者」という一節につきてしまうとおもう。■実体験としての、武道家 多田宏(合気道)、哲学者 レヴィナスという、ふたりの鬼才にめぐりあい師事したこと、その師匠ふたりともが、「先行者」としての師匠なしには開花しなかっただろうという、解釈にささえられているのだが、実際には、この2例は、それほど説得力をもつものではない。
■むしろ、もとラグビー選手である、平尾剛氏との対談本『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)でのべられている、「弟子とは「未完成な存在であって、つねにより高いものを求めている途上にある」というふうに定義」〔p.145〕したうえで、自分がおよびもつかない師匠がいて、そのさししめした理想にむかっているのが、いまだ「弟子」でありつづけている自分なのだと、指導者が物語をこしらえること、それに弟子たちが感応することに、真髄があるという説明が、その教育哲学の本質があるとおもう。■あとの説明は、その補足的な性格にとどまるとさえいえそうな気がする。 続きを読む
■内田御大の教育哲学をごく乱暴にまとめてしまうなら、表題どおり、「先行者にして継承者としての教育者」という一節につきてしまうとおもう。■実体験としての、武道家 多田宏(合気道)、哲学者 レヴィナスという、ふたりの鬼才にめぐりあい師事したこと、その師匠ふたりともが、「先行者」としての師匠なしには開花しなかっただろうという、解釈にささえられているのだが、実際には、この2例は、それほど説得力をもつものではない。
■むしろ、もとラグビー選手である、平尾剛氏との対談本『合気道とラグビーを貫くもの』(朝日新書)でのべられている、「弟子とは「未完成な存在であって、つねにより高いものを求めている途上にある」というふうに定義」〔p.145〕したうえで、自分がおよびもつかない師匠がいて、そのさししめした理想にむかっているのが、いまだ「弟子」でありつづけている自分なのだと、指導者が物語をこしらえること、それに弟子たちが感応することに、真髄があるという説明が、その教育哲学の本質があるとおもう。■あとの説明は、その補足的な性格にとどまるとさえいえそうな気がする。 続きを読む