■いわゆる「55年体制」とは、一般に、?戦前の無産政党が戦後合同した日本社会党が、サンフランシスコ講和条約の位置づけをめぐって1950年に左派/右派に2分したのが、朝鮮戦争休戦など冷戦下の1955年に再合同したこと(「護憲と反安保」) 。?それに危機感をもった保守系2政党(自由党/日本民主党)が合同して自由民主党を結成したことで成立した、保革=2:1の均衡状態(共産党/公明党が不完全ながらキャスティング・ボートをにぎる、自民党一党の長期連続政権状況)をさし、1993年の細川政権成立時に、自民党が野にくだったことをもって、おわるとされてきた。■いわゆる、冷戦構造が崩壊したことで、保革の対立的均衡が無意味化したこと(ソ連/東欧体制の自壊で再確認された「既存の社会主義体制への幻滅」。西欧での社民政党と共産党、環境派などのグラデーションが可視化することで、革新派と保守系ハト派との断絶が あいまい化したこと、など)が、直接・間接的な要因とされている。■しかし、バブル経済崩壊などとともに、日本の戦後政治は、完全に異質な構造へと移行したのだろうか?
■日本社会党が、94年以降、自民党にとりこまれて連立政権(村山富市首相)として政権につくことで「就任直後の国会演説で安保条約肯定、原発肯定など旧来の党路線の変更を一方的に宣言(後に党大会で追認)、この結果社会党の求心力は大きく低下」、「1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第一回大会を開催、日本社会党は名実共に消滅した。国会議員の多くは同年結成の民主党に合流」といった、悲喜劇としかいいようのない事態をむかえ、モジどおり自壊していったことは、記憶にあたらしい[Wikipedia「日本社会党」]。■「自:社=2:1」という、「均衡」こそ「55年体制」というのであれば、93年終結論は、もちろん ただしい。しかし、問題は、「自民党支配」という基本構造が、おわったかだろう。もちろん、おわっていない。■そうかんがえると、「55年体制半世紀」という時期だということができる。 続きを読む
■日本社会党が、94年以降、自民党にとりこまれて連立政権(村山富市首相)として政権につくことで「就任直後の国会演説で安保条約肯定、原発肯定など旧来の党路線の変更を一方的に宣言(後に党大会で追認)、この結果社会党の求心力は大きく低下」、「1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第一回大会を開催、日本社会党は名実共に消滅した。国会議員の多くは同年結成の民主党に合流」といった、悲喜劇としかいいようのない事態をむかえ、モジどおり自壊していったことは、記憶にあたらしい[Wikipedia「日本社会党」]。■「自:社=2:1」という、「均衡」こそ「55年体制」というのであれば、93年終結論は、もちろん ただしい。しかし、問題は、「自民党支配」という基本構造が、おわったかだろう。もちろん、おわっていない。■そうかんがえると、「55年体制半世紀」という時期だということができる。 続きを読む