■教育についてばかりかく意思はなかったのだが、いきおいでつづけることにする。
■世でいう「学力低下」について、つねづね疑問におもっていることがある。それは、「低下」したことが、そんなにタイヘンな事態なのかという点である。 
■「国際比較で上位だったのが、中位以下におちこんできたのでタイヘンだ」というのが、おおかたの反応だし、議論の出発点は大学生の学力低下という先生たち(大学および予備校)の実感レポートだったと記憶している。■毎年おなじ問題を、年度ごとにほど同一集団とみなされている層にやらせたときの、平均水準の推移。ゼミナールなどで、まともな議論ができなくなったとか、以前よりずっとハードルがひくくなったはずの(はっきりいって、黄色版、それ以前の青版より、格段に大衆化した文体・筆者にかわった)岩波新書でさえむずかしすぎて、よみこなせない学生が激増したこと。……おそらく、これらの先生方の時系列的な実感の比較は実態をしめしているのだろう。■大学で、入学者の学力が専門課程への不適応を確実視させるので、予備校講師まで動員して高校の学習内容の補習をさせるところがでてきた、うんぬんとかも。
■そして、だいたい、これらの原因のほとんどは、「ゆとりの教育」など文部科学行政の方針転換とか、18歳人口の減少による入学選抜の水準の低下(ライバルの減少による受験圧力の低下)、メディアの多様化による学校文化の権威喪失と学習時間の減少、などとして列挙されていた。論者によって、全部あげるかどうかは別として、そして諸要因の軽重をいずれにおくかはともかくとして、これらが複合されて「学力低下」が現実化した、ということになっている。
■しかし、もう一方で、別の見解もいくつかある。わずらわしいので、いちいち論者を具体的には特定しないが、代表的なものは、つぎのふたつだろう。■?「いまどきのわかものの水準がおちたというのは、幻想だ。むしろ理解力は自分たちの時代よりあがっている。低下したというのは、自分たちの時代のことを過大評価している議論だ」とするもの。■?「学力低下が問題なのは、社会階層のひくい部分の学校文化からの逃避・遊離という点につきる。上位層はむしろ要領よく勉強することで、以前より水準があがったとさえいえる。したがって、国際比較での水準低下の原因は、学力下位層が平均をひきずりおろしたから生じた。国内的には、正規分布にちかかった学力分布が2分化して、それが経済階層による教育投資・家庭環境の格差として再生産されるという悪循環構造がうまれて、戦後一度できあがった、大衆社会日本のいい面が逆行しつつある」とするもの、である。
■?については、別の側面から補強する議論もある。?「昨今の大学生の学力低下問題の基盤は、単に入学率が以前より格段にあがったことによる、大衆化につきる。要は、以前なら到底大学に入学できるような水準でない層もはいれるようになった。学歴ピラミッドの頂点とされる東大でさえも、理科系を中心におおはばに定員が増加したのだから、平均水準や下位層の学力が以前より低下するのは、あたりまえだ」というものだ。
■ハラナは、基本的には、この見解に同意したい。いいわるいは別にして、大学が大衆化したのだから、以前の学生イメージと比較することがまちがっていると。ただ、結論については留保したい。■たとえば、おなじ問題を教師がわが「同一」と想定してきた集団にとかせて、現に低下傾向がはっきりみとめられるなら、たしかに上位層の学力水準も長期的におちつつあるのだろうから(これは、?の見解ともぶつかるが)。■?についてだが、ハラナも経済階層ごとの学力分布が職業選択と対応するのが世代ごとに継承されるのは、まずいとおもう。しかし、だからといって、「経済的下位層の学力を死守せよ」的な教育政策をとろうとするうごきには反対だ。それは、「強制収容所」をおもわせるからだ。そして、「学力2分化論」が学力上位層の「学力」のなんたるかをとわない議論だからでもある。
■ハラナがひっかかるのは、冒頭でものべたとおり、「学力低下」という数値の変動が、そんなにタイヘンな事態なのかという点なのだ。■ちみつに論証しようとすると、てまひまがかかりすぎるので、結論だけさきにのべよう。■?「これまで、日本人の優秀さ、平均水準のたかさの基盤とされてきた、小中高校での基礎学力は、社会生活の不可欠の能力とは、とてもおもえない」、?「すくなくとも大学は、小中高校での基礎学力と断絶した水準・領域での専門を前提にしており、選抜試験が大学での適性を保障しないものとなっている」、?「つまり、大学は、みずからの必要に応じた選抜原理で受験生をえらぶのでなく、高校の履修内容にすりよるかたちで学力試験を課している」、?「この大学入試の高校準拠が高校以下の事実上の『基礎学力の目標』となることで、公教育全般が社会にでていくための素養ではなくて、小中高校の先生たちの教科教育実践の保障になってしまう」という、皮肉だ。■要は、大学入試という制度は、大学がわが専門教育に責任をおうための基盤を成立させないばかりでなく、専門教育ではなく市民教育であるはずの義務教育までも趣旨をはずさせてしまうという、なんともおかしな状況を再生産する装置となっているのではないか?