■きょうは、死刑存廃論の補足をする(ながれによるけど、かきだしの時点では、今回でくぎりにしたい気分)。 
■現代日本の死刑の執行方法を制度的に冷静に記述したものとしては、きのう紹介した、『死刑廃止と死刑存置の考察』というサイトに、「死刑執行方法」というページがある。■ちなみに、きのうはかきおとしたが、このサイトの運営者は、基本的に存置派だが、冷静に是非を論じる素材を提供したいという明確な目的をもっている。この主張は、非常に冷静な筆致が一貫している点で、まちがいないとおもう。■しかし刑務官が法的義務などないのに、処刑人とされてしまうことへの配慮がほとんどないのは、少々フシギ。たとえば、つぎのような一節。「刑務官に関する問題:現状の死刑執行方法では刑務官への負担が大きいのではないか?」→「対応策:現状刑務官に死刑執行手続が義務化されていないにも拘らず、死刑の直接的な執行を実施させているのが問題である。これを解決するには死刑執行官の新設が必要ではないだろうか? 経験豊富な刑務官からの志願制とし、死刑執行を専門にした業務を行うものとする。」■一見よさそうにみえるが、こんな安易な改革案でいいのだろうか? ハラナの私見によれば、死刑制度の根本矛盾の第一は自白強要などによる、冤罪(えんざい=ヌレギヌ)問題だが、第二はこの処刑人をだれにするかという問題だとおもう。だって、「ころされて当然の人物を法律にもとづいて処刑するだけだ」というだけで、刑務官の心情が合理化できるはずがないじゃない? ■存廃を論じるなら、是非いれてほしい。

■実際に処刑を執行する(させられる)刑務官の職務を、合法的な命令があった以上しかたがない(こばみようがない)と合理化できるかどうについては、戦場で殺人を命じられた兵士やガス室でのユダヤ系市民虐殺を比較した議論(『戦争と罪責』(野田正影著・岩波書店)を読んでー「罪」の行方ー 「黒」№2号(二○○○・九))もある。
■なお、死刑執行の実態については、もと当事者がかたった坂本敏夫『元刑務官が明かす 死刑はいかに執行されるか』(日本文芸社)がある。

■処刑人とされる可能性をかかえた刑務官の問題がぬけおちているが、原裕司『なぜ「死刑」は隠されるのか?』(宝島社新書)も、重要な論点をなげかけている。15年ぐらいまえの「内閣府世論調査」がどの程度誘導尋問的な性格をかかえていて、とても客観的数値といえないとかいった、社会調査上の問題もわかるし、批判を意識してか、現在は「凶悪犯罪は、増えているか」といった、アホな質問はきえているとか、「死刑のなくすと悪質な犯罪が増えるか」といった誘導的質問は、「増えるという意見」と「増えないという意見」を対比させる形式に改善されている、とかもわかっていい。■あと、「死刑・犯罪文献を考察する」というページの文献リストはつかえそうだ。


■ハラナは、死刑存置派も廃止派も、その論理はともかく、論者の動機に、かなりの疑問を感じてきた。前者についてはサディズム、後者については自己愛が、チラチラほのみえるような気がするのだ。■前者については、戦争行為や強制執行など国家権力の至高性を確保しておきたいという動機もあるかもしれないが。ヒトの大半は社会倫理をコドモ時代にすりこまれるときに「正義は、かつ」という論理も同様に注入されるから、「この印籠(インロー)がめにはいらぬか」ってな感じで、悪をこらす正義の体現者が実在するという信仰を再確認せずにはいられないんだとおもう。
■はなしがそれた。■死刑存置派がかくしているとおもわれる動機は、自身のサディズムの代償行為として刑法・刑事訴訟法を利用したいということではないか? 自分で殺人を実行するのは、さすがに勇気がいるというか、ゆめにでてきそうなので、さけたい。そこで、死刑制度をつかって刑務官に代行させるということだ。それは、小説/ドラマ/映画など、劇中で殺人が素材としてあつかわれることをたのしんで代償行為をするのとはちがって、どこかよそでおこっている殺人事件や戦争にドキドキするのと同類の、えげつないたのしみなのではないか? こんなことを、もし大衆社会維持のための「パンとサーカス」の一種としてエリートが想定しているのであれば、完全な野蛮だ。■そういえば、近年はやめたようだが、おとなりの中国は、「公開処刑」を完全なみせものにしていた。ジョージ・オーウェルがえがいた、陰惨な社会主義パロディSF『1984年』の世界だな。「政府にはむかうヤツ、秩序をみだすヤツは極悪人として処刑される。みんなみておくように。そして、せいぜい興奮しろ!」ってヤツだ。災害や凶悪事件とおなじく、自分に火の粉がふりかからなければ、いいや、っていう野蛮な心理だね。ワイドショー的/写真週刊誌的/巨大匿名掲示板的な時空は、現代社会の濃縮された場だろうけど。
■もちろん、死刑廃止派の動機もうたがっておく必要はありそうだ。■分析はまだ不充分だが、「わたしは、野蛮には加担しないリベラルな人物です」っていう自画像を確認するために、死刑制度に反対しているんじゃないか? 戦争反対などもふくめて、暴力に反対するひとびとのうち、特にとしよりではない男性の反対派の動機には、警戒が必要なんじゃないか?

■ハラナは、極論すれば、「確信犯的あだうち」を否定しない。「みずからの行為が違法であり、そのことを充分自覚しつつ、犯行後はにげもかくれもせず、自首する覚悟」がありさえすれば。「国家権力が遺族になりかわって処刑を執行する」っていう制度は、遺族の心情をくみきれないとおもうし、クジびきにあたってしまったような刑務官に「てをよごさせる」のは、卑怯というものだろう。■そうそう、死刑存置派のひとびとに提言したい。「処刑のボタンは、死刑を求刑した検察官、死刑判決をくだした裁判官(陪席判事も)、遺族代表全員でおしましょう」。そして、「『落下後15分?30分してから医官により検査がなされる』儀礼にも当然たちあう」し、処刑後の死体の移送もおこない、医官の検死/司法解剖がおこなわれるなら、それにもたちあうと。■しかし、こうかんがえてくると、ハラナの「あだうち」も、殺害された人物につきあわなければならない警官とか検死官とかを犠牲にしている行為だなぁ。やっぱり、やめか。