■連日の議論のながれ、整合性からいえば、「動機の不透明な凶悪犯罪(たとえば「異常者」による犯行)」とか「外国人犯罪」といったお題を展開するのがいいのだろうが、きょうは本業の納期にあたるので、ほんごしをいれてかけない。■もともと、ここの表題は「きまぐれ」となっているし、読者があきるとか特化してしまうのもなんなので、ガラリと方向をかえることにする。 
■きょうは、別だての日記の方でとりあげた、中島義道『悪について』(岩波新書)についてかんがえたことをかく。■時間がないので、中島先生とこの本の主題については、岩波書店の新刊案内の文章を複写させていただく(アドレスは同上)。

 著者・中島義道という人物に、みなさんどのようなイメージをお持ちだろう。騒音に対してや、当たりさわりのない「世間語」で本心を隠す人々に対し、怒り、戦う哲学者、というイメージだろうか。それとも、ウィーン留学時代の体験をはじめ、自分の家族との確執、社会との確執を赤裸々に描き、「生きにくさ」をとことん描き出す人物としてだろうか。

 そんな著者が悪について論ずるのであれば、さぞかし過激であろうと期待される向きもあるかもしれない。確かに、本書にも、「悪についての私の唯一の関心は、善人であることを自認している人の心に住まう悪である」とあるから、過激は過激なのだが、しかし、そこから展開されるのは、人間の根本悪を追究したカントの倫理学を丁寧に追った、哲学案内とも言えるものである。道徳法則への尊敬を優先し、偽らず、誠実に生きる…。そうした生き方は、往々にして世間との摩擦を生じる。そして意識的か無意識か、自己愛のために、世間と馴れ合って生きることを選択してしまう。その傾向からは逃れようもないのだが、それでも善く生きようとすること、ここに根本悪の元にある人間の生き方が指し示される。(以下、省略)

■日記の方にもかいたとおり、いい本だとおもう。ヒトが容易にのがれられない(というか、解脱できない)業(ごう)のような、動機にからみつく自己愛/偽善性をよくえがけているとおもう。その点については異論はない。しかし、根本的に問題のたてかたがまちがっているのではないか、という疑念はぬぐえない。日記にもかいたとおり、再読したら、誤読を発見するかもしれないが、とりあえず、一回目の読後感=直感にたのむことにする。
■中島先生、カントの「厳密主義」とやらをたかく評価して、なぜその言動を選択したのか、究極のいたばさみ状況においてもなお、徹底的に動機を吟味しろとのたまう。で、その最終的な究明のさきが、自己愛だという分析=還元は、究極的にはただしいとおもう。■しかし、日記でもかいたとおり、「『ヒトのいのちをすくうためには、ウソをつくほかなかった』という判断は思考停止であり、『ウソをつくことはいけないことだ』という倫理問題を除外してしまった自己愛だ」とかいう議論の結論は、いかがなものか? いっちゃわるいが、「わたしは、ここまで倫理性を徹底的にかんがえぬけるほど、倫理的なんです」っていう誇示以外のなにがのこるのだろう。■こういった議論を一度徹底的にする意義は否定しないが、まさにここまでで議論がおわってしまうのなら、それこそ「ここまで倫理性を徹底的にかんがえぬけるほど、倫理的なんです」っていう誇示」の動機と、その倫理性がとわれてくるとおもう(笑)。
■ハラナは、こういった徹底的な首尾一貫性の追求をみていると、ソクラテスの「ポリスの構成員の倫理」問題をおもいだしてしまう。あの有名な「悪法も法なり」ってヤツだね。■ソクラテスによれば、ポリス=政治共同体を構成する市民は、自分たちの自治によって代表者をきめ、その立法/司法にしたがう義務をおう。なぜなら、義務を市民がおわなければ、ポリスの政治的根拠が崩壊してしまうから。したがって、「ソクラテスはポリスの秩序を破壊する犯罪者」だという司法判断が正当なてつづきによってくだされたなら、かりに完全な誤解にもとづくものであっても否定してはならない。自分ソクラテスが、処刑をのがれるために、国外に一時亡命して、「ただしい司法判断がくだるまで、避難するのは当然」という正当化は、以上のようなポリスの基盤を否定することになるからできない。……てな、論理をもって、ソクラテスは毒杯をあおいだそうな。アホらし(笑)。
■これは、ある合理的な体系をくずさないために、厳格に一貫性を維持しようという価値観にとっては、当然の論理的帰結なのだろう。しかし、これは、体系の外部の人間からすれば、単なる狂気にすぎない。■こういった議論の、根本的なおかしさ(あやまち/こっけいさ)は、まさに、「一貫性のための一貫性」という、「つじつまあわせ」への病的な「こだわり」にある。■たとえば、、「『ヒトのいのちをすくうためには、ウソをつくほかなかった』という判断は思考停止であり、『ウソをつくことはいけないことだ』という倫理問題を除外してしまった自己愛だ」といった結論のみちびきかたは、その典型だろう。「『ウソをつくことはいけないことだ』という倫理問題」が、つねに除外できないはずだ、という倫理的判断は、どこから保障されるのか? つまり、「ヒトのいのちをすくう」という課題と「『ウソをつくことはいけないことだ』という倫理」をつねに同列に配慮するなど、形式合理性への「殉教」なのだとおもう。■「対立するようにみえる倫理に安易に序列をつけるな」「それこそ、自己愛にまどわされた、恣意的な判断にすぎないかもしれない」「ヘーゲル的な弁証法=一見矛盾するようにみえるA/Bも、Cという高次の媒介論理によって対立/矛盾が解消される、という論法も、ときにまちがった判断の産物かもしれない」……といった、ためらいは必要だろう。そして「あきらかな序列」といった認識・直感は、たしかに時代・地域の価値観にとらわれた、限界をともなったものかもしれないことはたしかだ。■しかし、それにしても、「いたばさみ状況のもと、究極の選択を即断しなければならない(たとえば、ホロコーストのガス室おくりにするのを、自分のコドモのうち、だれにするのか、といった、おぞましい「選択」をとうた、『ソフィーの選択』みたいな状況)」みたいなときに、自己愛どうのというせまりかたは、倫理的なのだろうか? 「ソフィー」みたいな人物はずっとひきずって「選択」の是非をとうていくだろうけど、日常的に常時かんがえたら、絶対に破綻するよね。そんな倫理性をとく倫理学者の日常は、それほどゴリッパなのか? いや、形式的・論理的にそうかんがえるほかありません、というのは、ただしいだろうが、そんな真理を追究することが、社会のすみずみをより倫理的にしていくとは、とてもおもえない。■矛盾をかかえていきていくほかない、後悔をひきずって半生をおくるしかない人間存在の業の本質とか、日記にもかいたけど、文学作品や映画とかが、さんざんやってきたし、それらの表現行為より、倫理学のカント的厳密主義とやらが、高級・上質とは、とてもおもえないね(笑)。
■「倫理学も、社会の具体的な課題を解明するといった、実利的意義を挙証しないかぎり、研究費やポストなど用意しません」といった野蛮な議論が世間をおおうようになったら、ハラナも反対する(笑)。しかし、「究極的に倫理的たらんとする倫理学者だけの真善美」みたいな価値観のなかでだけ、形式的合理性の一貫が追求されるなら、それこそ「倫理学のための倫理学」にすぎないだろう。そんなもの、オタクの趣味以上にカネがかかるし、同業者以外だれにも有用性がないしろものではないか?

■ましこ・ひでのり『たたかいの社会学』(三元社)は、「土俵」にあがる/あげる、といったたとえを提示している(第5章「あいてを土俵にあげる」)。■ケンカというのは、自分の得意なルールにあいてをあわせさせた方がかちなのであって、うまくやれば、あいてをコドモ以下に無力化することができる。逆もなりたつと。世の不正というのは、強者が土俵を設定し、弱者をあがらせてなぶりものにしているという構造でおこなわれているのが大半だ……ということになる。
■中島先生にはわるいけど、この良質なカント入門書の「土俵」に、うかうかとはのれない。のったら最後、ソクラテスのように、毒杯をみずからのむハメになりそうだもん(笑)。それって、支配者にとって究極の「つごうのいいヒト」だよね。倫理的もなんでもない、俗物そのものの連中の「土俵」にあがって、なんで「ポリスのために」とかいって、殉教しなけりゃいけないの(笑)? ■「ソクラテスやカントにまなんで、きよくただしくあろう」という倫理的いきかたは、うつくしいかもしれないけど、それこそ、そういった求道(ぐどう)的な倫理観の選択自体が「自己愛」的な自己目的的追求にならないことをいのりたい。そして、そういった倫理的姿勢、人生哲学の「ツメのアカ」のんで、しななきゃいけない連中は、まず『悪について』をひもとかないし、絶対に本旨にうたれて改心することはなかろうって、あぶないけど断定したい気分だね(笑)。
■これは、20年くらいまえに、佐藤良明さんという、東大のアメリカ文学の先生(そのころの所属は東京外語だったかな)がかいた、「教育につかれてかんがえる」とかいう論文の文脈論ともつながる(たしか『現代思想』という雑誌の、「教育のパラドックス」とかいう特集だった)。教育を論じるってことは、本質的には「教育する/される」っていう場/文脈から一時みをはなさないとできない。文脈のなかにハマりこんだままでは、構造的に客観的な思考ができないと。それにもかかわらず、そういった構造がわすれられたまま、だらしなく教育論はタレながされているし、当事者である学童・生徒は文脈のなかで、わけもわからず、もがくしかない。「文脈」論をはずしたままの「外野」がガヤガヤやっている教育論議は、コドモにとって有害無益なままだ……といった内容だったと記憶している。■佐藤さんのいう「文脈」は、教育というのをはずして一般化すると「土俵」と、ほぼおなじだね。というか、「土俵」論って、佐藤先生のパクリなんじゃないか(笑)? ■ともかく、倫理学っていう「土俵」は、外野から観戦しないと、いけないね。一度あがってしまって、あつくなったら、土俵の妥当性自体がみえなくなるにきまっているもん。■ところで、佐藤先生に批判されていた教育評論家ってのは、土俵にうえにいたんでしょうかね? それとも、土俵下にいたのか(笑)? きっと、コドモとオトナっていう異種格闘技戦を観戦していたはずなのに、その土俵のルール(文脈)がさっぱりわからないまま、別個の土俵で論戦してたんだろうね。

■雑誌『現代思想』(青土社)の「教育のパラドックス」とかいう特集は第13巻12号で1985年刊行だった。■おもしろい特集だったが、いまも古本市場にはときどきでるみたい。たとえば、2005年3月3日現在だと、「書肆幻邑堂」というところが1部うりにだしていた。■本のヤマにうもれているので、ほりだして、ひさしぶりによみなおしたくなった。■ちなみに、佐藤良明さんは、最近「Jポップ」論とかで有名だけど、もともとは、「ベイトソン」の「ダブルバインド(二重の拘束)」モデルとかを紹介したり(名人芸の労作=日本語訳『精神の生態学』とか)、アメリカの思想界/文学界の動向にくわしいひととして出発している。