■ひとしごとついたので、「動機の不透明な凶悪犯罪」とか「外国人犯罪」といった、おもための「お題」にじっくりとりくむユトリができたはずなのだが、さすがに心身ともにつかれていて、その気になれない(といいつつ、3時ごろには、めがさめて、4時ごろからは、作文にかかれる態勢にはなっている。リズムというのは、すごい。笑)。なので、かるめの展開でいくことにする。 
■きのうは、「土俵にのる/のせる/のらない」といった、たとえをオチにして、倫理学者の土俵をおちょくってみた。■みけんにシワがよっているような人物をわらいものにするのは、たのしい(笑)。まさに、あいてを土俵からひきずりおろすというか、自分の土俵のうえにあげて、あいてのせなかにまわって、いいようにあしらうというか、したい放題な感じがもてるからね(笑)。■もちろん、真剣そのものの人物がとりくんでいる「お題」がみにしみるばあいは、おもわず、あちらの土俵にあがってしまうわけで、きっと、一緒にみけんにシワがよっているんだとおもう。とても、無責任な観客としてわらっているばあいじゃなくなるわけだから。
■同様に、たのしげにやっている人物の土俵も、別の意味で対照的なたちばにひきさかれるとおもう。■?一緒に土俵にあがるとか、あがらないまでも、もりあがってしまうという方向と、?しらけて、いじわるな気分で傍観するか、ちょっかいだして、土俵からひきずりだしたくなるとかの方向性だね。うーん、後者(?)は嫉妬心だな(笑)。だって、ホントは自分もはしゃぎたいのに、事情があってはしゃげない自分自身の状況にイラだって、はらいせに攻撃性を発信したくなるんだから(岸田秀 『嫉妬の時代』文春文庫)。
■さしてもりあがったわけではないので、うえの理念型からは、ハズれてしまっているが(笑)、とりあえず、?の路線にちかいかなとおもえる本は、ホームページでもふれた、内田樹さんの『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)。■主旨はいたって単純。「師」というものは、「弟子」が魅入られたように(運命的であいのような感覚で)発見するものであって、実体なんかではない。要するに「弟子」の完全な「おもいこみ」「かんちがい」でも、「結果よければすべてよし」であって、「師」の実態が空虚な存在でも一向にかまわない。人物万人によい「師」なんてものは、存在しないし、ほかの万人にとって「つまらん存在」であっても、「弟子」の直感にひらめく「運命的であい」さえあれば、それでいい。むろん、「師」にその自覚など扶養だ……てなこと。■本の大半は、その「まえふり」といってもさしつかえない展開だが、それこそ、その話芸のヒダに「運命的であい」を感じとる「弟子」もたくさんでることだろう(ハラナは、芸達者ぶりには、いたく感じいったが、既視感があったので、「運命」は感じられなかった。笑)。■特に、師匠/弟子関係、ってのが、コミュニケーション関係にほかならない、という指摘はもっともで、ここで、いわゆる「目からウロコ」の読者は続出するんじゃないか。しかも、コミュニケーションが、「まちがいなくとどけること」を目的にしているんじゃなくて、?コミュニケーションをくりかえすという反復行為そのもののたのしさを目的にしていること、?だから、むしろ「反復行為」がすぐにおわらないように、まわりみちをするような装置が用意されていること、?しかも、コミュニケーションの実態は、「まちがいなくとどけること」の正反対で、うけてが、その人数分誤解することだ、同一個人のなかで時空をちがえて複数の「読者」が共存するというをかんがえるなら、無数の「誤読」がもたらされることなのだ、といった逆説の指摘は秀逸だとおもう。■ハラナのコミュニケーション観、学習観に、かなりちかい。

■内田さんの、「学習」論に共感できる原因は、たぶん、「師匠」のエラさを軸にしていないからだとおもう。■これまでの大半の「学習」論ってのは、「オレってエラいだろ!」っていう臭気がプンプンしていたわけ(笑)。かりに、ひかえめに「浅学非才」とかいってもさ、所詮は、ものすごい水準を前提にしているとか、自分の師匠のすごさをほめたたえるって感じで、権威主義の変種なんだよね。つまり、「こんなすごい師匠にであえた自分はしあわせ」っていう自慢/自己満足、「こんな運命的なであいをひきだした自分はエラい」っていう宣伝がほとんどなんだな。■ところが、内田さんのは、「師匠の本質なんか、どうでもいいです」「問題は、『弟子』が、偶然なんだけど、宿命的な発見としかおもえない『であい』を人物/書物に感じとってしまう経験です」(いずれも、ハラナの要約)っていう論理で、「学習」の本質を表現しているわけ。■つまり、「先生はえらい」っていう直感(=多分に誤解)が、そのひと個人にとっての「師匠」の発明になるっていう指摘は、表題にダマされてひっかかった読者を、いい意味でのカモにしているんだね(笑)。■自慢ばなしオンパレードだった「教育論」「学習論」とちがった、革命的な着眼が、このみじかい表題にでているってこと自体、名人芸だな。

■ハラナ個人は、内田さんの表現物すべてをおっているわけじゃないし、みんな評価しているわけじゃない。■特に、なにか重要な指摘をするときに、身体論にもちこむ姿勢には警戒的だ(内田さんは、合気道の高段者らしい)。■たとえば、この本でも、能楽の『張良』を解説している箇所で、相手を、こちらがわの出方に対する「待ち」の状態に固着させる、「居付き」においこめば必勝だ、という着眼を「師匠」から発見するってな説明をしている。要は、きのうの議論でいえば、「自分の土俵にあげて、完全に『不確実性』にふりまわされる状況においこめば、必勝」ってことだけど、そこにあいてをおいこめるんなら、世話ないんだよね。そんな「必勝法」を抽象的にアタマで理解したつもりになったって、現実的には完全に無意味なわけ。
■あとね、ハラナはサッカーはやらないし、うちにテレビがないから、ほとんどみもしないけど、内田さんが、交換としてのコミュニケーションをサッカーになぞらえたのは、はずしているとおもう。ハラナが鈍感なだけかもしれないが、全然たとえがおもしろくないんだもん。■?反復されるコミュニケーション自体の自己満足的性格、?「反復行為」の自己目的的な遅延装置、?受信者による「誤読」ってなことを身体ゲームになぞらえるなら、サッカーなんかより、むしろ「セックス」の方だとおもう(笑)。
■ま、そんな「タマにキズ」も散見されるけど、よんで時間のムダになるヒトは、そうそういないんじゃないかな。それこそ、内田さん以上にコミュニケーション関係を熟知していて、みんなわかりきってしまっている人物か、まったくのおバカちゃんで、さっぱりわからん人物か、どちらか以外はね(笑)。

■ハラナのかきこみは、どうかな? ■ハラナ自身は、なるべく真意を誤解されたくなくて、ついつい長文になってしまうんだけど、当然、ハラナからみた「誤読」が読者数(ばあいによっては、アクセス数)のかずだけ、うまれるんだろう。■そうかんがえると、「反面教師」もふくめて、表現行為は無意味じゃないって、少々気分がラクになるね(笑)。