■きのうの2冊をよみおわれていないにもかかわらず、つぎの本数冊に手をだす。そのひとつは、岡本浩一 『権威主義の正体』PHP新書)。Amazonの書評でも、なかなか好評のようだ。それにしても、この先生、実用書たくさんかいてるね。ちょっとあやしげ(失礼。笑)。  
■社会心理学専攻の研究者で、ソロモン・アッシュの同調実験、ミルグラムの服従実験、ジンバルドの監獄実験などは、業界のひとにはおなじみのモデルだとおもう。■ハラナはみおとしたが、ジンバルドの「監獄実験」は、数年まえ日本でも公開された映画『es[エス]』の舞台だね。■ハラナは最近、ゆえあって、東欧系ユダヤ市民(アシュケナージ)のことをちょっとしらべる必要があったこともあって、権威主義研究の原点ともなった、ホロコーストをていねいにあつかった第二章がよかった。■アウシュビッツに代表されるホロコースト、それに代表される人類史上有数の集団的狂気であるナチズムは、関係者がくりかえし強調してきたとおり、単なるドイツ民族の一時的狂気などではなくて、近代ヨーロッパという理性主義がもたらした必然であり、ドイツ以外のヨーロッパはもちろん、ハンセン病患者隔離などにもあらわれた近代日本にも通底する事件だ。■それは、現在も脈々とひきつがれている、人種主義やIQ信仰をささえる社会ダーウィニズムなどを思想的な基盤にした実にやっかいな優生思想(eugenics)の産物だといえる。
■ブッシュ政権の動向を左右する新保守主義(ネオコン)は、たしかにアシュケナージたちの二世世代だけれども、そういった民族的・宗教的出自を血統ネットワークだけでかたる謀略論などに血道をあげているヒマがあったら、ホロコーストをもたらしたナチズムの世界史的意義をふかく再検討したほうがいい。テロリズム批判をさかんにくりかえす国家テロリストにほかならないイスラエル政権が、どうしてあんな風な奇怪な思想になってしまったのかの歴史的背景をしるためにも。

■それはともかく、この本は、前半と後半とで知的緊張度がいちじるしく分裂している。はっきりいえば、1?4章の前半は啓発書として、なかなかのでき。しかし、5章以下後半(ちょうど分量的にも半分)はひどい(笑)。この先生おとくいの、やくだつ実用本として、てにとった読者の大半はここに注目するだろうが、マユツバでよんだ方がいい。■つまり、大学生あたりのひとびとが前半に感動して社会心理学系の学科・大学院選択をするためには○。しかし、「あなたの会社は、大丈夫か?! 組織の病巣を抉る!」とやらの扇情的なモンクがおどる帯コピーにひかれて、ついかってしまった、そこのサラリーマンのアナタ、ダメだよ(笑)。
■結論からさきにいうと、社会心理学を専攻している大学の先生という権威をせおって、権威主義的に社会を論じてしまっているという、ものすごい自己矛盾をきたしている(笑)。最後の第7章「現代日本の権威主義」にいたっては、完全に権威主義的な俗流評論といえそうだ。■具体的には実際によんでみてほしいが、はっきりいって、オウム真理教を分析したくだり以外は、世の権威主義的な常識を反権威主義的にひっくりかえしたと、ご本人だけが信じこんでいる俗論。これを「権威主義から解放されなきゃ」と真剣にかんがえている読者が、真剣に権威主義的読書にはまってしまうという、わらえない逆説がおこりそうで、こわい(笑)。■いってみれば、権威主義のモデルをさんざん展開したあげく、ご自分で「反面教師(他山の石)」を実演されているという、すさまじいテキストとかんがえば、税こみ777円はやすい。

■でも、社会理論というのは、むずかしいね。■きのう紹介した森岡さんの『感じない男』だって、男性の大多数にあてはまるモデルなのか、って疑問はのこる。森岡さんという実例がいるという、事例問題としてはたしかでも(森岡さんが、一種暴露主義的に正直だと信じて)、こまかな点で、ほかのおおくの男性の多様性をとらえるうえで、誤解を生じさせるかもしれない。■荷宮さんの「くびれ世代」だって、あくまで荷宮さんが把握した範囲での女性の世代論であって、「それは、自分にはちょっとあてはまらない」っていう違和感をおぼえる女性はけっこういるんじゃないか? ■社会心理学や社会学、人類学、そして犯罪学のプロファイリングとかは、単なる一過性の事例、っていう現象の記述では満足できなくて、「一般化してかたれないか」と志向する。とりわけ、社会心理学とか犯罪学とかは、モデル化できなかったら無意味かもしれない(実験や、犯人わりだしが、一回きりだったら、分析の意味なくなるもんねぇ。笑)。■しかし、分類するってのは、一種の権力行使なわけで、分析されるがわからすれば、知的暴力って、感じられるときがしばしばだとおもう。分析するがわとしては、「こまかいとこ(たとえば、重力を抽象化するときの空気抵抗…)意識して除外しないとモデルにならんよ」ってのが、ホンネだろうけど、「あぶなっかしい一般化にハマってないか?」っていう、自制心はいつも必要なはずだよね。■たとえばさ、女性の被差別性を論じる女性学/フェミニズムだって、「被差別者としてのオンナ」というワクからはみだす女性たちのことも視野にいれなきゃいけないよね。生理休暇/育児休暇とって当然、セクハラ/性暴力の被害者になる危険性がオトコより数十倍(数百倍かな?)、っていう次元では、女性一般とくくる「必要」がある。でも、同時に「オンナだって十人十色、千差万別、ひとくくりにするな」っていう告発も当然の権利なわけ。これは領域/局面ごとに、どっちが妥当かわかれるわけで、同一人物の女性が場面がちがえば、ふたつが別個に適用されるべきだってことも、当然あるわけだし。
■このヘンで、自然科学と、人文・社会系とでは、モデル/分析理論/研究の意味がちがってくるよね。いまどきは、文理のカベなんてない、って、いさましい意見がはびこっているけど。