■本日は、トリとして、宮台真司さんの『MIYADAI.com Blog』からつまらなさ一段と深刻?地下鉄サリン事件から十年?(投稿日時:2005-03-01 - 08:40:31)
 
 
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■「見知らぬ者たちを信頼する」という作法が近代のベースです。でもこの信頼は根拠がない。信頼してみたら裏切られなかったからまた信頼するという循環があるだけ。この信頼に、地下鉄サリン事件は大きな損傷を与えました。
■事件後の95年6月、オウムに惹かれる若者を論じた「終わりなき日常を生きろ」を出しました。主題は成熟社会の「つまらなさ」です。でも当時の僕は、問題の深刻さを見通せていませんでした。
■オウム信者の特徴があります。まず、かつての宗教と違い、「貧病争」の激烈さを背景としないこと。次に、世を考え抜いた末の神秘主義でなく、誰にでも生じうる神秘体験に軽薄に吸引されること。
■要は、つらいのでなく、つまらないから、現実を全否定し、別の世界を夢見た。それを多くの人々が直感したから生々しく感じたのです。実は人々もつまらなさを知っていたんですよ。若者たちは「まかり間違えば、自分がそうしていたかも」と、他人事として切り離せなかったのです。
■先進国は70年前後に物の豊かさを達成、後期近代=近代成熟期に移行します。「革命で世界を変える」という発想はリアルさを失い、「システムの外」は想像不能になりました。他方、地域や家族の空洞化で社会の流動性が上昇、個人はますます「入れ替え可能な存在」になります。実はつまらなさの感覚は、こうした流れが拡げたものです。
■90年代前半から拡がる「ブルセラ・援交」の子たちに僕は「軽々と生きる」新世代の可能性を感じました。社会の流動性が高まっても、「やりようで」若者たちが感情的安全を得られると思いました。
■見込み違いでした。彼女らの多くは、疲れ、メンヘラー(精神科に通う人)になりました。人づきあいが苦手というより、つまらないから退却するタイプの引きこもりも増えました。僕は、成熟社会のつまらなさの問題をより深刻に受け止める必要に迫られました。流動性の高いコミュニケーションが与える殺伐さをどうするかです。この10年でそれが明瞭になりました。
■問題は国際的です。9・11テロはただの宗教的蒙昧ではない。実行犯は留学経験を持つインテリで、テロ組織の指導者層にも留学組や金持ちなど近代の恩恵を知る者がいます。彼らは近代を知った上で実りがないとしたのです。
■国際テロの背景に原理主義があるとされますが、核心は先進国の近代化が周辺に蓄積した「歴史的怨念」と、近代を知った上でつまらないとする「再帰的(あえて選ぶ)感受性」です。「狂信は恐い」という捉え方は誤りです。
■つまらなさは深刻です。三島由紀夫が早くから気づいた通りです。若者から見れば、政界のトップも経済界のトップもつまらなそうな顏です。トップか否かに関係なく、数少ない「面白そうに生きている人」に注目が集まります。処方箋のヒントは、生き方のモデルにありそうです。
■この十年で気になるのは、監視と排除を求める気分の増大です。人々は客観的安全より主観的安心を過剰に求め、実効性の疑わしい施策に群がります。監視や排除が不信や怨念を増加させる悪循環に無頓着で、近代のベースである信頼の構築にも関心が低いままです。「つまらなさをやり過ごすために不安を消費している」と、僕には見えます。
■退屈ゆえにハルマゲドン幻想を持ち出して不安を消費する──それがオウムでした。事件が教えたのは、そんなな生き方は危険で滑稽だ、ということだったはずです。
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【ハラナの感想】 「90年代前半から拡がる『ブルセラ・援交』の子たちに僕は『軽々と生きる』新世代の可能性を感じ」、「社会の流動性が高まっても、『やりようで』若者たちが感情的安全を得られると」おもっていたという、宮台さんの認識。「まったりと生きる」などと表現されていた新世代の姿勢は、当時あたらしい展望をみせているように、一部ではうけとめられていた。■ハラナには違和感があった。「まったり生きる」しか突破口はないのかもしれないが、ホントの突破口なんだろうかとね。
■そして、宮台さん自身が、「見込み違いでした。彼女らの多くは、疲れ、メンヘラー(精神科に通う人)になりました。人づきあいが苦手というより、つまらないから退却するタイプの引きこもりも増えました。僕は、成熟社会のつまらなさの問題をより深刻に受け止める必要に迫られました」と、認識不足を自己批判するにいたった。■「流動性の高いコミュニケーションが与える殺伐さをどうするか」が課題であると、「この10年で」「明瞭」になったというのだ。でも、すくなくともハラナにとっては、「『軽々と生きる』新世代の可能性」など感じられなかった。「20代すぎて、おやもとはなれても、ラクラクやれるか?」って、疑問がのこった。「それはオヤジ=旧世代の認識の限界」っていわれても、直感的にムリを感じたね。
■「若者から見れば、政界のトップも経済界のトップもつまらなそうな顏で」、「トップか否かに関係なく、数少ない『面白そうに生きている人』に注目が」あつまるという。■「処方箋のヒントは、生き方のモデルにありそう」という指摘には異論はない。でも、注目あつめている人物がホントの意味で「面白そうに生きている人」なのか? 注目している大衆にとって、ホントに元気ができるとか、なにかヒントがうかぶような「生き方のモデル」なのか、微妙な気がする。
■「ローリスク」で「面白そうに生きている人」などいなくて、要は、ハイリスクをくぐりぬけた少数の成功者だけが「面白そうに生きている」だけなら、それは現代版「偉人伝」にすぎなくて、「生き方のモデル」になんか、ならんぞ、ってね。

【ハラナのまとめ】
■おととしの「紅白」のトリにもなったという、SMAPの代表曲のひとつ『世界に一つだけの花』(作詞・作曲:槇原敬之)。その中核的な歌詞は「そうさ 僕らは世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい」「小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」だろう。■2003年イラク戦争をはじめとした世相と、「景気が本格的に回復することなどないんだ」とようやくきづいた大衆が、いやしの素材として、ブームをつくったことはたしかだろうが、20世紀世界をおおっていた競争原理が世界観として根底的に挫折したことを象徴的にくみあげたとも解釈できる。■「一部の勝者以外は敗者」という悲喜劇的なピラミッド。トランプの『大貧民』さながらの「零和ゲーム」の不毛さのなかで、できるかぎり頂点をという方向性に展望がない。すくなくとも、自分たちが勝者になる公算など、宝くじ的にちいさい、という、ごくあたりまえの事実にきづきはじめたということだろう。■「たえがたいつまらなさ」という事態の基盤は、現代日本のゆたかさもあるだろうが、阪神淡路大震災のような非日常で活性化するというのは、本末転倒だ。そんななかで、「劇的に展望がひらけるといった展開は、ほとんどやってこない」「自分に特殊な能力があって、周囲からぬきんでているというのは、ほとんどが勘ちがい」といった冷静な自己認識は重要だし、それで意気消沈しないための「クッション」として、『世界に一つだけの花』のような世界観はさけられないとおもう。■近年ブームとなった、金子みすヾ
(かねこ・みすず/本名:金子テル,1903-30)の詩「私と小鳥と鈴と」の最後の一節「みんなちがって、みんないい」も、同様だろう。■小企業が大企業によるコピー/併呑をさけるために、「Only one企業」「ニッチ産業」などをうたうことも、いきのこり戦術の産物とはいえ、うまれるべくしてうまれた価値観だとおもう。
■ハラナは、その価値観を、エンデの『モモ』などと同様に、たかく評価するが、ブームの背景については批判的だ。心底信じてもいないオトナがコドモに「当座のなぐさめ」を提供するような、いつわりの「いやし」のために、安易に利用するようなばあいは、単なる偽善だと。■近年「潜在的な失業者問題」としてとりざたされる、わかものや女性たちの「自分さがし」も、「ともかくはたらけ、くらいつけ」か、「自分の天職をみつけだそう」という極端に分裂した価値観しか、オトナたちが提示できないできたからではないか? 「社会(オヤ)がそこそこゆたかで、どうにかたべてはいける」という経済基盤があるなか、「たえがたいつまらなさ」という日常空間にいきる、かれら/かのじょらに、無思想なタカ派的労働観と偽善的なハト派的人生観しかみせられなければ、前者から逃亡し、後者の偽善に混乱をきたすだけなのは当然だろう。
■「少子高齢化社会をささえきれない、わかもの世代」といった、利己的な世代論は「卒業」して、自分たちの世代責任をはたしえたかどうか、オジサマがたの反省をもとめたい。