■きのうは、公共工事関連のはなしをするために、国家をあげてもりあげたいらしい「愛知万博」をとりあげたが、予想以上に反響がおおきかったので(といったとことろで、新規読者に、かたよりがあるが。笑)、もう一回だけ、つづきをかくことにする。 
■すくなくとも1970年以降に日本列島(琉球列島もふくまれるが)に展開された万博が迷走する巨大公共工事をともなっていたことは、きのう紹介した吉見俊哉さんが『万博幻想』にあますことなくかいてある。しかし、万博にかぎらず、公共工事の相当部分が環境破壊であり、税金の浪費であり、官僚層と土建/不動産/金融関係者のムラがる利権構造であることも、再三指摘されてきたことだろう。こういった構造を、ある社会学者は「土建金融資本主義」とよんでいた。田中角栄氏の亡霊は、死滅していない。ゾンビのように元気に存命中だ(先日のべたように、総量はものすごく減額されて、そのヒズミもあるが)。■「愛・地球博」とやらのコピーをかかげる今回の「環境博」も、そういった文脈をのりこえるものがあるのかどうか、財政再建・構造改革などがさけばれる昨今だからこそ、冷静に再検討する意義があるだろう。
■近年「血がでることをいとわない改革」などと、すごみをきかせた論理がまかりとおる以上、「はじまってしまったのだから、いまさら異議をだすのは、ソクラテスさんのといた民主主義的主体の理念からも、自己矛盾が生じる」なんて、もっともらしげなヘリクツはやめておこう。■補償金をふくめて、東京都という「葵の御紋」を信じてひどいめにあった業者さんはかずしれないだろうが、10年まえに当時の青島都知事が中止を決断した都市博。しかし、やめたことによって、社会が大混乱したわけではなかった。■愛知万博のばあい、ハコものはすでにできてしまっているので、ことはすんでしまっているのだが、それをいうなら、事実上の無目的ダムが聖なる空間を破壊したというアイヌ民族のうったえが形式的にはみとめられた、北海道の二風谷裁判の例もある。かりに復旧がムリにしても、「それが道義的にまちがっていた」という事実確認が公権力によってなされるのだって、無意味ではない。きのうとりげた、三里塚農民に対する運輸大臣の謝罪だって、無意味なはずがない
(ああ、そういえば、これも、都市博中止も、そして、あの沖縄での凶悪犯罪も1995年だった。もう10年たつんだね)。■それは、先日とりあげた「横浜事件」の再審請求裁判だってそうだよね。もと被告たちが全員死去していて、要は存命の遺族関係者の名誉のためにだけあらそわれてきたような再審請求にもおもえるが、それだって関係者にとっては、一生をかけるにあたいする課題なんだから。

■公共工事の構造的問題のなかで、予算配分権のねっこをにぎる大蔵官僚
(現在の財務官僚)の権力を問題にした重要な論考が1980年代にいくつもでている。■たとえば、経済学者 竹内啓さんによる『無邪気で危険なエリートたち 技術合理性と国家(岩波書店,1984年)や社会学者 梶田孝道さんの『テクノクラシーと社会運動(東京大学出版会,1988年)なんてのは、少々のふるさにめをつぶれば、いまだに一読にあたいするものだとおもう。■この2冊の画期的というか、いまだに有効な視座は、財務官僚たちの自任する客観性・中立性幻想を的確についている点だろう。■たとえば、梶田さんによれば、財務当局は、政治家や各省庁、そして国民が、利己的で自分かってな陳情とか予算請求をしてくるのを、自分たちが、なだめすかしながら、もっとも妥当な配分方法におちつかせている、と信じているらしい。だが、かれらの決断が客観的・中立的でなどあるはずがない。かみさまじゃないから、すべての論点を公平にみわたすなんてできないし、自覚がないだけで、周囲の利害にどっぷりからめとられているからね。■ところが、竹内さんによれば、かれらは、自分たちが所詮は官僚制という巨大ピラミッドの歯車にすぎないだけでなく、政治家や国民の無理解にじゃまされて、公益を追求したいという、崇高な理念を実践できずにいる、という、主観的な無力感にさいなまれているんだという(笑)。■規模はちがえど、こういった発想=カンちがいは、財務省にかぎらないのは、もちろんのことだ。愛知万博にからんだ、経済産業省/環境省あたりのお役人も、さぞや脳内麻薬が大量に分泌されたことだろう(笑)。■あと、梶田さんの指摘で重要なことといえば、中央官庁にかぎらず、大学の学部構成もそうだけど、要は、産業界など「業者」さんの利害を調整する知識、「業者」さんのかかえる難題をとく知識が集積され、生産・整理される組織であって、けっして、消費者や苦情申立人などとしての国民本位にくみたてられていないという構造。■その意味でいえば、経済産業省や国土交通省などはもちろんのこと、厚生労働も完全に「業者」の利害調整団体だし、環境省だって、あやしいよね(笑)。

■こういった、官僚たちのカンちがいを軸に、中央/地方の政治家や産業団体がムラがって「年年歳歳花相似たり」で展開されるのが公共工事なんだから、地域住民にとっては、それで雇用がふえるぐらいしか、得することがないのは、あたりまえだ。■そして、原発関連施設や米軍基地など、迷惑施設であればあるほど、雇用などをはじめとした構造的な苦境・不安をかかえる地域だったことは、いうまでもない。要は「あしもと、みて」「トコトン、利用しつくす」ってことだね。■広瀬隆さんが、『東京に原発を!』(集英社文庫)という痛烈な表題の本をおかきになったのは、ある意味当然だった。

■そんなこんなの、デタラメぶりを、列島各地からひろってルポしてくれているのが、モジどおりですが、『週刊金曜日』編集部[編] 『環境を破壊する公共事業
緑風出版,1998年)だ。■これよむと、おバカな買い物を米国にさせられている防衛庁のムダづかいとあわせて、「構造改革するんなら、このあたりが最初だろ!」と、いかりがわきあがります(笑)。
■あと、近年でた本でおさえたいのは、やはり、新藤宗幸『技術官僚 その権力と病理』(岩波新書,2002年)と、五十嵐敬喜・小川明雄[編著] 『公共事業は止まるか』(岩波新書,2001年)でしょ。■特に前者は、「技術官僚」というのを、明確化している点で重要。竹内さんや梶田さんらが、「テクノクラート(technocrat)」の直訳としてもちいていて、要は法的知識とマクロ経済学を駆使した法制官僚/経済官僚を軸に分析しているのに対して、新藤さんは、「技官」など、めだたないけど実務を最前線でしきっている「技術官僚」を分析しないと問題の本質があきらかにならないと、指摘したんだね。

■ともかく、環境保護運動も大切だけど、環境破壊に構造的にかかわる公権力の監視と、そための基礎知識はしっかりおさえたい。■そして、ともかく「コドモの代にツケをのこさない」という姿勢でいかないと、財政赤字や年金問題とおなじで、どうにもならん課題だね。■問題だらけで、アタマがいたい。