■ここ数日、リスクをともなう職種についてのべてきたが、近代社会という、空前の分業社会は、リスクの大小ではくくれない、深刻な問題をかかえている。 
■それは、売春などもふくめた、性的サービス業への差別意識である。売春のばあいは、接客のなかでの感染症や暴力というリスクが職種に対する固定化した印象を論じる際に無視できないし、同様のことは、たとえば暴力団/風俗店周辺のしごと、金融業、廃棄物処理・再生、屎尿(しにょう)処理、などをあげることが可能だろう。■しかし、一部の職種は、リスク論では、どうにも説明がつかないものがある。蔑視がはりついた職種というものが、実在する。

■BSE問題によって、食肉の安全性があつくかたられている。欧米を中心とした食肉文化がつみかさねてきた食肉用獣の育成・処理技術が、万全でないことが浮上したと同時に、よくある「外圧」問題などとしても、カンカンガクガクというふんいきさえある。以前話題にした、ICチップとか、バーコードなどによる、「トレーサビリティ(追跡可能性、っていう訳語もカタイ)」なども話題にのぼった。■しかし、平均的な「日本国民」がおそらく日常的にまったく意識しない空間・過程がある。食肉解体という作業がどこで、どのようにおこなわれているかだ。
■社会学の一部や差別問題にひととおりとりくんだ経験があるなら、かならずつきあたるだろう話題だが、「屠場」
(トジョウ)とか「屠畜場」(トチクジョウ)といわれる空間と、そこをおもにになう人材を供給することがおおかった被差別部落だ。「屠場」とはもちろん、牛肉や豚肉など食肉用獣を「屠殺」し、解体する作業場である。■マンガ家の小林よしのり氏が『ゴーマニズム宣言』で、被差別部落問題をあつかったときに屠場をとりあげたので、それではじめてしったひともすくなくないとおもう。■屠場の現場については、桜井 厚/岸 衛 編『屠場文化―語られなかった世界』創土社と鎌田慧『ドキュメント屠場』 (岩波新書)が代表的な情報源だろう。前者については、詳細な書評もでている (書評者:西田芳正『部落解放研究144号』)。書評者の西田さんものべるように、幕末以降「肉食習慣が定着した後も屠畜業への賤視は引き継がれ、肉を扱ってきた人々はその存在が無視され嫌われてきた」。「何も知らないままに『怖い』『残酷な』といったイメージを」もつなど、平均的な日本国民のおおくは、自己矛盾にみちた、そしてはじしらずな認識不足と差別意識をかかえこんでいるのである。■牛肉の安全性をうんぬんするなら、当然、あしもとの食肉加工業にもひかりがあてられるべきであり、スーパーやデパート/地下街の食品街などに、パックづめされている牛肉などが、どういったかたちで、ひび生産されているのか、とわれねばならない。ところが、栄養や食文化を維持するために屠殺し解体するという過程を無意識に視野のそとにおき、認識から抑圧し、そういった心理過程のうめあわせとして、前線のにないてを差別するのである。ふざけたはなしだ。■琉球列島には被差別部落が存在しないとか、伝統的な肉食文化圏でも、たとえば中華文明圏の「君子は厨房を遠ざく(「君子遠庖厨也」【出典:「孟子?梁恵王上」】=「徳の高い者は、牛馬や鳥が屠殺(とさつ)される場所である厨房には近付くべきではない。高徳の人が食事を安寧に食べられるようにと配慮した言葉」)といった、偽善にみちた身分差別イデオロギー(「男子厨房に、はいらず」の語源といわれているもの)とか、英米語で“butcher”が「屠殺業者,肉屋,虐殺者,屠殺する, 虐殺する」、“slaughter”が「屠殺(する)、[戦争などによって、ときに大量]虐殺(する)」、“slaughterer”が「屠殺者,虐殺者」といった語義をもつことなどをかんがえあわせると、問題は複雑だが。

■被差別部落とリンクした職種は食肉関係にかぎらず、革製品などもあるが、1978年に発足した業界団体「日本タンナーズ協会(Tanner's Council of Japan)」の「概要」が、わざわざ「この協会は、政治的なものでなく、あくまで製革事業者の団体で時代に即応しつつ業界の利益と発展のために活動しようとするものであります」とのべねばならなかったところに、問題の深刻さがしめされているであろう。■もちろん、皮革工業は、被差別部落だけでなく、おおくの大資本が参入しているわけだが、皮革業界関係者の相当部分が被差別部落と関連があることも否定できない。もちろん、肉食が一般的ではなかった「鎖国」時代、死んだ牛馬(作業用家畜)の解体と再利用を独占的にあつかう利権をもつ一方、士農工商の身分外にとめおかれた集団の系譜と蔑視が、そこにからんでいるのは、いうまでもない。

■近年、被差別部落問題は解消したという趣旨で立法化がすすめられたし、すくなくとも急速に解消しつつあり、ことさらに問題視すべきでないとする左派勢力さえあるが、結婚差別やネット上でのしつこく陰湿ないし露骨な差別は依然としてなくなりそうにはない。■西日本の一部の地域をのぞいて、被差別部落は点在しているし、都市近郊では急速に新興住宅地が展開するなかで、所在と問題がうもれてみえづらくはないっている。しかし、差別がとりあげるにあたいしない問題にまで質・量がちいさいものになったというのは、いいすぎだろう。
■以前紹介した(2005/02/22)河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス 治安の法社会学』(岩波書店,2004年)でも、つぎのように、はっきりと指摘がくりかえされていることに注意!

「日本で職業差別といえば、いわゆる被差別部落と在日韓国・朝鮮人のことを避けて通れない。まず、被差別部落については、結婚と就職の際に強い差別があったことは、証明の必要もあるまい。部落地名総監やその他の身元調査というものの存在自体が、差別の存在証明であろう。彼らの職は、歴史的に皮革産業、精肉業、葬儀屋等が主であった。地理的にも他の集落と分けられた地域に住んでいたことはもちろんである。また、生活レベルでも、1969年にできた同和対策事業特別措置法の効果が現れるまで、文字通り最低水準であった。同特法のおかげか、実は、少なくとも1990年代最後頃には、生活水準の差も、結婚差別も、はっきりと解消しつつある。しかし、職業選択に限定するならば、屎尿汲取、清掃業、土建業など、特定の職種に限定されてきた。……」(p.175)

■「1990年代最後頃には、生活水準の差も、結婚差別も、はっきりと解消しつつある」という事実認識の評価の点で、ハラナは完全に同意はできない。それに、被差別部落の地域的多様性についても、データをもちあわせていないんじゃないかという疑念もある。■しかし、反体制派とはとうていおもえない
(というより、あきらかに、秩序維持に関心がある。笑)この学者さんでも、ここまではっきりと職業差別について断言しきれていることを重視したい。

■でもって、これは、黒人差別、ムスリム差別、ユダヤ系差別を依然やめられない欧米が、近代社会という理念をおおきくうらぎっている
(その理念の本家本元、もじどおり、宗主国/輸出国にもかかわらず)という皮肉=歴史的逆説の延長線上で、「日本が近代社会でないこと」の証明になるとおもう。■だって、「能力と意欲があれば、自由に職業選択が可能である」という、お題目が空文化したままだということを意味するから。きのうきょう展開した「3K」問題は、こういった、「現存する身分差別もどき」と民族差別、職業差別と、あわせてかんがえなければならない。
■そして、これは、大量の無業者・失業者の存在が問題視され、一方で「ホームレスまで成人病にかかっている飽食ニッポン」といった差別的なコピーが問題視されないような現代日本をかんがえるうえで、みのがせないとおもう。■その意味では、これも先月おなじページで紹介した宮崎 学/大谷昭宏『殺人率?日本人は殺人ができない!?世界最低殺人率の謎』(太田出版)は、このヘンの問題をかんがえるときの、いい素材になるだろう。