■ある「かたまり」が、一応の「一体」とみなされるとき、そこには、ウチ/ソトをへだてるシキリ、つまり、境界線とか膜といった〈たとえ〉がうまれる。■それが、建築物とか国家のような空間概念として〈たとえ〉られることもあるけど、…
おおくは、一個の生命体=個体としての内部=ウチと、そこにふくまれない外界=ソトといった〈たとえ〉となる。建築物/国家系の〈たとえ〉を、「建築・地理系」と一応よんでおき、個体としての〈たとえ〉を、「生命系」とよんでおこう。
■なんで、「一応」とか、〈たとえ〉とか、もってまわったいいかたをするかといえば、意外に、この2つの「系」、相互にイメージをパクりあっていて、区別がつきづらいから。たとえば、「体細胞組織の構造」
(なんてことを、プロの生物学者や生理学者が、つかうか、しらんけど。笑)なんて表現は、「構造(structure)」っていった時点ですでに、建築物との類比が当然視されてしまっていることをしめしている。■ま、でも物理的な実体があるもの同士をくらべ、機能をなぞらえあうんなら、たいしてつみもおもくないとおもう。問題は、物理的実体なんて、ありっこない、よのなかの「できごと」のばあいだ。

■よのなかの「できごと」が、「うたかた」であり、ひとびとがみせられている幻影でしかない、なんて、文学的な表現をしているんじゃない。よのなかの「できごと」というのが、物理的実体みたいな、不動性・安定性をもった「かたまり」でなんか、ないってことが、結構わすれられているわけ。たとえばさ、「日本人」かどうかのウチ/ソト、「日本文化」のウチ/ソト、とか、かがえだすと、意外にむずかしいよ。というか、普通のアタマだと、うまいシキリなんか、みつからないはず。■たとえば、「日本人」って概念を法的にわりきるんなら、「日本国籍を保持している人物」とかいう規定でわりきれるかもしれない。でもさ。米軍統治下の琉球列島の住民って、日本人だったのか? いきがかり上、台湾籍を律儀にまもっているプロ野球の王貞治ホークス監督は、外国人か? 「ここがヘンだよ、日本人」で、あつくるしい発言をくりかえしていた「米国籍」のニーチャンは、異様に日本語がうまかったな(笑)。……ペルーでうまれたはずの日系人、フジモリさんは、実はニホンジンで、ペルーから政治亡命したさきの日本にかくまわれている。■これが「日本文化」ともなれば、エラいさわぎだ。■いまや世界の“Judo”,“Karate”も日本が本家本元といいたいところだが、たとえば、柔道の原型といわれる柔術の古武術的なかたちは、むしろブラジルにねづき、「グレーシー柔術」なんてかたちで「逆輸入」されてきた。空手の原型は琉球武術で、世界の極真会館の初代館長大山倍達さんは、在日コリアンだった
(ましこ・ひでのり『日本人という自画像』)。「国技」大相撲のはずだけど、ひさびさに「強い横綱」とよばれる朝青龍も、ポスト朝青龍といわれる白鳳も、モンゴル相撲の応用だよね。■「世界の日本アニメ」というけど、その原型がディズニーアニメーションにあることはいうまでもない。

■要は、ヒトも文化も流動をやめることはないから、いろいろいりまじるのが普通ってことだ。沖縄では「チャンプルー文化」なんてことばがあるようだが、文化が「チャンプルー」みたいに、まぜこぜになるのは、琉球列島独自の現象じゃない。世界中でごく普通におきる、むしろ普遍的な事態なんだよね。英語の母体が北部ドイツ地方に源流があっても、単語の過半数がラテン語起源のフランス語の「輸入」で、大英帝国になってからは、世界中から「外来語」を膨大にとりこんだことが辞典でたしかめられるとかね。■アメリカのニューヨークとかが、世界中からヒトをかきあつめていることは、例外的な状況ではなくて、世界の大都市が、おおかれすくなかれ、同様な性格をもちはじめているし、あれは世界中の近未来を意味している可能性さえある。世界都市Tokyoは、まさに世界中の民族料理がたべられる空間だ、という指摘さえあるし。■社会学周辺でいわれる「多文化社会」というやつだね。

■しかも、この「多文化社会」は、ごく最近できた空間ではなくて、帝国の世界都市みたいなところでは、ごくあたりまえだったといえるかもしれない。歴代中華帝国の長安とか、ローマとかは、すぐおもいつくし、幕藩体制といわれたむかしの日本列島だって、各藩の藩邸が参勤交代で滞在する屋敷=藩邸が集中していた江戸は、100万人都市だったいわれる。各藩は一応別個の独立国だったわけだから、江戸は現代でいえばEU本部みたいな空間だったかもしれない。■実際、江戸づめの武士以外は、よその藩の人間とはなしが通じなかったようだし、お伊勢参りを一生に一度できれば御の字の庶民同士は、異国人同士だっただろう。なにしろ、19世紀末の明治期だって、とおい府県は異国にちかかったかも。たとえば、戯画的にかかれているけど、漱石の「坊ちゃん」とかね
(笑)。■そこには、「生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉(かまくら)へ遠足した時ばかりである」という、「坊ちゃん」の松山いき以前の行動半径とか、「『何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい』と聞いてみたら『越後(えちご)の笹飴(ささあめ)が食べたい』と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違う。『おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ』と云って聞かしたら『そんなら、どっちの見当です』と聞き返した。『西の方だよ」と云うと「箱根(はこね)のさきですか手前ですか』と問う」といった、清(きよ)とのやりとりがえがかれている。■ちなみに「坊ちゃん」の初出は1906年。
■そういえば、都市部にすんでいないアメリカ人は世界の地理にものすごくうといし、国際社会に関心がないらしい。世界帝国にくらす、膨大なイナカ者集団だね
(笑)。まあ、メジャーリーグ・ベースボールの最終決戦が「ワールド・シリーズ」だから、アメリカ=世界であり、国外=世界の外部なんだよね。まあ、プロバスケットとならんで、世界中から、人材をかきあつめているから、一応「ワールド・シリーズ」かな(笑)。

■それはともかく、われわれは、ヒトの一定のあつまり/かたまり=「集団」を実体視しがちだ。シキリ=ウチ/ソトの区別がはっきりあるモノのように把握する。それが「建築・地理系」でたとえるにしろ、「生命系」でたとえるにしろね。■そして、ヒトのあつまり/かたまりを、あたかも、ひとつの個体であるかのように、たとえるのには、かなり危険なかおりがする。なぜなら、複数のヒトのあつまりのはずなのに、一個の人格としてまとまりのあるようなイメージがひとりあるきすからね。■で、実際、「○○県」「△△国」といったときに、それは単なる地理的な区画ではすまされない。政治的な次元では、「○○県」「△△国」とは、、「○○県知事」のもとにたばねられる県庁舎の官僚群で構成される「○○県当局」になるし、「△△国」も、「首相/大統領」のもとにたばねられる政府庁舎の官僚群で構成される「△△国当局」になる。■その延長線上で、「○○県民」や「△△国民」も、単に行政区画のなかにたまたまくらす住民とはみられない。たとえば、それは住民税の徴収対象だし、「△△国よ千代に八千代に」といった宗教的信念=ナショナリズムに殉教して当然といった国民として位置づけられる。■それは、行政区画の内部の問題にかぎられない。このページの読者は、かなりの日本語能力のもちぬしのはずだから
(笑)、「日本人」ないし日本列島に何年かすみつづけている層だろうが、その大半は、「菊の御紋」のパスポートに保証されるかたちで、日本人として信用されるし、ときには、イラクに派兵しているアメリカの同盟国ニッポンの「人質」として、監禁されるかもしれない。そんなときに、「自分は日本軍のイラク派兵に反対だ」とか、「日本政府には一貫して批判的なたちばを維持してきた」といった主張をきいてもらえるとはかぎらない。実際、そういったたちばのはずの人物が、みせしめにころされているのだから。【つづく】