■以前も紹介した件(「土俵にのる」という問題」)で、20年もまえの文章だが、東大の佐藤良明先生のかいたものは、いまだふるびていないので、再録しておこう(『現代思想 増頁特集=教育のパラドックス』Vol.13-12,青土社,1985年,pp.103-111)。
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 基本的なところから押さえていこう。まず、教育を批判する活動が、教育を軸に据えた文化のなかで営まれる、これみよがしの特権的な活動なのだということ。「批判」である必要はない。教育について何かする立場にたつ――簡約すれば、教育につく(to be about)――ことが、自動的にあなたを教育的有産階級に押し上げるからくりが意識されなくてはならない。校内暴力に走ったりする問題児たちにとって問題がどこにあるのかといえば、それは“教育”につかれた自分たちの状況をうまく語ることができない(“教育される”とは何をされることかわからず混乱をきたしている)という、まさにそこのところではないだろうか。……(pp.103-4)

 「教育」というものが、したりされたりする「行為」の一種なのではなく、生を織りあわせる縦糸のようなものだという認識に立ったとき、ではそのなかのいかなる糸の束が“教育”として、今の制度(僕たちのふつうの思い)のなかで特定されているのかということが問題になる。“教育”したりされたりするとき、僕たちはどのようなコンテキストを厳重に張りめぐらせているのか。
 「“教育”とはコンテキストについて思いめぐらせてはいけないコンテキストの名前である」というのが、僕の用意した一応の答えである。
 つまりこの書きものは、現在の教育ゲームが、「コンテキストを問題にしてはいけない」という暗黙の規則のうちに営まれていることを指摘する。ただし教育の問題は、指摘してそれでおしまい、というわけにはいかない。あなたに対して問題の所在を指摘することで、あなたを教育してしまうのだとすれば、僕には言行を一致させる責任が生じることになる。つまり、僕の口から出る言葉を「オープン・コンテキスト」のなかに逃がしていくこと。……――コンテキスト感覚を殺さないで教育を訴えるこのテキストが、テキストを単一のコンテキストでがんじがらめにしてしまわないことが最初から望まれている特権的なコンテキストのなかへ放たれる――ここにこそ、僕がいま直面している問題があるわけだ。(p.104)

 ところで「コンテキストに目を向ける」ということは、「ゆとりを持つ」ということとほぼ同義だということにお気づきだろうか。ゆとりのなかにある僕たちが、ゆとりのない人たちについて、そのゆとりのなさを云々する――事は、かほどにトートロジカルなのである。
 問題を形式的に整理してみよう。「現在の教育に組み込まれた選別作用が、教育について語れる人間と語れない人間とに分け隔てるものであるとき、教育について語ることは、よしんばそれが落ちこぼれていくものに対するシンパシーの現われであったとしても、やはりある意味で心ない行為である」。(p.105)

これらの「問題」に共通するのは、問題の外側から問題について考えることが、かえって問題を問題として固めてしまうしくみになっているという点だろう。
 問題とはそれについて考えるべきものであるということを徹底的に教える教育は問題である。一口に「問題」と言ってもいろいろなのだ。幾何の証明問題と「問題児」というときの問題は違うし、「掃除機がゴミをうまく吸わない」という問題と環境汚染問題とは違う……。後者はみんな「生きた世界」の問題である。問題が生きているのである。いくら僕たちの目に、「誤っている!」「狂っている!」と映ろうとも、システム全体の論理からすれば、“正しく”適応している――この種の“適応”はふつう「耽溺」と呼ばれるが――問題なのである。こういう問題とはつきあうほかない。こちらが一方的に相手についてしまうのではなく、つきつつかれつつの関係をを結ぶほかない。窃盗癖の少年やアル中の主婦についてなされる「あなたは間違っている」という発話には、ふつうは逆効果とい効果しかない。……“間違っている”単位が「彼ら」ではなく彼らを組み込んだ関係(コミュニケーション)のはまり込んでいるカタチであるのだったら、治療者は、その関係のなかに身を投入し、“患者”が押しつけてくる型に一度はまったうえで、その不自由な場から働きかけるのでなくてはならない。(p.105)

 僕たちは教育につかれているのだということを意識しなくてはならない。テストによって問題にされているのは生徒なのであり、テストは生徒たちについての答えを出す装置なのだというあたりまえのことを、意識しつづけなくてはならない。(p.111)
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グレゴリー・ベイトソンという、天才的な哲学者の主著『精神の生態学』の翻訳をおえたばかりのころの論考だが、いまだに、するどいというほかない。■いまでは、J-pop分析とかで有名になってしまったし(『J-POP進化論―「ヨサホイ節」から「Automatic」へ 』 平凡社新書)、そのまえは、東大教養学部のテキストの作成者としてしられたが、アメリカ文学/思想界の最先端をおシャレに紹介する、カッコいい先生だったわけですよ。■でもって、ベイトソンの訳本は、いまだによみつがれる名訳なのですね。教育論・論、というか、メタ教育論を、コンテキスト問題にまで還元した、てぎわは、ベイトソン先生直伝とはいえ、いまだにすごい。

■ついでいえば、『教育学研究』とか『教育社会学研究』といった、教育学界系の2大学術雑誌(日本教育学会/日本教育社会学会)ともに、この佐藤先生のコンテキスト論の、てのひらのうえで、おどったままだし、おそらく、おどらされているという自覚がない(笑)。■ま、意識したって、佐藤コンテキストからは脱出不能なんだけどさ(笑)。


【追記:2005/04/30】以前『現代思想 教育のパラドックス』の古書情報を〔「土俵にのる」という問題〕でとりあげたが、よみかえしてみたら、何年も更新されていない古書店のサイトだった。■こういった雑誌もふくめて、着実なのは、「スーパー源氏」らしい。■さすがに『現代思想』で検索するのは無謀だが、「教育のパラドックス」と〔シンプル検索〕をかけたら、一発ででた。そこそこ、市場にでまわっているのかもしれない。■まあ、県立図書館とか市立図書館本館などで閲覧・複写がてっとりばやいとはおもうが。