■イルカ・ショーを みた。2度めなのだが、感想はかわらなかった。■イルカは 30もの 芸を こなすまでに したてられているそうだが、その大半、いや すべてが ものがなしいものだった。
■それは、お粗末という意味ではない。■コドモたちのみならず、カップルを ふくめた オトナたち自身が単純に、「すごい」と感動する 場内全体が、コッケイに 感じる という 意味では ないので、誤解しないでほしい。■「ヒトという 存在の みじめさを、これほど 象徴的に しめす時空は ないかもしれない」と、おもいしらされるという次元でである。■イルカの みせる 身体能力と それを ささえる たぶん「知性」としか、いいようのない もの、双方が すばらしい という その事実に、いいあらわすことに 困難を おぼえるような ふかい かなしみを、ハラナは 感じたのだ。
■たとえば、2.5mぐらいといわれるイルカが、ものすごく はねあがった という 記憶があるので、水面から6?7mぐらいはあるだろう たかさに つりさげられたサッカー ボール状の標的を おびれで けりとばす。その 身体能力は すさまじい というほかない。■体格がちがうからとはいえ、最先端の グラス・ファイバーを 一流選手が 最大限に駆使しても、約6mが世界の限界で、「超人」とか「鳥人」とよばれるような ヒトと くらべると、その すばらしさは 一層ひきたつ(笑)。■もっとも 初歩的な 芸らしい、「握手」という みせものでさえ、水面から2mちかくまで はなさきを 何秒も 維持するという、その「たちおよぎ」の能力は、シンクロや水球で、一流選手がおこなっている水準とくらべれば、「ほほえましい」といった 感想で おわらせるのは、はなはだ失礼な 反応だとおもう。■ほかにも、キリモミ状に、「たちおよぎ」や「ダイブ」を演じたり、あるいは「陸に あがった カッパ」どころか、プールサイドで ブレイクダンスをしかねない身体能力も、すごい(笑)。

■ハラナは、つねづね、ペンギンの身体能力に したを まいてきたが、あれは まだ かわいい、で、ごまかせる。しかし、3mちかい体長のイルカに、あれだけダイナミックな身体能力を みせつけられると、オリンピックや ワールドカップ・サッカーなどの選手の身体能力・運動能力に感動している ヒトという種の「ダメさ加減」を痛感させられるのだ。■もちろん、飼育されたイルカのうち、芸に むかない 「ダメ・イルカ」も いそうだ。しかし、おそらく、イルカたちが、少数精鋭で えらびぬかれた「選手たち」でないことは、たしかだ。小学校の運動会とはいわないが、おそらく全国レベルからはほどとおい、中学校のクラブ活動程度の水準なのではないか?(ここの水族館の「パフォーマンス」と称する、イルカ・ショーは、水準として、たかくないのだそうだ。ある フリークさんに いわせると。笑) しかし、それでも、この水準ということは、逆にいえば、世界水準で えらびぬかれた 才能を 極限状態まで せりあいをさせて なお、イルカなどの動物には、まったく あしもとにも およばないという 冷厳な事実が うきぼりになる、ってことだ。
■いったい、「世界水準で えらびぬかれた 才能」たちが、おのれを「極限状態」まで せりあいを 演じるという ことの、意義・意味、ってのは、なんなのだろう。■「イルカたちは、サーカスの サルや ゾウ、クマ たち同様、さしずされたまま パフォーマンスを くりかえしているだけだが、アスリートたちは、主体性をもって 自己実現している」と、いう こえが 当然でそうだ。特に、スポーツ関係者やファンから。■それはそうだろう。■で、その 主体性やら自己実現の意味は? ヒトに 感動をあたえられるために? そうじゃないはずだ。それぞれの業界で、「すごい」という水準が、歴史的に形成され、そことの比較で 「すごい」が きまっているだけのはずだ。そこでは、業界内部のディープな関係者にしか「ちがい」がわからない、ある種、自己満足的に完結した世界の論理・水準が、きそわれているはずだ。■もちろん、それらのおおく、とりわけ注目をあつめる種目のばあい、テレビなど、メディアに露出するとか、それに付随するスポンサーの意識や、大衆にどううつるか、といった、ビジュアルな要素=「みせるスポーツ」としての側面が、おとせない論点だろう。■闘病生活をおくるひとびとに元気をもたらすとか、労働者や企業家たちに活力をあたえるとか、業界関係者の「景気」にとどまらない、社会現象としても、無視できないだろう。■しかし、それでも、「さして選抜されたわけではない、ただエサほしさ/保身のために、芸をくりかえしているだけの動物に、はるかに およばない、ヒトの エリートの求道(グドー)とはなにか」という、根本的問題は、のこる。
■ともかく闘技場でくりかえされるパフォーマンスは、それがスポーツであれ、格闘技であれ、舞踊であれ、マス・ゲームずきな権力者や「サーカス」ずきな大衆の、下卑た欲望の対象であり、代償行為なのだ。■それが、どんなに超人的であろうと、「なまみの人間が現実にやりとげていること」という満足感がえられるし、それは大自然のなかで本能的にいきる野生動物が、絶対に実演してくれないパフォーマンスなのだ。野生動物には、本能という生得的プログラミングの指令と自然の摂理(たとえば、重力と空気抵抗とか)以外に、なにも規制がないし、アホなヒトの観賞用に、わざわざ演技なんかしてくれるはずがないからだ。■そういった「欲望の代償行為」っていう点では、ショーをプロデュースする仕掛け人やパトロン、そして、現役を引退したコーチ・監督たちの「代償行為=権力行使」という側面も無視できないだろう。■それは、車椅子生活をおくっていたF.ルーズベルト大統領が、当時世界最高の権力をにぎっていたとか、50代後半以上の暴力団幹部や政治家が、20代の屈強の戦士・護衛たちにまもられ、あるいは「てごま」として意のままに駆使できるといった権力行使と、たぶん つながっている。

■イルカたちは、水面下/水上の あいだで 生じる、ヒカリの 屈折現象を 微調整しながら、トレーナーが なげた フリスビーを 水上でとらえるのだという。すごい はなしだ。■しかし、それは、あれほどの 心身の潜在力をもちあわせた アフリカ大陸出身者たちの 才能を死蔵させた 数世紀にわたる南北アメリカ大陸での愚行を ハラナに おもいださせる。マイケル・ジョーダンなど スーパー・アスリートはもちろん、、スパイク・リーなど映画関係者、ライス国務長官、パウエル元国務長官など政治家、エディ・マーフィーなど芸能人、おびただしいジャズ関係者、……等々、アフリカ大陸にルーツをもつ、おびただしい人材に、知性をみいださないことは、困難だ。ヨーロッパからの入植者=侵略者たちは、奴隷商人とむすんで、数千万人にもおよぶ人材を、「コトバがつかえる家畜」として、搾取したが、それは、自分たちより、ずっと心身的能力にまさっただろう「人材」の、徹底的浪費であった。■あるいは、趣味はわるいが、裁判官作家、沼正三によるSF小説、「家畜人ヤプー」がえがく、「人材」の 家畜的 搾取をおもいうかべてもよい。■もし、イルカたちは、サーカスの サルや ゾウ、クマ たち同様、さしずされたまま パフォーマンスを くりかえしているだけ」だとしたら、イルカにかぎらず、おそるべき搾取を、われわれヒトは、くりかえしてきた。■「ヒトを イヌあつかいする」などと、警官などの利用をいいあらわすが、それ自体、ヒトの尊厳のみならず、動物の尊厳を、いちじるしくそこなっている。■こういった、不安感は、ヒトを宇宙人が家畜化するとか、ロボットが反乱をくわだてるとか、さまざまな不安として、小説・映画などに、えがかれてきた。■いや、移民労働者や日雇い労働者に対する、小市民たちがかあける恐怖感・不安感は、石原某をわらえない。

■われわれは、階級・階層・身分という、ヒトの差別・搾取を、おびただしく、くりかえしてきているが、その究極のかたちが、イルカ・ショーだというのは、いいすぎだろうか。■ハラナは、自分たちより、ずっと運動能力も知力もまさるはずの身体障碍者を、やすっぽい感動でくくってしまう大衆の下劣さを、こういった構図にかさねてしまう。そして、障碍者アスリートを、そこまでスポーツにかりたてる、「パラリンピック」なる空間を、とてもすきになれない。■それは、大衆の「みたされない願望の代償行為」なって、陳腐な分析で合理化されていいはずがない。■「パンとサーカス」にしても、趣味がわるすぎる。