先日紹介した小柳晴生(おやなぎ・はるお)さんの『大人が立ちどまらなければ』(NHK出版)には、かんがえこませる一節がすくなくない。
■このまえは、人生=時間と ヒトの 情報処理能力に 限界がある以上、日々の選択肢には上限がある。社会が加速化して、ヒトの処理能力をこえてしまったからこそ「『何をしないか』という選択が鍵」になる「時間本位制」社会が やってきたのだ、という小柳さんの 指摘を おもに紹介した。■イタリアなど南欧から、北米式の「ファスト・フード」への反発として「スロウ・フード」の 運動が提唱され、その延長線上で「スロウ・ライフ」なども 一種流行といった観さえあるが、小柳さんは、その物理学的・心理学的なカラクリを くっきり視覚化してくれたといえるだろう。■「すてる技術」は、モノだけでなく、日常的な「コト」にも ひとしく あてはまる、という指摘は、「コロンブスのタマゴ」だ。
■小柳さんは、なかでも「情報」を すてることに、再三言及している。

■「情報について静脈が必要になる」=「精神的なバランスを崩すほどに吸収した情報や知識を整理したり消化したり、不必要な情報を捨てる」機能/装置が必要だ(それだけ、過剰に情報生産がなされており、ヒトの処理能力をこえている)。それが、あたらしい学校(カウンセリング)の機能だ
(「情報を捨てることが課題に」 「情報化社会の時代」の到来,pp.116-9)。■「現代は情報化社会といわれて」いるが、「それはごく入り口にすぎず、これから社会に流通する情報は幾何級数的に増え」ていくから、「これからはいかに頭の中に情報をストックしないかという知恵が生きる力になる」。実際、ヒトには自浄作用のように「毎日自動のセルフクリーニング装置が働いている」ことで、つらいことやよけいなことをわすれ、精神的破綻をまぬがれているのだが、「必要なことは体が覚えている」「くらいの姿勢でいないと、心の部屋がすぐ荷物でいっぱいに」なってしまう(「頭がゴミで覆い尽くされないために」 忘れることはいいことだ,pp.101-4)。■「豊かな時代」で「変化が激しい」社会に「応じて新しい組織がどんどん作られ、網の目のように」からめとられていく構造も無視できない。「既存の組織がその役割を終えて」も「解散することはほとんど」ない。それは、われわれが「あらゆる組織が末永く続き、今後ますます発展することを前提にしてきたから」だ。「組織がなくならないのであれば、自分のほうで関わり方を工夫するしか」ない。「豊かな時代を生き延びるには、必要を感じなくなったり興味や関心が薄れた組織や団体を離れる力がいる」。「そうしなければ時間を自分に取り戻すことはできない」。かりに「周囲の人の期待を裏切る要素」があり、「大切にしてきた人間関係を失う」「そしられる危険もはらんでいる」「だけに、行動に移すのはとても困難なこと」であっても。組織にくわわるときも、はじめるときも、時期を区切ってみなおすとか、解散する時期を決めておくのも、かしこい知恵だ(「人の期待に沿わないで生きる」組織の網の目にからめとられない,pp.209-13)。■欠乏・欠陥をおぎなうことを至上命題としてきた「工業化社会」に適応的だった「強迫性格」は、モノ/コトが過剰に生産され処理をせまる「脱工業化社会」には不適応をおこす宿命がある。周囲や自分自身との対話、柔軟性・創造性・感受性といった「内なる心の声」に鈍感になりがちな「強迫性格」から解放される必要がある。「学校教育は明治以来120年続いた強迫性を高める方向から、高めない教育へと大転換を迫られている」。しかし、それは「教師が自分自身を変えるという困難な課題に遭遇することに」なり、だからこそ「学校や教師が不登校の子どもにうまく対応できない」のだ(「強迫性格」が不適応に, 「脱工業化社会」の到来,pp.120-4)

■うーむ。全部ハラナのことをいわれているみたいだ(笑)。情報、とりわけ 本とメールが、すてられない。「脱工業化社会」「情報化社会」「時間本位制社会」等々に不適応な「強迫性格」そのもの。このウェブログの更新自体が、その象徴だ(笑)。■小柳さんによれば、「学生相談」のほとんどは、「過度の強迫」によるもので、対人恐怖、アパシー、摂食障害の背景にもなっているという。■ハラナは、「強迫的」に しごととか 目標に のめりこむことで、かろうじて破綻をさけてきただけのようだ(笑)。いやいや、わかいころ、強迫的に献血をくりかえしたり、大量にのみくいしては過激な運動で過剰カロリーを消費するといった、「体育会系摂食障害」とでも、よべそうな 時期が たしかにあった。

■ハラナの いきかたが、周囲に喜劇的にうつるとしたら、それは 現代社会が「脱工業化社会」に移行しつつある過渡期(かとき)で、いろいろ矛盾をきたしていることの 忠実な表現なのかもしれない。あたらしい構造が はしりだしているけど、ふるい構造も なくなっているわけじゃなくて、依然「現役」のまま。新旧の共存しがたいシステムが、たがいにギシギシ おしあい へしあいを くりかえしていると。■ハラナの心身の ギクシャクぶりは、現代社会のユガミの象徴的なのかもしれないね。
■そういわれてみると、毎日更新しつづけている、このウェブログの文章も、なにやら「強迫的」にあつめた過剰な情報を処理する「静脈機能」をはたしているようにも、みえるね。「強迫性格」の象徴的表現であると同時に、自己調整装置か……。■そうすると、読者は 無言のカウンセラー。ウェブは、「命の電話」か(笑)? 
■毎日(?)ご覧になってくださる お客さま、ありがとうございます。■ところで、みなさんも、ここでよんだ過剰な情報は、わすれてください。きっと大事なことは、カラダが おぼえています(笑)。