■経済学や社会学からすれば、教育産業というのは、サービス商品の提供によってなりたつ業界である。かりにそれが、民間企業ではなく、公教育といった税金を財源にした公共サービスによってでも、その本質にちがいはない。■こういった観点について、かなりツッコんだ実践をされている先生を発見した。
■リンク集にものせた Kさんは静岡県で公民科を担当されている現役の先生だが、かなり気あいがはいっている。■たとえば、ある日のウェブログから(「専門の軽視」)。
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 私は現在『現代社会』と『政治経済』『倫理』を教えている。私はこれだけでも多すぎると考えている。皿を三つも回して、あげくに総合学習をもつ、分掌の仕事もある。これはデタラメである。顧客というコンセプトをまじめに考えれば教える物は一つである。あたりまえである。この当たり前がこの職場ではまったく通らない。私はいつも、こう考えている。週に何回ちがう授業をやるのか、この数が少なければ少ないほどいいのだ。それが〈まじめな仕事〉であり、顧客への〈配慮〉なのだ。しかし、現在の学校には生徒の存在はこと授業については存在しない。個人の趣味で、俺の授業が聞けねえのか、なのだ。そう、武士と百姓の関係の露出である。
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■「武士と百姓の関係の露出」。いいですねぇ。この表現。公教育の本質をグサリと、ついている(笑)。■「個人の趣味」というのは、大学の ある種の 講義については、完全に あてはまるが、小中高の 現場では、校長先生や教育委員会の 統制の程度次第というところだろう。かりに、まったく おなじカリキュラムであろうと、なまみの教師次第で おおちがいに なることも、たしかだ。可視光線とはいえ、アカから アオムラサキまで バラつくみたいにね。
■「『現代社会』と『政治経済』『倫理』を教えている。私はこれだけでも多すぎると考えている」との 認識。やっぱり、まともな高校の先生だったら、そうかんがえるよね。だって、大学の教養教育の科目名を対応させるなら、「社会学」「政治学」「法学」「経済学」「倫理学」「哲学」「思想史」てなところか?■大学の先生なら、これだって、おおざっぱすぎる くくり、って かんがえているだろう。だって、学部だったら「労働社会学」「国際政治学」「労働法」「労働経済学」「西洋倫理学」「西洋哲学史」とかいった科目名になるだろうし、実際には、そこで 担当者の専攻や そのときの趣味で、「俺の授業が聞けねえのか」が展開されること自体、問題視されている(笑)。バランスよく概論が展開されるばあいもあるけど、それは 実は、自分の専門に それなりの自尊心がもてる程度に 自信がある研究者が、「教員」としての役割をわきまえて、自分がテキストをあんだりしながら 講義を設計するばあいだよね。「労働社会学」とか「国際政治学」っていったって、それだけで学会がつくられるぐらいだから(「日本労働社会学会」「日本国際政治学会」)、その学会大会の分科会とか かんがえたら、そのなかに、たくさんの下位分野があるだろう(たとえば「日本国際政治学会2004年度研究大会分科会プログラム」)。「政治学」といった大分類になれば、なおさらだ(2004年度日本政治学会総会・研究会)。■単純なことだ。ひとは専門人には なれるけど、「ひろく/ふかく」など、超人わざ だからね。でもって、高校の「公民科」という大分類のなかには、『現代社会』『政治経済』『倫理』と みっつもあって、そのなかの『政治経済』ってのは、「政治学」と「経済学」を あわせもっているってことだから、信じられないぐらい「広域」だ(笑)。たとえば、早稲田大学などをはじめとして「政治経済学部」ってのは、たくさんあるだろうが、どこだって、多彩な教授陣だけではカバーしきれず、大量の非常勤講師を外部から調達して、カリキュラム全体を なんとか成立させているにちがいない。■ところが、高校の「政治経済」という教科は、それを、高校生あいてに、教養教育/普通教育として、概論・イントロをやれとはいうけど、ひとりの教員に担当させるという。それどころか、いくら有能であっても、『現代社会』『政治経済』『倫理』を兼務させるなんて、不可能だよね。■だけど、現場では、公民科の免許をもっていれば、当然担当させるってハラでいるし、現にそうなっている。いや、それどころじゃない。
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 去年の夏、県の教科研修会で主事が「『倫理』を設置している学校が減っています。ふやしましょう」と呼びかけていた。その時に事例発表として『倫理』の報告をした人が何と「世界史」担当で、何年も『倫理』の授業をやっていないというのだ。
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■この、「事例発表として『倫理』の報告をした人」が、公民科と地歴科双方の免許をもっているのかどうかは しらない。■しかし、「政治経済」だけで、収拾つかないぐらいの「広域」なんだから、同様に広域のはずの「倫理」と「世界史」を、かけもつかもしれない、という事態が、なんら問題視されていないらしいことは、あきらかだ。すごいハナシだよね(笑)。■実際、この心配は、このK先生自身がつぎのようにのべている。
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 私の見る限り、いま静岡県で『倫理』を教えられる教員はいない。プラトンから日本の思想まで原典にあたり、などという人間はいない。『倫理』が減少しているのは簡単な理由だ。倫理は〈適当〉にやれない科目だからだ、そして、適当にしか教えられない教育環境しかないということだ。現場は専門になど全く興味がないのだ。これが「悲しい現実」。
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■そうだよね。大学なんかでは、教養教育以外では、「西洋近世政治哲学」みたいな時間・空間・領域って3次元の限定がつくのが普通だ。でも、「倫理」ってのは、そんなワクがない。■だけどさ。ちょっとかんがえただけでも、西洋以外に東洋があり、西洋のなかに北欧/中欧/南欧ないし西欧/東欧とか、大陸ヨーロッパとアングロ・ケルティックといった中分類がある。近世の前後には、中世と近代がある。政治の周辺には法や経済、神学や文学があり、哲学ってのは、その周辺に……と、3次元の中分類(細分じゃないよ!)による周辺項目だけおっても、えらいことになる。■「世界史」だってそうだ。「近代フランス政治史」なんてのが、研究者の「ゆるい意味での専攻分野」でしょう。■下位区分であるはずの「西洋史」「東洋史」自体が、巨大すぎるし、このなかには、「中南米史」「アフリカ史」「太平洋史」など、巨大な欠落が、みのがされている。■まさか、こういった3大地域については、「大航海時代」以前は、中国史やオリエント史だけしか、存在しないとみなして問題ない「事実上の先史時代」とか、本気でかんがえているんじゃないだろうね。でも、「世界史」教科書は、そんなもんか(笑)? これだけかんがえても、「世界史」担当教員というのは、狂気のさただし、生徒にあてがおうという発想が、誇大妄想以外のなにものでもなかろう。
■そういった、誇大妄想的「倫理」とか「世界史」を、また兼務させようっていうんだから、高校教員ってのは、さぞや人材豊富なんだろう。
■しかし、それにしてもだよ。「プラトンから日本の思想まで原典にあたり、などという人間はいない」って指摘は、大学の思想史の先生への痛烈な皮肉ですか(笑)?■うえに のべたとおり、西洋思想史(=ヨーロッパ全思想通史)って発想自体が誇大妄想的だよね。教養科目の受講生でも、文学部の哲学科の基礎科目でもいいでんすけど、授業ノートづくりに、「プラトンから」「原典にあたり、などという人間はいない」なんじゃないですか?
■K先生いわく……
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■現在教材準備で読んでいる文献■

【政治経済】
? 岩井克人『会社はこれからどうなるのか』(平凡社)
? 山田昌弘『希望格差社会』(筑摩書房)
? 松原隆一郎『消費資本主義のゆくえ』(ちくま新書) 
? 佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書)
? 玄田有史『仕事のなかの曖昧な不安』(中央公論社)
? Michael Hardt / Antonio Negri , Empire Harvard University Press   

このうち、?は夏から断続的に読み、現在4回目の通読と部分読みをし、このなかの岩井の論理を基本にいま、経済の授業を組み立てている。??は一度は通読している。?は原文で読んでいる。大変刺激的で、議論を巻き起こした問題作だ。本当はこの本だけを今は読みたい。残念ながら時間がなく、一日2ページほどづつしか読む時間がとれない。

【倫理】
? ホッブズ『リヴァイアサン』(岩波文庫)Thomas Hobbes, Leviathan Oxford World's Classics
? ロック『統治論』(『世界の名著』所収)
?は部分的には英文に当りながら読んでいる。

【現代社会】は貯金暮らしである。

かんたんに本の名前を並べたが、古典を読む作業はそんなに容易な作業ではない。授業の進度のペースと古典を読むペース、さらに、それをもとにノート事項を抜き出し、ワード化する作業、それをさらにパワーポイントに置き換える作業。ほとんど発狂寸前の時間との戦いなのだ。早いところこういう生活とおさらばしたい、これが妻にぐちる私の口癖だ。私はふだんの授業があるときに、自分のための読書をすることはほとんどあり得ない。
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■リッパの一語につきる。■でもさ、プラトンの原典は古代ギリシア語で、トマス・モアはラテン語だったよね? インド哲学・仏教の原典はサンスクリットが必要で、儒学・道教は漢文だ。「いま静岡県で『倫理』を教えられる教員はいない」じゃなくて、「日本中はおろか、世界中の大学人(思想史研究者)にも数十人といない」んじゃないか(笑)?■たしかに 言語学者やマニアだったら、この水準の御仁は 世界中には何千人も いるかもしれない。しかし、思想史・哲学史の通史的概論ノートやパワーポイント、テキスト作成とかを目的として、主要な古典的作品全点に原語であたる(不明な箇所だけの チェックって 次元でなく)人間など、到底いるとはおもえない。いたとしたら、それこそ狂気のさただ。■能力的に可能な人物がいるとしても、一高校教員として、公務・雑務の あいまにできるような しろものじゃない。大学人のように、じまえの講義ノート/テキストづくりが自明視され、そのための研究時間が保証されている身分であっても、そんな誇大妄想的な授業準備などしないだろうし、まともな精神構造をもっていたら、「そんな総花的な講義を半年や1年でやるのは、狂気のさた」と、判断するだろう。■「サービス商品としての授業」としては、生徒の興味関心をふくめた「能力」と 世間の注目度なんかを 考慮した「取捨選択」っていうより、「厳選」と「割愛」による「精髄」だけになるとおもう。■「いや、精髄抽出目的の厳選のためにも、主要古典の原典に……」とか、たどりついてしまう御仁は、やっぱり勘ちがい、されているんじゃないか。そんな「ニーズ」、いまどきの高校生に 「市場」を形成していないからだ。戦前の旧制高校ならともかく、大手予備校の「東大文系Sコース」とかだって、「市場」たりえないんじゃないか? だって、20年ちかくまえだけど、「いまどき、東大文化三類からインド哲学とかに進学する人物は、大半が研究者志望(産業界・官界への野心など超越している)……」って、東大生からきいたぞ(笑)。