▲さて、きのうに つづいて、K先生(高校公民科)の激白を素材とさせていただく。
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■FAという空疎■

 私は周囲の親しい教員に、今回からはじまった本県の高校教員のFA制度で、教科では僕ぐらいじゃないの該当するのは県下でも、などと傲慢をかましている。相変わらず現場は今年は一年担任だから『現代社会』で来年は『世界史』で、ととんまな、まったく生徒の方向を向いていない教科分担を行っている。地歴と公民とをわけ、それぞれ独立、とした画期的な文科省の〈善行〉をまったく理解できず、あいかわらず「社会科」といい、奇妙なナルチシズムに酔いながら何年やっても受験参考書程度の空疎な羅列しかできない自分の能力とむかいあえないでいる。FAなどできるわけがないではないか。

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▲きのうも のべたとおり、「倫理」とか「政治経済」、「世界史」といった教科自体が、誇大妄想的に「広域」だとすると、「公民科」「地歴科」は、双方とも、一層異様な分類ということになる。▲人文地理学と歴史学の交差領域とか、自然地理学の歴史的研究といった領域があることは当然として、「地理・歴史」領域双方の兼務なんてのは、「世界史」のことだけかんがえても、妄想的だよね(笑)。▲たとえば、「地理」の教科書・参考書・資料集のあつかっている範囲は、単なる「地誌」なんかじゃなくて、民族学、国際政治学、国際社会学、地域経済論、地政学、……などなど、それこそ 博覧強記の 御仁でないと、とても やれそうにない「広域」だ。▲大学の科目や研究者の専攻が、普通「時間・空間・領域って3次元の限定」をうけていて、それが「中分類」水準であっても、そして周辺領域だけ さらっても、エラいことになる。逆にいえば、1個人がカバーできる領域なんて、たかがしれていて、それこそ、「概論」をやろうなどと構想したら、責任が全然もてない(二次文献さえ充分にあたれない)領域=欠落部分が 広大なかたちで とりのこされることになる、ってことは、きのうも、のべた。▲K先生、「倫理は〈適当〉にやれない科目だから」、開講コマ数がへっているのだ、とおっしゃったし、たぶんそうなのだろう。けど、「古典」にさかのぼる必要が一見なさそうにみえる、ほかの教科も、本質はおなじで、「〈適当〉にやれない科目」なんじゃないか?
▲ところで、「地歴と公民とをわけ、それぞれ独立、とした画期的な文科省の〈善行〉をまったく理解できず、あいかわらず『社会科』といい、奇妙なナルチシズムに酔いながら何年やっても受験参考書程度の空疎な羅列しかできない自分の能力とむかいあえないでいる」というセリフは、高校の先生のあいだでは、「傲慢(ゴーマン)」にきこえるのかもしれない。しかし、むしろ「地歴と公民とをわけ、それぞれ独立、とした」程度で、「画期的」「善行」なのですか? と、外野が心配になってくる(笑)。「ホント、ダイジョーブデスカ?」 ▲と同時に、中学校の教員免許は「あいかわらず『社会科』」なんですけど、「ホント、ダイジョーブデスカ?」と。「中学校は義務教育だけど、まぁコドモあいてで、高校は後期中等教育段階で専門分化する、って解釈でいいんですか?」ってね。
▲それにしても、「何年やっても受験参考書程度の空疎な羅列しかできない自分の能力」ってのは、なんとなく想像がつくけど、「あいかわらず『社会科』といい」つづけられる誇大妄想的な神経は、ハラナには理解不能だ(笑)。▲もっとも、妄想たくましくするならば、?「空疎な羅列しかできない自分の能力とむかいあえないでいる」という自己認識の欠如があるからこそ、?「奇妙なナルチシズム」と「誇大妄想」が維持され、?「顧客というコンセプトをまじめに考えれば教える物は一つである」という当然の結論が無視され、?「武士と百姓の関係」に酷似した「個人の趣味で、俺の授業が聞けねえのか」風の授業がくりかえされる……、って感じか。▲「適当にしか教えられない教育環境しかない」「現場は専門になど全く興味がない」……と、いわれても、想像される構図は あまりに殺伐としている(笑)。


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■必履修という規制■

 必履修という規制をはずされたら、これを考えてみよう。私は比較的生徒の評価が高い。しかし、現実はあくまで必履修という規制に守られているからだ。私はどうみても、生徒がこころから聞くレベルに自分の授業が到達しているとは思えない。私の場合『倫理』くらいである。独立しても、進学校の生徒の需要をたぶん、規制なしでも獲得できると思えるのは。私の力では規制をはずされたら、非進学校の生徒は絶望的である。
 私は現場でこれを説得することはあきらめている。ムダである。いま、だから全力で行っているのは、制度として専門に純化できる制度を確定し、人事で専門を純化せよ、と管理職に迫ることである。そして、その上で、生徒の授業評価を外部化する形で徹底するのだ。そのなかから、本当の意味の職場の能力の保持と言う問題がでてくるだろう。

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▲専門学校や受験塾でおしえられる「受験科目」は、一向に人気がおとろえない、っていわれている。要は、専門学校とか私塾ってのは、「必修科目」だけに対応していることになる。▲そこいくと、公教育で「受験科目」じゃないのは、きついよね。いわゆる「内申書」といわれるものなど、「受験科目」でない教科の先生の授業が成立するように、教育界あげて「互助会」をくんだ結果って、感じさえしてくる(笑)。授業態度とか提出物とかね。
▲大学でいう、1年生むけの語学や体育が必修で、しかも「出席重視(欠席回数が3つになったら、自動的に不可とか)」とかも、「そうでもしないと、無気力になりがちな学生を出席させられない」って、不安があるからだとおもうけど、それににてるな(笑)。▲はっきりいって、日本国憲法をふくめた教職関連科目とか、語学・体育とか、学部教授会で必修とされている科目とか以外で、「顧客満足度充分」というなかみだけで、何十人もの学生さんを「集客」できる先生は、ほとんどいないんじゃないか(笑)?▲だってさ、大学だって、医学部をはじめとした理科系学部とかを中心に、資格取得とかもふくめて、履修単位の種類・量が相当きまってしまっているところだけなんじゃない? 学生さんが、まじめなのは。でも、それて、主体的に「まえむき」ってことじゃない。逆に、マスプロ教育がずっと問題視されてきた、法経済系学部なんかの講義は、「必要総単位数がきまっているから」「そこが、まだ時間割で、うまっていないから」っていう、消去法的な動機で選択されているだけでしょ(笑)?
▲それからすると、「私の力では規制をはずされたら、非進学校の生徒は絶望的である」って、自己評価できる冷静さは、たいしたものだとおもう。▲そうなんですよ。大学だって、語学・体育で、「必修」って シバリはずしたら、「開店休業」スレスレにおいこまれるひとも、かなりでそうだ。すくなくとも数人しか「お客」がこなくて、完全に採算われ、って先生が続出するとおもう。ハラナがおもうに、もしそんなことになったら、語学・体育の先生は半減以下になりそうな感じ。▲それからするとさ、中学・高校の教科担当の先生がたって、「必修」という規定で、「顧客」をしばりあげているから、失業せずにすんでいるんだよ。私立学校だって、所詮は、指導要領などで、「これとこれは、かならず履修しなさい」と、ほとんど「アラカルト」を否定している編成をとっているから、先生がたは安泰だし、はっきりいって、「東大合格者数」を学年・学級ごとに競争させている、某私立みたいな、「受験狂争校」みたいな空間以外、競争らしい競争が存在しないんだよね。▲私塾と安易に比較されて 公立中学の先生などは、「企業努力にあたるものが みられない」とか、暴言をはかれているけど、「東大合格者数」とかいった数値目標を課せられた 異様な空間以外、私立学校だって、「顧客満足度」にむきあった、教科カリキュラムを真剣に検討なんてしてこなかったとおもう。■そんなことを 実際に やっているのは、単位制高校ぐらいなんじゃないだろうか?

▲でもって、文科省の卒業のための必要単位数の規定とかにもたれかからず、しかも「資格試験」とか「上級学校進学」といった「エサ」ぬきで、ホントに「顧客満足度」を追求できているのは、「カルチャー・センター」ぐらいでしょ(笑)? ▲それは、英会話とかフラワーアレンジメント、源氏とか古今和歌集、……といったぐあいに、主婦と退職者+α の趣味・自己実現幻想をみたす一群だけになる? でもって、これは、意欲のある層が、ちゃんと「市場」を形成するっていう、本屋さんでいうと、 まあ「うれすじ」のコーナーだけしか、のこらないわけですよ。▲だって、自分の人生・職業・趣味に直結していない、「市民的素養」「国民的伝統」なんて、十代の わかものが、すすんで やりたがるはずないよね(笑)。「なにをやっていいか 無知だからこそ、いろいろある、って、おしえてあげる必要がある」とか、「コドモには本能として、知識欲がうめこまれている」なんて、ねごと いうなよ、って(笑)。

▲とはいえだよ、「制度として専門に純化できる制度を確定し、人事で専門を純化せよ、と管理職に迫ることである。そして、その上で、生徒の授業評価を外部化する形で徹底する」って、方向性、いいんだろうか? ▲だってさ、高校の先生よりあきらかに専門分化した研究者集団であるはずの大学で、これが可能なのか、かなり微妙だもん。はっきりいってさ、50代以上の先生で、こんな体制にたえられるひとは半分もいないって(笑)。だって、大学の先生で、在任中、共著でさえ一冊も教科書かかずにおわっちゃうひと、すくなくないんだよ。単著で概説書や入門書をかくひとは、実は少数派だ。別に、自分でかかなくなって、同業者の作品が自分の勤務校の受講生に、ドンピシャなら、それに補足説明するかたちでの授業もありだけどね。教科書選定が一任されている点が、大学教員の特権であり、専門性の証明でもあるのだから。▲でもね。だからといって、独力で教科書がかけないような人物が、担当分野で、入門者に対して「顧客満足度」充分な概説ができるという可能性がひくいことは、予想できるよね。
▲ところで、大学の先生ができていないことこと。K先生が失望されている日本の高校で、可能ですか?▲フランスでは、先日紹介した オンフレみたいな哲学教師が、リセに いたりするようだ。日本の高校よりは、ずっとずっと専門性が追求されているんだろうけど、オンフレなみの教師って、やっぱり ごく ひとにぎりなんじゃないかな。▲もちろん、ハラナも 大学の「般教」や フランスの リセあたりの 「哲学」「社会学」とかを お手本に、高校の先生方が、「倫理」や「現代社会」あたりの 専門性確立をはかり、と同時に、「市民的素養の基盤になるべき 十代という時期が どうあるべきか」を 「必修」っていうシバリぬきで、やれるかどうか、模索されることには、大賛成だ。
▲K先生の「私はどうみても、生徒がこころから聞くレベルに自分の授業が到達しているとは思えない。私の場合『倫理』くらいである。独立しても、進学校の生徒の需要をたぶん、規制なしでも獲得できると思えるのは。私の力では規制をはずされたら、非進学校の生徒は絶望的である」という認識は、すばらしい。▲受験とか将来像とかが、わりと すっきりきまりがちな「進学校の生徒」の 動機だけは、なんとかなるけど、って謙遜=自負をもつ先生方にしか、たしかに高校現場の改善はありえないだろうし。

▲ともかく、教科書と指導書がそろっていて、それで「お茶をにごせばいい」って、放任されているからっていって、「何年やっても受験参考書程度の空疎な羅列しかできない」先生は、「退場」すべきだろう。▲そんな姿勢で、税金や授業料、ムダづかいするなよ(笑)。


【補足】昨日の文章について、K先生による訂正があったので、転載させていただく。

「原典にあたる」という文言ですが、不正確でした。私が申し上げたかったのは、原語原文などというレベルではもちろんありませんよ。翻訳でいいのだ、いや、せめて大学を含めて10年程度英語に触れてきているのだから、せめて英文程度には触れたらどうだ、というくらいの意味で原典にあたる、それさえ、高校現場ではできていない、そういう人間が『倫理』を教えている……(以下略)」