■「文化資本(capital culturel)」とか、「テクノクラート(technocrat)=技術官僚」は、日本語辞典にも収録されるような程度の術語である。■フランス語起源で、社会科学系の用語としては、かなり あたらしい部類にはいるだろう。そのヘンが、「プチブル」とか「クー・デタ」とかとちがう点だ。日常会話にまぜるような イヤミな連中は、大学で経済学や社会学などを専攻のセンセーたちぐらいだろう(笑)。■が、そういった術語をつかわないにしても、それに ほぼ対応する概念は、しょっちゅう議論にのぼっているのではないか? たとえば、「教養」とか「学力」、「エリート」とか「官僚層」とか。
■学校の先生を中心に、最近コメントが急増したが、結局のところ、ひろい意味での「テクノクラート」と その「予備軍」にあたる層を 選抜する 原理の 合理性があるのか? 日本の教育制度やエリート選抜制度は、ゆがんでいないか? そんな疑念が 中軸にあるんだろう。■企業が 一部の研究職採用を のぞいて、大学教育で 蓄積された 文化資本=専門知識を 期待していない、というのは事実だし、そういった 人事部関係者の直感は はずれていないと、ハラナは判断する。大学の さずける「実務能力」とやらが、てんで実用的でないことは、「ハダカの王様」状態だ。特に、「資格」や「現場」に即応した「実力」を養成することは絶望的な状況だろう。■しかし、ハラナは、ヘンに「実務能力をはぐくもう」とか「企業がよろこびそうな実力をつけさせよう」とか、いった 「邪念」というか、「雑念」をふりはらって、欧米のように、「教養教育」なんだと、わりきった方が、ずっといいとおもう。アメリカの大学院大学とか、フランスの「グラン・ゼコール(高等専門学校)」みたいなところで、実務エリートを養成しようと、いった ぐあいに。■ところが、現実的には、なかなか こういった「学歴主義」は、日本には 定着しづらいだろうとも、おもうけどね。それは、大学院出身ではなく 学部卒(あるいは「中退」)で資格試験に合格した層を、中央官庁や企業がありがたがる、っていう風潮が、しばらく ねづよそうに、感じるからだ。「修士はともかく、博士課程進学者は、リクツばっかりで、従順じゃない」と、けむたがる意識が、企業ばかりか官庁にもつよいからだ。医者などをのぞけば、博士号をもった国会議員がほとんどいないにひとしいのが常態、といった風潮も、日本ならではだ(笑)。日本ぐらい、国会議員の学歴がひくい空間は、世界中でも、マレだろう。なまえもしられないような、弱小国以外はね(笑)。■ともかく、修士号以上が エコノミストにしろ、ジャーナリストにしろ、専門人として当然視され、それをおえていない人物は、ハナから あいてにされないアメリカのような「学歴主義」の くにからすれば、日本の 専門家というのは、はなはだ ソボクで 粗野な 「現場主義」「経験主義」にうつるだろう(笑)。■フランスの グラン・ゼコール出身の 政官財および文化エリートとくらべると、専門教育のトレーニングという点でも、知性の洗練度でも、日本の「エリート」さんたちと 風格がちがってみえるが、これは 単なる ハラナの劣等感か(笑)?
■要は、日本の政官財の中軸部分は、「現在の やすあがりの教育で 充分」って、かんがえているわけ。大学への助成金や学生への奨学資金が、先進地域のなかで、突出してひくいといわれていることでもわかるようにね。■日本の政官財のリーダーたちは、理工系/医学系など、「カネの なる木」「国威・国力の みせどころ」といった領域に、巨額の「投資」は、やぶさかでないけど、「専門学校以下の 実務能力養成しか できない/する気がない大学は、ブランド機能によって 人材選抜機構として作動してくれれば、それで充分なんだ」ってね。自分たちも、大した学歴ないし。東大(学部)卒で、ピッカピカと(笑)。世界の大学ランキングで、上位には位置づけられないところがさ(理科系の先生方の研究能力は上位だけどね)。■そんな ふんいきは、当然、東大/京大など 有力大学の 学生にも つたわる。人文/社会系のばあい、一番優秀な学生は 大学院に進学しない。こりこうな学生からすれば、「大学院は、勉強オタクと留学生の うけざら」という位置づけ(笑)。たしかに、対費用効果をみれば、わりがあわないんだから、当然だよね。■学歴が 外国なみに正当に評価されないからなのか、正当に市場価格をはかったときに、それだけの おねだんなのか、それは不明だが、人文/社会系の大学院卒は、「お荷物」をせおった存在としか、うけとられていない。「研究者になれるんじゃないか?」って、勘ちがいしてしまった、少数の学生さん、あるいは、「高学歴」ってのに、幻想をいだいて修正がきかない(昨今の、急速なインフレをよみおとしている)層だけが、「知の家元制度」の犠牲者として、高額な授業料をしはらわせられると。■大学院担当の先生の相当部分、すくなくとも、人文/社会系の先生方の大多数は、相当なワル=「一種の詐欺集団」だよね(笑)。実務能力とブランドをあたえるように演出する先生方も、ヒトが ワルいが、それでも、企業が「値札」に反応する。しかし、大学院は、「あがってしまったら最後、ハシゴが はずされる」っていう空間であり、進学は まさに「ご入院」なんだから(笑)。

■それでは、こういった「非実用性」は、日本的特殊事情、いや、東アジアの「儒教=科挙文化圏」の 特殊な エリート選抜原理の 必然的産物なのであろうか? ■ハラナは、たとえば、国家公務員第?種(いわゆる上級職)の選抜試験が、実務能力と無関係とはおもわない。■たとえば「教養試験」の出題形式は、

公務員として必要な一般的な知識及び知能についての筆記試験
出題数は55題、うち25題(時事[3]、文章理解[8]、判断・数的推理[10]、資料解釈[4])は必須とし、残りの30題(自然、人文、社会各[10])から20題を選択

とある。■専門試験の「多肢選択式」は、たとえば「法律職」のばあい、「必須問題」:憲法?、行政法?、民法?の計30題、「選択問題」:商法?、刑法?、労働法?、国際法?の20題から15題選択及び経済学、財政学?から5題選択の計20題解答 となっている。■もちろん、「記述式」もあって、「憲法、行政法、民法、国際法」の「4科目のうち3科目選択」で、論述力がとわれる。

■古典的詩文の暗記、再生能力を選抜試験としていた科挙とは、完全に別種である。■実務能力と直結しているかどうかは、不明だ。しかし、特定の省庁に特化しない、「法律職」としての基礎的素養をためすうえでは、おおむね妥当なのではないか? ■これだけみるかぎり、「科挙」ないし「大学受験」などで、ある種当然視されていた「クソ暗記」主義は、通用しないし、実務から かけはなれた 「教養」が とわれているわけでないと、いうほかない。
■しかし、ハラナは、こういった出題に 問題を 感じないわけではない。■それは、「公務員として必要な一般的な知識及び知能についての筆記試験」という、一次試験の ハードルである。とりわけ、「残りの30題(自然、人文、社会各[10])から20題を選択」という項目は、あきらかに、東大など旧帝大系出身の受験生が、結局差をつけて、にげきれるような 性格を露骨に しめてしているとおもう。■私大型の受験勉強は、国立型のように、「ひろく」やっていたのでは、せりまけてしまう。早慶など、トップ層は、特にそうだ。自分の得意科目が3教科のうち2科目は 最低かぶり、そこに特化した予備校提供の 対策マニュアルに 習熟しなければ、おそらく 例外的な受験生以外、勝負にならないだろう。■そういった受験生活をおくった層は、かりに中学受験などで4教科型を経験していたにしても、旧帝大系のセンター試験/2次試験とか、「公務員として必要な一般的な知識」で、バランスよく 総合点をかせぎだすのは困難だろう。■関西圏にありながら、強烈な東大志向があるといわれる灘高校では、私学を第一志望にすると「根性なし」と冷笑されると、みみにしたことがある。かれら、受験エリートにとって、私立型の3教科特化指向は、「敵前逃亡」にうつるのだろう(笑)。■このようにかんがえたとき、「公務員として必要な一般的な知識」が、結局は東大志向の受験生活をおくってきた層にとって、非常に有利であり、とりわけ、首都圏/関西圏の中高6年間一貫教育の私立/国立の特権的ルートをへた 層が、東大合格者の相当部分をしめていること、それ以外の層は、あくまで少数派の「その他大勢」であるという状況は、ゆゆしき事態といえるだろう。
■教育社会学の専門家などにかぎらず、おおくのひとびとが指摘しているとおり、合格者層が、たとえば、遺伝子的に突出して「アタマが いい」といったことは、かんがえづらい。■首都圏/関西圏の中高6年間一貫教育の私立/国立に かよわせることが可能な居住圏を確保し、学費を確保し、受験競争に親子でとりくめるだけの、経済的・心理的・肉体的に ユトリがある層だけが、これら「特権的ルート」の 通過者なのだ。■これに、ブルデューらの「文化資本」の遺産的継承 といった、こみいった モデルを必要とするかどうかは、微妙なところだろう。しかし、先日紹介した学習塾主催者の経験則からしても、経済階層と児童の学力水準、学習姿勢には、あきらかな統計的相関があるはずだ。■そして、こういった現象を、アメリカの遺伝子決定論者のように、「オヤが アタマがよくて、高学歴で経済的にも成功し、それが、すべて次世代にうけつがれただけ」と当然視するのは、危険だろう。学校文化への 適応度に、先天的なものは無視できないが、運動能力に 家庭・地域・民族的な 文化環境が 無視できないというのも、まぎれもない事実であるのと同様に、学力水準に いわゆる家庭環境が からんでいることは、ほぼ確実だ。■俗に「エリート官僚」と総称されてきた、国家公務員第?種の「法律職」「行政職」「経済職」の出身地域・階層に、いちじるしい かたよりが みられるとすれば、それは、日本の受験文化、学校体制が はぐくんだ ゆがんだ構造だ。
■もっとも、アメリカでも、経済階層の格差によって、機会均等原則が神話であること、フランスが、パリおよび近郊の 中産階級以上から、グラン・ゼコール在籍者の大半が輩出し、政官財エリート連合をかたちづくっているといった指摘をうけるなら、これは世界的に普遍性がある構造の、「一地方版」に、すぎないのかもしれない。■「70年代に、それなりに階層間の流動が実現したのに、80年代になって、以前のような 格差構造の固定化が 再現した」との、経済学者・社会学者の指摘が妥当な総括のなのか、ハラナには判断がつかない。■しかし、いま、わかもの世代にとって、「機会均等が神話」であるという現実が厳然とあり、「スタートラインから勝負が大体ついてしまっている、できレースをはしらされている」という直感が、かなり いい線をいってしまうとしたら、これは、かなり まずい。■なぜなら、「能力的に おとっていないのに、充分な機会をあたえられていない」という不満が みちあふれるにしても、「どうせ、自分には 能力なんて ない」といった、無力感で、社会がおおわれるにしても、「機会均等」「適材適所」「業績原理」という、近代社会の根本理念が 根底から空洞化するからだ。■それは、精神的腐敗を かならず ともなうと ともに、巨大システムに対する責任感といった次元でも、「想定外の崩落現象」が くるおそれがあるだろう。