■?「古文は ニホンゴの ふるい かきことば」で、?「漢文だって、ニホンジンが かいたものは、ニホンゴ」、?「中国人が かいた 漢文だって、読み下し文〔訓読〕にしてあれば、ニホンゴ」っていうのは、普通の常識的感覚だとおもう。■ま、ハラナも、わかいころは、そう信じていた。
■しかし、いまでは ちがう。?については、おおすじで同意できるが、??については、おおはば限定つきだ。どうしてか? ■単純にいうなら、?「読み下し文は、現代日本語として 理解可能だが、古文/漢文の原典=一次テキストは、専門家以外よめないから」、?「日本人=日本語、中国人=中国語という、実体的な連続性をソボクに想定などできないから」だ。

基本的に よめないもの、了解不能なものまで、「ニホンゴの ふるい かたち」「ニホンゴの 一部」との主張。「そういった リクツを こねる 思想信条の自由は みとめるけど、それはイデオロギーでしかなくて、そんなリクツ全然説得力をもたない層が5万(いや、すくなくとも500万人)は 確実にいる(笑)」って自覚をもったうえで、言動をつつしんでいただきたいと(笑)。
■これは、なにも ハラナだけが 極論を ふりまわしているわけではない。■たとえば、古典教育に永年たずさわってきた研究者は、つぎのようにのべていた。

 生徒に対して、なまじっか「古文も日本語なんだ」などと勇気付ける代わりに、いっそ、日本語だという意識を捨てさせて、ほとんど外国語に取り組む気持ちでゼロからぶつかって行かせるという方が効果的だろうとおもわれます。
 (原土 洋「外国語としてゼロから出発する古語学習のすすめ」『日本語』1989年8月号,アルク)

■この先生、本心はもちろん、「古文は日本語の一部」って 信念を おもちだけど、家庭で古典にふれるような環境にない生徒・学生にとって、「なまじ」「日本語」といった 連続性を強調するのは、得策でないぐらい ミゾが ふかい、って、現実主義者として、提言しているんだとおもう。■で、実際、古文ぎらいで、まったく ノレない生徒の 一部には、「これって、外国語じゃん? 英語のほうが、わかるって」と、感じているんじゃないか? すくなくとも、海外帰国生の 相当部分は、こういった実感に 同意しそうだ(笑)。
■いやいや、実は、国語学者として著名な 故 亀井孝大先生も、万葉集を とりあげて、「この 日本語は 日本人に わからない 日本語 である」と、のべてらっしゃる(『亀井孝論文集1 日本語学のために』吉川弘文館)。■実際、写本は もちろん、新日本古典文学大系あたりの 活字化されたものだって、「万葉仮名」表記というのは、専門家以外、絶対に わからない(笑)。■「わからない 日本語」を ムリやり わかるように 解説をつけてもらう空間こそ、「古典」という時間なのであり、そのための要員確保こそ、日本文学科とか国語教員養成課程という 大学組織なんじゃないか?
■したがって、「ニホンジンがかいた 漢文は 日本語の 一部」って「常識」も、おなじ論理で 反論できる。■「読み下し文になっているならともかく、白文(返り点/送りガナ/フリガナぬきの)なんて、外国語にきまってるじゃん」という、漢文アレルギーの生徒の実感に、軍配をあげたいのである。■これに、古文アレルギーも かぶっていれば、「読み下し文って、結局 古文だから、よくわかんない」っていう、実感をもっているとおもう(笑)。■ハラナは、当然だとおもう。
■役立つ、って、世間のみんなが くちをそろえる英語だって、苦手な層は たくさんいて、「推薦入試やOA入試、一芸入試なんかは、英語が パスできるから、自分は そっちを えらぶ」って層が、かなりいるって、きいたぞ(笑)。実際、「わけの わからん 現代文でも、パスしたいのに、古文・漢文なんて、パスパス」っていうホンネは、私立理系受験組には、相当濃厚なんじゃないか(笑)? それからすると、大学入試センター試験から、「古典」がはずれると、「古文」「漢文」の 実質履修者は 激減すると、予想される。「英語でさえ、パス」っていう層がいるのに、なんで「日本の いにしえは、かけがえのない伝統」なんて、古式ゆかしい、文化ナショナリストが 大量生産されるとは、到底おもえない(笑)。

■さて、亀井孝先生、いわく。

 「観念としての“ひとつ日本語”は もと 明治以来の 国語政策が 教育の 実践を 媒介として 定着せしめた 虚構に ほかならない」(同上)

■ついでに、「孫弟子(?)」にあたる、イ・ヨンスク先生いわく

『国語』概念の成立過程が『日本語』の同一性そのものの確認作業と並行していた」(『国語という思想』岩波書店,1996年)

■こういった議論、「日本語概念=想像の産物」説は、ほかにも、田中克彦酒井直樹小森陽一なだいなだ(Nada y nada)、ハルオ・シラネ、といった諸氏が、くりかえし展開してきた議論だ。■こういった 一連の議論からすると、?「『万葉集から現代日本語まで、連綿ととだえることのなかった連続体』というイメージは、国学者が発明したナショナリスティックな認識わくぐみの後継者」であり、?「『道産子の北海道弁から沖縄のウチナーグチまで、日本列島/琉球列島は標準日本語を共通にいただたい方言連続体』というイメージは、上田万年など明治期の言語学者や文学者たちが発見したイデオロギー」ということになる。?まとめるなら「ニホンゴって イメージは『時空上に連続している実体』って、信じられている想像上の産物」ってことだ。■これらを ちょっと「せのびして」 かっこよさげに まとめるなら、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体(Imagined communities)」を もじって「想像の連続体としての ニホンゴ」ってことになるか?
■したがって、ハラナの見解は、特に奇矯でも突飛でもない。国語科周辺の先生方にとっては、狂人の支離滅裂な放言って、うつるだろうけど(笑)。■でもね。一応、日本語学会(旧国語学会)の会員であらせられる、安田敏朗さんとかの挑発的提言もあったりして、すくなくとも、日本語学会の首脳部は、こういった議論は、おりこみずみで、「それでも、やっぱり、コクゴが すき」っていう同好の志が つどっているみたいよ(笑)。■これで、おどろいちゃう、国語科関係者は、学界動向とかに まったく ついていっていない、不勉強な層なんじゃない(笑)? ■国語教育ではなくて、いわゆる外国人むけの「日本語教育」関係者の一部は、すくなくとも、こういった問題に鈍感では まずい、って 危機感をもっているみたい(田尻英三ほか『外国人の定住と日本語教育』ひつじ書房)。実質的な編者である、田尻先生が「外国人の定住と日本語教育を考えるための文献抄」という、詳細な紹介を1章分さいていて、便利だ。■国語科関係者は、ちゃんとよんでるのかな? すくなくとも、外国人の両親をもつ児童が まとまった数くらしている地域の小学校・中学校では、こまなか文法的知識とか、古典との連続性とかに神経をくばるまえに、自分たちが なんの疑問もいだくことなく 児童にあてがってきた「ニホンゴ」って、いったい なにものなのか、一度冷静に再検討する時間をさくべきなんじゃないか? ■日本語教員を 志望の ひとつに かんがえている学生さんを引率して、日本語教育ボランティアの実習をつづけてきた、土屋千尋先生の実践例なんかをみても、「日本語教員のやっていることは、国語科には無関係」って、おもいこんでいるのは、ものすごく問題だと、おもうけどな(土屋千尋[編著]『つたえあう 日本語教育実習 外国人集住地域でのこころみ』明石書店)。
■くどいようだけど、日本語学会中枢部の たとえば、清水康行先生とかはさ、「想像の連続体として、ニホンゴを 認識するしかない」って、よく おわかりのうえで、安田先生あたりの批判もうけいれているし、「それでも、自分たちの眼前には、『国語』っていう、想像上の共有物が実在する」って、信念がおありなんだとおもう。■ハラナがみるに、清水先生、絶対に右翼ではないが、ともかく「国語学のままでいいのに」っていう、安田先生との呼応なんかは、先年なくなった、坂本多加雄先生が「物語であろうと、日本民族という連続性を想像し信仰するほかないではないか」って、確信犯的に「あたらしい歴史教科書をつくる会」に かかわっていたのと、にたものを感じる(笑)。■キリスト教神学風にいえば、「非合理なるがゆえに、われ信ず」って、信念だね。その 意気には、感じるものがあるよ(笑)。


【付記】ほぼ1年ぶりで、冒頭部に少々加筆した。■大意には全然変更の必要をみとめなかった
〔2006/05/28〕。