■おとといは、日本のテクノクラートの輩出集団=学歴傾向と、階層・地域をからめてみた。■極端なことをいえば、?たかだか 学部卒が受験勉強で ツメこんだ程度の「専門知識」しか、基盤がなく、あとは、日常的なデータ処理をまかされることで つちかわれる、ある種、非体系的な「現場主義」の 蓄積で そのみちの専門家になれてしまっているのではないか??出身地域や階層が かなり かぎられていて、潜在的な 才能を みすごした、「適材適所」主義からの 逸脱ではないか? という 疑念に集約される。
■ともかく、「テクノクラートたちが てに している権限が あまりにも絶大であるがゆえに、わかい うちから、完全に「『ちがい』を しでかす構造に はまってしまっている」という点だ。■端的にいえば、かれら(厚労省など一部をのぞけば、官僚層のほとんどは男性だ)は、「自分たちは、社会工学的な操作者であり、そういった知識・情報・権限を あわせもつ、唯一の集団である」という、はなはだ 迷惑な「誇大妄想」である。■国家公務員第?種合格層(だけではなく、全体かもしれないが)の 発想は、「民は よらしむべし、しらしむべからず」という、基本形を維持し、HP等に開示されている情報は、「氷山の一角」だ。そして、それらが 秘匿されることは、「どうせ、まともに理解されずはずがない以上、部外秘あつかいにするしかない性格をおびている」という判断によって正当化されてしまう。■こういった「情報開示」「充分な説明にもとづく同意」といった、現代的な職業倫理が 停止してしまうのは、なにも、原子力政策や震災対策、防衛政策などだけではない。ほぼ、あらゆる 官庁組織が、「専門家の意見を充分聴取した」という、アリバイづくりのための審議会委員などに、カードの一部をみせることはあっても、それ以外の「部外者」には、当然のように 秘匿するのである。そういった姿勢は、官僚たちの 「自己防衛本能」ともいうべき「伝統」によるのだろうが、おそらく、「部外者」のなかには、政府要人や与党首脳部さえも ふくまれる。なぜなら、官僚層にとって、政治家たちは、「舞台のうえを おどらされる 俳優」、いや「あやつり人形」に すぎない「先生」だからだ(笑)。■ともかく、明治期にはじまる、高等文官試験の エートス(理念)は、それが、いかに 「新憲法」下の「公僕」イメージと、おりあいをつけようが、脈々とうけつがれているのであり、その はなもちならない「特権意識」は、まったく すりへっていないと、ハラナは かんがえる。■ハラナ自身は、歴史的経緯に そって 「現状」を すべて 説明づけようとする、いわゆる「あしき歴史主義」に くみしない。しかし、国家公務員第?種合格層に共有されるとおもわれる ?「(大物政治家さえも、ふくめた)民は よらしむべし、しらしむべからず」という発想、?「政治家や財源など、政治資源すべての 動員を 唯一まかされて しかるべき 有資格者」であるといった「現代の哲人=社会工学者」意識の 直接の「起源」は、明治の元勲たちが考案した高等文官試験にあり、その 基盤が、おそらく 幕藩体制の「指揮官」たる自負をいだいていただろう、高級幕閣たちに あることは、ハラナも 否定しない。

■以下のべることの一部は、すでに20年以上まえに 指摘されていることの 「やきなおし」でしかないが、教育体制というか、制度をかんがえるうえでは、かかせない議論だとおもうので、いとわず、とりあげることにしよう。
■数理統計学と計量経済学の境界領域を専攻としてきた、竹内 啓さんは、1984年雑誌『世界』に、「無邪気で危険なエリートたち」という評論を発表し、同名の 評論集が、同年 岩波書店から発刊された。いずれも、1980年代前半の 評論で 平易で鋭利、再読に あたいするとおもうが、なかでも、2章「無邪気で危険なエリートたち」は、出色(シュッショク)のできで、いまだ いろあせていないとおもう(竹内啓『無邪気で危険なエリートたち 技術合理性と国家』岩波書店,1984年)。
■竹内先生いわく

 技術エリート達の大衆蔑視は、自分の専門のことを知らない「素人」達に対する軽蔑、不信と密接に結びついている。素人の発言を拒否するのみならず、素人にはなるべく自分達のしていることを知らせまいとする。それは必ずしも「後ろめたさ」のためではなく、どうせ正しくは理解されないし、よけいな雑音を立てられたくないと思うからである。そこで「素人」を排除するために、特殊な用語や、微細な技術的知識がことさら重要視される。
 技術エリートの目からすれば、しばしば専門学者とくに大学教授なども「素人」視される。それは学者というものはたとえ一般理論や、最近の外国の文献には通じていても、現実に本当に行なわれていることは知らないし、また論理を現実に実現する力は持っていないからである。

■たしかに、大学のセンセーがた、審議会で「おすみつき」を あたえることはできるし、論壇誌や新聞紙上で 批判を展開したりはできても、なにも 権限は もたされない。■審議会委員に なを つらねていない大学教員など、官庁が 「トラの 子」に かくしもっている、おいしいデータ=政策に直結する情報など、「カヤの ソト」だ。「あとぢえ」で、ああだこうだ、批判をくわえたところで、現実が かわることなんて、絶対にない。要は「負け犬の遠吠え」と。■官僚からすれば「無力な クセに、エラそうに」って、冷笑しているだけだろう。
■かれら 社会工学的な指揮者/調整者からみれば、審議会委員の「ご意見」だけでなく、学界全体の理論動向もふくめて、単に 政治的に実現をみるための「道具」にすぎない。■これについては、社会学者の梶田孝道さんが、やはり四半世紀以上前に、つぎのように のべていた。

 ……大蔵官僚の場合、具体的には財政運営、景気調整等のマクロ経済システムの管理が課題であり、それに見合った形でパラダイム・用語群が採用されている。この時、財政学的ないしは近代経済学的なパラダイム・用語群は、大蔵官僚にとって対象化された社会的現実を理解するための手段であるのみならず、それによって世界を理解されるべき対象のもとへと整序づけるものでもある。しかし、このパラダイム・用語群がとらえる「現実」と真の「現実」との間には、しばしば大きなギャップが存在するのである。(梶田孝道『テクノクラシーと社会運動』東京大学出版会,p.97)

 ……「革新」系の学者や集団の主張に対して大蔵官僚はそもそも無関心であり、学者たちの主張を論理のレベルで検討することをせず、「パラダイム」の相違ゆえ、あるいは相手側が「革新」だという理由で、それを黙殺しその無効化(nihilation)をはかる。たとえば野党系学者や総評系の集団の主張は、大蔵官僚によっては「党派的」とみなされ頭から相手にされないし、「政策の体系的整合性」と重視する「現代総合研究集団」の予算編成に関する提言ですら、大蔵官僚により十分に検討されているとはいいがたい。また経済学や財政学では常に論争を提起している正村公宏宇沢弘文宮本憲一の諸氏の優れた労作も、大蔵官僚によってはあまり読まれておらず、彼ら学者たちの知的創造活動は国家財政をあずかる大蔵官僚の世界とは無縁なままに、革新系学者たちの下位世界の内部で「自己消費」されつづけているのである。これは革新系学者にとってのみならず、大蔵官僚たちのとっても不幸な事態といわねばならない。[同上,pp.100-1]

■大蔵省はともかく、いまはなき「総評(日本労働組合総評議会)」とかも 登場してきて、いささか 時代がかっては いるが、基本的に 発想法・姿勢に 根本的変化など みられないんじゃないかと、ハラナは おもう。■要は、「官僚たちというもの、自分たちの理想とする政策実現にとって つごうのよい論理だけ、つまみぐいする」ってことだ。■梶田先生、おっしゃるとおり、財務官僚のイメージが つねに ただしい、なんてこと、ありえない。たとえば、バブル経済崩壊とか、財政破綻とかみても、財務官僚たちが、各省庁や「圧力団体」の要求の調整には たけては いても、積極的に 変動に対応するとか、環境問題や公共工事などがかかえる諸問題に 積極的に打開策を 提案できるような 性格をもちあわせていないのだ。本質的に、「守りの官庁」であり、ウラを かえせば、「劇的に事態が変動するばあい、全部 後手後手に まわりかねない」ってことだね。■ところが、「自分たちだけが、健全な財政・税制理論にもとづいて、利害調整できているんだから、しろうとは、つべこべいうな」っていう意識に こりかたまっているんだから、基本的に 「きくみみ、もたず」ってことだ。みみをかしておけば、絶対よかっただろう「異見」も、たくさん あったはずなのに、ほとんど「馬耳東風」ってことだ。そんな ごうまんそのものの 誇大妄想的な過信が、どこかわ わいてくるのか、よくわからないが、ともかく、独善的な自信過剰に おちいるような「伝統」「体質」があるとおもわれる。

■財務官僚が、おそらく 一笑に付すことができないだろう、わるい先例がある。それは、昭和戦前期の 軍部エリートだ。■また、竹内先生に ご登場ねがおう。

 前例、軍部エリート――我が国の第二次大戦前から戦中にかけての体制はしばしばファシズムと呼ばれるが、それはヨーロッパのファシズムとは違って下層中産階級を基盤とした大衆運動に支えられたものではなかった。また軍部ファシズムと呼ばれていても、軍部自体は明確な政治プログラムを持っていなかったし、またその代表者とみられる東条英機にしても、本来優秀な官僚であって、ラテンアメリカや、アジア、アフリカの多くの国に見られるような、独裁者的軍人政治家ではなかった。むしろ日本において軍部の支配を推進したのは、軍事技術者としての、軍のエリート官僚達であり、東条はその一人の代表者にすぎなかった。
 その際軍部官僚達は、決して政治的プログラムを持って正字に介入したわけではなかった。むしろ彼等が自分の専門と考える「国防」の論理を、無限低に推し進めた結果、それが自ら政治も経済もすべてを飲み込んでしまうことになったのである。実はその「国防」についてすら、長期的な計画があったわけではなく、むしろ短期的にその場限りの技術的必要に対応していただけであった。第二次大戦に突入する際しても、積極的な戦争計画が欠けていたことに、現在われわれはむしろ驚くけれども、これは本来技術エリートの論理が指導理念や、真の政治の欠けたままに無限定にのさばった結果であると考えれば、納得のいくことである。
 わが国の軍部に似た技術エリートの支配が行われた例が外国にどれだけあるか、くわしい分析を行う余裕はない。しかし……ベトナム戦争を起こし引き伸ばしたのは、アメリカ軍部の技術論理であった。[前掲書:pp.59-60]

■要は、技術官僚というのは、長期展望とか不測の事態への対応とかができない、無自覚な無責任集団なのである。■自身の専門以外には無知であること(「視野の致命的せまさ」「周辺領域との整合性への鈍感さ」)を 自覚もできず、近過去の技術蓄積にうぬぼれてしまい、近未来だけをにらんだ「合理的計画・調整」しか 有能さを発揮できない。■くりかえしになるが、欠落部分を警告してくれる 周囲の諸集団がとりまき、しばしば 政策的にも合理的で破綻を回避できるような提言でみちあふれているのに、「ともかく、よけいな くちだしをするな」であり、そのためにも「しらしむべからず」の 一点ばりで、唯我独尊で暴走する危険性を、つねに はらんでいる。情報開示と監視をこばむ秘密主義で、客観的な評価をしようにも 必要な情報がそろわない以上、非常に危険な閉鎖集団というほかない。■政治家とことなって 選挙などで排除する制度がなく、もちろん 自浄能力を期待することなどできない。

■こういった こまった「独善的唯我独尊」状態の温床とは、なにか? ■ハラナは、?「東大をはじめとした学部教育が、うえにあげたような技術官僚の構造的限界を指摘するような解毒剤として機能しないこと(理科系でいえば、宇井純さんや高木仁三郎さんのような人材を構造的に排除する空気がある)」、?「基礎法学や経済思想史、社会哲学など、行政技術を 本来合理化し、ときに 正常化する作用を期待できる思想的素養を、『実務に無縁な空理空論』として 軽侮するような態度が『伝統』として、法学部/経済学部などにはびこっていること(「与党政権を道具的につかって、構想実現にかかわれない人物は、無力」と、きりすてる発想の横行)」、?「『わかとの』として、すっかり天狗にさせてしまう、キャリア官僚の育成システムがあること(所詮は、選抜試験に せりかつ程度の、そこが あさい 素養しか、受験勉強で つちかっていないのに、数年程度で 相当な 実務権限をあたえられてしまうため)」などが、複合的に作用していると、推測する。■このような、「唯我独尊」状態に、いったんそまってしまえば、20代後半以降に、たとえば欧米留学などしても、「パラダイム」をゆさぶられることはないだろうし、ゆさぶられるほど衝撃をうけてしまった官僚は、二度と「本省ムラ」の住民として、まっとうすることは不可能になるだろう。■大学院の教育機能が ナンボのモンじゃい、とは、ハラナもおもう。しかし、学部教育と選抜試験をへただけの人間が、自身の「文化資本の貧困さ」も自覚できずに、「天下国家を律し、経世済民に日々粉骨砕身している」といった、自己陶酔をゆるされる日本は、欧米はもちろん、世界でも二等国だとおもう(笑)。
■官僚どもの ハナっぱしらを ヘシおるためには、アメリカなどの情報開示制度を最大限に活用して、情報戦をしかけるしかなさそうだ。■有名なジャーナリストのみなさん、ウェブログとか活用して、やってみませんか? ■それとも、ハラナが 不勉強で しらないだけか?

■以前も、万博など公共工事がらみで紹介した記憶があるが、新藤宗幸『技術官僚―その権力と病理』(岩波書店)が指摘する、「技官」(おもに、理系の 技術官僚)の 意識も もちろん重要だよね。■公共工事にしろ、軍拡にしろ、その中核には技官たちがいたと、竹内先生もいっていた。そういえば、評論家の 長山靖生さんも、太平洋戦争での、無謀・無鉄砲な すすめられかたを評して、

 ……優秀な官僚である彼らは、予算取得や自分の部署の成績向上のために、都合のいい机上の空論や下層の数量的予測を立てるのには長けている。そうやって戦争という「事業」が動き出してしまうと、いくら赤字になるのが目に見えていても誰も責任をとらないから、どんどん広がってしまったのではあるまいか。
 太平洋戦争とは、けっきょく無意味で無駄な公共事業だったのだ……
(『若者はなぜ「決められない」か』ちくま新書,pp.161-2)

■ベトナム戦争やアフガン戦争、イラク戦争、……など、アメリカ帝国が 世界に まきちらしつづける 災厄や、日本の中央・地方の財政を破綻させる基盤となりつづけてきた 予算の くまれかたも、「技官」たちによる、「自己目的的な 膨張運動」の 必然的結果(「パーキンソンの 法則」)、と とらえると、かなり 説明が つきそうではある。