■いわゆる「真犯人」というのを、最初から特定することができるぐらいなら、世話はないわけで、そうでないからこそ、状況証拠をつきあわせた仮説のもとに、犯人像を推定、被疑者をしぼりこみ、逮捕令状を請求する。実際に、身柄を確保し、とりしらべした結果、「真犯人」でなど絶対ないことがわかる。……こういった「誤認逮捕」は、現実的にさけられない。そのように、うけとめられてきたし、法律家も それら「現実」を追認する論理を提出してきた。■しかし、死刑を求刑されている被告が無罪を主張しつづけているとか、いわゆる「死刑囚」が再審請求をだしつづけ、ときにそれがみとめられるといった事態をかんがえると、「初動捜査のミスなどによる誤認逮捕も、100%訂正できる」とは、到底おもえない。
■たとえば、先日の佐賀地裁の判決

5月12日付・読売社説(2) [佐賀地裁判決]「捜査のあり方に猛省を迫った」

 警察、検察の捜査のあり方に猛省を迫る「無罪判決」だ。
 佐賀県北方町の雑木林で1989年、女性3人の遺体が見つかった連続殺人事件で、佐賀地裁は、3人を殺害したとして死刑などを求刑された元運転手の被告に対し、無罪を言い渡した。
 判決は、「犯人であることを積極的に推認する証拠・事実は存在しない」とし「犯罪の証明がない」と断じた。
 最高裁によると、再審事件を除くと、1審での死刑求刑に対する全面無罪の判決は41年ぶりという。警察、検察の完敗である。
(中略)
 検察側が法廷に提出した証拠の柱は、事件発覚の年に別の事件で拘置中、被告が殺害を認めたとされる自白上申書だった。その後、被告は否認している。
 検察側は上申書を核に、犯行時刻に被告と被害者が接触した可能性を窺(うかが)わせる目撃証言など状況証拠を積み重ねた。
 この上申書について、地裁は昨年の公判で、「強制または誘導で作成された疑いがある」として、検察側の証拠請求を却下した。残った状況証拠は弱く、無罪判決が導かれたのも当然だろう。
 死刑を求刑するような重大事件ではとりわけ、裁判所が十分吟味できるだけの証拠が不可欠だ。公判で明らかになったのは、警察、検察の証拠収集など捜査のあり方に、看過できない問題があったということだ。
 佐賀県警は、15年の公訴時効まで約1か月に迫った2002年に被告の逮捕に踏み切った。10年以上前の自白上申書を根拠にした強制捜査に、目前の時効への焦りはなかったのか。捜査を指揮する検察に問題はなかったか。
 佐賀県警が事故死として処理した男性の水死体をめぐり、長崎県警が99年に連続保険金殺人事件として立件した。その汚名返上を期したのが、今回の事件の再捜査だった、という指摘もある。その焦りもなかっただろうか。[以下略] (2005年5月12日2時40分 読売新聞)


■少々まえのことになるが、有名な「狭山事件」の第二次再審請求における特別抗告に対する最高裁の「棄却決定」(2005/03/16)の根拠も、なにやらあやしげだ(『部落解放』6月号,pp.4-49)。

■奈良女子大の 浜田寿美男さんが、「自白の心理学」とか「取調室の心理学」といった キイ・ワードで ひかりを あてているとおり、「取調室」という、「社会学的密室」内では、被疑者は完全に孤立無援であり、弁護士などによって人権がまもられているとは、到底いえない状況にある。すくなくとも、日本の「取調室」という、「社会学的密室」内では そうだ。■たまたま嫌疑がはれた、松本サリン事件の河野さんのばあいは、不幸中のさいわいだったが、かずかずの再審請求などをみてみると、どうみでも「ぬれぎぬ」をきせられて誤認逮捕に おとしいれられ、そのあと、精神的拷問ともいうべき「取調べ」に、精魂つきはてて、ウソの「自白」を強要されたとしか、おもえない事例がいくつも、みつかる。■とりしらべにあたった 刑事や検察官が、「クロにちがいない」という先入見をもとに、イメージした「物語」にそうよう、「自白」を誘導しているとしか、おもえないのだ。■それは、各段階で弁護がわから提出された証拠などで、警察などの提出してきた論拠に、相当なムリ/矛盾点が しろうとめにも、あきらかだからだ。
■こういった問題意識は、人権水準が一定以上のところなら、当然浮上するわけで、実際、日本弁護士連合会でも、「取調べの可視化実現委員会」というのをつくって、当局に改善をもとめている(日本弁護士連合会取調べの可視化実現委員会[編]『世界の潮流になった取調べ可視化』現代人文社)。■しかし、当局の意識は、非常に ひくいのが現状だ。「密室」内で 長時間・長期間せめたてるという手法で、「真実」があきらかになってきたと、かたく信じこんでいるようだ。そこでは、取調官と被疑者の「対話」の産物としての「調書」が、ありもしない「物語」をでっちあげてしまうという、そうとしか かんがえようがない「ミステリー」がくりかえされていると推測するほかない(『自白の心理学』『取調室の心理学』以外にも、浜田寿美男『〈うそ〉を見抜く心理学 「供述の世界」から』NHKブックス)。■検察官にとっては、「密室」内で 長時間・長期間せめたてるという人権侵害そのものの手法で、どんな異常な心理においこまれるか、かんがえがおよばないというか、意地でも直視しないという、集団催眠が かかっているようだ。そんな「伝統」のなか、「公判が維持できるか」、つまり、「クロという心象を判事にあたえることが可能だ」という、判断ができた時点で、完全に被疑者の人権が軽視され、みずからの、まちがいの可能性が主観的に消失してしまうらしい。
■佐賀地裁の判決も、「再審事件を除くと、1審での死刑求刑に対する全面無罪の判決は41年ぶりという」事態とあわせてかんがえると、異様だ。「うたがわしきは被告人の利益に」という、大原則がいきているなら、もっと無罪判決がでるはずだし、こういった「41年ぶり」といった「空白」を、検察の慎重さ、などと過大評価するのは、「日本特殊論」であり、むしろ、その不自然さこそ、あらいなおされねばなるまい。
■やはり、「ぬれぎぬ」の危険性について、「うたがわしきは被告人の利益に」という、大原則は軽視され、それが裁判官にさえも「伝染」するのだろう。警察の初動捜査に、最初から「ボタンの かけまちがい」があったかもしれないという疑念は、あるとき、きえてしまうのだ。■そんな集団心理は、たとえば、浜田さんらが中心となる、「法と心理学会」の会員に検察官はひとりしかいない、といた事態でも、うらづけられる
(『世界の潮流になった取調べ可視化』p.13)。■判事の会員数は不明だが、すくなくとも四半世紀にわたる裁判官経験者のひとりが、「有罪率99.9%の影に潜む冤罪・誤判をなくすために」という、おびコピーをまいた新書をよにとうている点は、検察官との意識の格差が歴然としているとはいえまいか秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』岩波新書,ちなみに、「有罪率99.9%」のカラクリについては、本文中pp.155-7に解説がついている。)? ■秋山 元判事が「残念ながら現在の司法制度は、キャリア裁判官制度となっているわけです。裁判所は、どちかといえば、検事が言ったことを正しいと判断してしまうような傾向があるのです「(亀井静香『死刑廃止論』花伝社、2002年)」「と、警察官僚出身の政治家によって、死刑廃止論を展開する大きな理由の一つに数え上げられているのが」「わが国司法の貧困」「の現実なのである」と指摘している(pp.201-2)のを、警察・司法関係者は、はずかしいとおもわないのだろうか? すくなくとも、弁護士の良識的部分は、世界的先進国のひとつとして、につかわしくない、「野蛮な人権後進国」という羞恥心があるとおもわれる。■政治亡命者など外国人に対する人権侵害のひどさなど、「ヤバン国、Japan」は有名なのだが(笑)。

■先日ものべたことだが、再審請求がだされるような、起訴・審理は、初動捜査のあやまりにもとづく誤認逮捕という「ボタンの かけちがい」から はじまっている。■そして、相当程度、露骨に人権侵害が露見しないかぎり、その過程で生じた、被疑者の人生の損失、社会的信用の喪失など、かけがえのないものの、うしなわれかたに、権力がわの鈍感なこと。それは、松本サリン事件の誤認逮捕に対して、長野県警が正式な謝罪をおこなっていないことだけでも、はっきりしている。■権力がわの司直にとって、「こまかな まちがいまで 気にしていたら、なにもできない。そうなれば、わるい連中の、したい放題だ」という、ひらきなおり=正当化がはたらいているとしか、おもえない。なんたる、ごうまん。これこそ、「万死にあたい」するだろう。
■それは、誠意と能力をかたむけた手術ミスと比較すれば、本質がはっきりする。■前者は、「やるべきことを、おこたり、反省をしようとしない、極悪非道のひらきなおり」だが、後者は、「不完全なヒトが、人知をつくした結果の不可避の悔恨」だ。■両者の、あやまてる
人物の品格のちがいは歴然だ。■再審請求で無罪が確定した、もと死刑囚に対して、当時の担当刑事は、「判断にあやまりはなかったと、いまも確信している」といったコメントをインタビュアーにすることが、おおいようだ。■それはそうだろう。自分が「まちがえるかもしれない」という不安感とたたかうことなく、単にめをそらし、自己正当化に終始した捜査と「取調べ」をくりかえしてきたのだから。■本人は、反省がいっさいなく(くやしさは、あるだろうが)、充実した一生だろうが、そんなプライドにつきあわされて、何十年も棒にふる、あるいは処刑台におくられる、無実の被疑者は、たまったものではない。
■「誤認逮捕」を皆無にではできないだろう。ヒトは、あやまるものだから
(秋山弁護士によれば、イギリスでは無罪を主張した被告の64%にも のぼるそうで、これはこれで、問題が おおきそうだが。笑)。しかし、だからこそ、「あやまることが、なるべくないように、『うたがわしきは、被告の利益に』原則に、たちかえるほかない」のだ。■この原則が重視できない警察・検察・裁判所関係者は、権力犯罪の実行者であり、共犯者である。猛省せよ。■そして、政府は、これら無実のつみにくるしめられた人物の人権救済の制度化、行政訴訟による補償制度の整備、強引な捜査・取調べをはかった関係者への厳罰、責任の所在の明確化、……に着手しなければなるまい。■「まちがえたけど、それ相応の状況証拠らしきものがあったのだから、しかたがない」とは、もうとおらない。

■すくなくとも、浜田先生や判事経験者の秋山弁護士を 司法研修所の講師として、司法修習生に 講演をきかせるとか、「ぬれぎぬ」の発生過程を実証的に批判した、うえのような文献を必読図書とする、できれば法曹(ホーソー=司法試験をとおるなどして法律の専門家となった層)倫理といった講義科目として設置すべきではないか? あと、警察官の研修もね。