■実は、教員組織/教育委員会/文科省という三層ピラミッドが、「官僚制」の体をなしていない。いきなり 抽象度の たかい展開だと つかれるとおもうので、ごく具体的な事例から。■小学生の保護者が、どのくらい ふざけた「依存」を 当然視しているか、愛知万博小中学生「動員」作戦騒動のてんまつである(笑)。 
「一部の学校は低学年不参加 愛知県内小学生」(『中日新聞』2005/05/03)

 「どうしてうちの学校は行けないの」。愛知県内の小中学生が愛・地球博(愛知万博)を学校行事で訪れる場合、入場料を県が負担するのに、小学校の低学年を連れて行かない学校があり、保護者から不満の声が出ている。名古屋市教委は批判を受けて学校を指導、ほぼすべての学校で全学年が行くことになった。
 県教委の3月時点でのまとめによると、県内の公立小学校986校のうち136校が「体力が心配」「集団行動に不安」などとして1、2年生を連れて行かない方針で、名古屋市では260校中、24校が“一部参加”としていた。
 しかし、4月に入り、わが子が行けないと分かった保護者から、県教委や学校に「隣の学校は行けるのに、なぜ」という声が寄せられるように。特に名古屋市の場合、学校の規模などに関係なく対応が分かれ、批判の声が多かった。
 このため、同市教委は「できるだけ多くの児童が行けるように」と、3月中旬に締め切っていた交通費の支給申請をあらためて受け付けることにした。4月末に学校長が集まった会議で方針を伝え、ほぼすべての学校が全学年参加を決めた。
 県教委義務教育課は「会場までの距離の問題もあり学校長の判断に任せている」としながらも「地球環境問題などを体験的に学習し、国際交流もできる絶好の機会。県としてはできるだけ行ってほしい」と話している。
 同県は遠足や社会見学などで万博に行く小中学生の入場料について「教育的な意義がある」と負担を決め、本年度予算に全児童・生徒分として総額約5億1000万円を計上した。

------------------------------
■なんとも、みに つまされる はなしである。■もちろん児童のことなんかじゃない。ふりまわされる、現場の先生方のことだ。■それと、本筋から はずれるが、この媒体は、単に「地域情報の客観中立報道」って 姿勢なんだろうか? 問題山積である。諸矛盾がぶつかりあって、えらいことになっている、という状況が、一読してわかるが、なにも議論の整理をしようとしていない。これで、追跡記事が特集かなにかに されなかったとしたら、それこそ 無責任。

■それはともかく、?愛知万博の観客数に かなり不安を感じていた県関係者が、そのテコいれに「動員」しようと画策したこと、?現場が 当然のことながら、さまざまな「事故」を おそれて、低学年を中心に不参加を表明したこと、?にもかかわらず、「隣の学校は行けるのに、なぜ」とかいう「声」が保護者から、だされたこと、?「不平等は かわいそうだ」といった、一見わかりやすげな 論理がまかりとおり、全学年参加へと名古屋市は 方針転換したこと、?学校長を あつめた会議では、ほぼ全員が 同意したこと、?事前に、県民全体に説明があったのかどうかはしらないが、小中学生の入場料は無料で配布されるよう、5億円以上も 投入されることに、きまってしまったこと、という、どれも おどろくべき事実が、うかびあがる。■これは、「教育的問題だ」ということになると、とたんに思考停止し、集団ヒステリーとして、なんでもありになってしまうという、典型例だろう。■?予算構築の正当性=法的/政治的正統性、?通常の学習過程の負担の程度、?事故など、現場責任者の手配の水準など、すべてが充分議論されるべきところだろうに、おそらく、気分で、ほとんど、すどおしになっているはず。

■まず、「会場までの距離の問題もあり学校長の判断に任せている」というが、ウソにきまっている。長久手[ナガクテ]会場(が、いくら名古屋市に隣接するからといって)まで、やたらに とおい区は いくつもあり、そこに点在する 小中学校が 会場に全員いくことは、非常に難儀なことのはず。とりわけ、小学校1・2年生など、絶対にインソツしたくないはずだ。■岡崎先生にいわせれば、中学校のばあい、「学校間『抗争』」さえ心配されるのだという(笑。いや、わらっちゃいかん。p.95)。■それが、なんでほぼ全員、「いく」に なるわけ? 当然「いかない」と表明しづらい ふんいきが濃厚だっただろうと、おもったら、とんでもない。その状況たるや、すごい。
------------------------------
 …本来なら、「見学をするかしないか?」の希望から始めるのが筋なのだが、お構いなしで、何日にするのか?と校長会に調査させる。校長らは、それに異議など唱えることなく、唯々諾々と「いつ行く?」と職員に聞く。
 現場からは「安全面で大丈夫か?」「混雑したときは低学年でも問題なく見学できるのか?」「そもそもおもしろいのか?」「パビリオンの入り口に並ぶこともあるのか?」「雨が降ったらどこで昼食が取れるのか?」「迷子の呼び出しはしてくれるのか」など現場ならではの質問がでる。しかし、ほとんとが「検討中」である。もっとも関心の高い「テロ対策などセキュリティはどうなっているのか?」ということに関しても、小学生はフリーで入れるのか?引率教員はどうなのか?など、問題は山積みである。「下見はまだですが、行くことに決めます」と言い出す。
 校長が「行くんだよ」と言ったら「なんで行かなきゃならないのだ」と疑問を出してはならないという空気が漂っている。別に、職員は特に出世したいとか、校長の太鼓持ちをしたいという人ばかりではない。とにかく、「何事もなく」あるいは「余計なストレスを抱え込まないように仕事をしたい」と思っている。
[岡崎論文,pp.95-6]
------------------------------
■官僚制とは、古代帝国やキリスト教会から 原型は あったようだが、基本は安価な製紙法と複式簿記等の ファイリング技術の整備がととのい、かつ 精密な計算が必要となった、西欧近代直前の会社組織や軍隊、国家が共通に導入することになった、「世界標準」の文書主義ピラミッド組織である。■基本的には、タテわり状に分業組織が共存しており、「現場=より下位組織」からは「報告」が、「上司=上位組織」からは「指示」「評価」がくだる。■「下位からの情報」群は、上位にすすむにつれ、当然取捨選択され、洗練されたものとして、あげられる。それらは、最終的には首脳会議ないしは 長によって、最終的に「大所高所からの決断」として、下降する。逆に、各部局の下位組織におろされるほど、現場水準に即応した具体性のたかい「指示」「評価」となるはずである。■このような、毛細血管から大静脈にあつめられ、最終的には右心房にもどる血液が、また左心室から大動脈をへて、毛細血管、そして細胞へと分配されるといったものとにた、循環=フィードバックが、官僚制の文書主義的な情報のながれの理念のはずなのだ。■しかし、こと、愛知県の 万博引率に関して、現場のこえは、全然「すいあげ」られていない。■もちろん、官僚制は「上意下達(ジョーイカタツ)」の原則をもっているが、「したの はなしは絶対にきくな」「したに、しゃべらせるな」「したに、しゃべらせるだけしゃべらせて、全部すてろ」なんて、非合理的な「上意下達」システムの組織など存在しない。■あ、もちろん、官僚制が、システム外部にむかって、「したの はなしは絶対にきくな」「したに、しゃべらせるな」「したに、しゃべらせるだけしゃべらせて、全部すてろ」なんて、鉄面皮な「上意下達」システムであることは、しばしばなので、誤解のないように(官庁組織/住民、教員組織/生徒、軍事組織/非武装市民)。次元のちがうことだから(笑)。

■「毛細血管」からのフィードバックぬきに、現実に対じすることなどできない。いや、教育官僚たちは、一生、「現実との対じ」を拒否したまま、おくるつもりなのだろう(それで「教育行政」とか「管理業務」とか、しているつもりになれるところが、すごいが。笑)。■いずれにせよ、愛知万博への引率で、重大な事故がおきたばあい、愛知県の知事と教育長は、引責辞任するのだろうか? まあ、フィードバック機能を完全マヒさせたままで、大量に強行させた罪はおもいよね。なにかおきたら、自決ものだとおもうよ。■いや、こういった、官僚制の体をなしていない組織の「上司は思いつきでものを言う」に、つきあわされて疲弊したり、リズムをくるわされる小中の教員の心身のストレスの総量は、ハンパなモノじゃない。そんなことへの無神経さだけで、万死にあたいするとおもう。
■このように、教員組織/教育委員会/文科省という形式的な三層ピラミッドは、「官僚制」の体をなしていない。校長←教育委員会←文科省という、「上意下達」と「報告義務」だけが「機能」しているが、「教員組織」という「現場」から、「校長」という段階で情報がとまり、ほぼ、いっさいの情報が あがらないのだから、所詮「みせかけの組織」である。■うえで、官僚制が、システム外部にむかって、「したの はなしは絶対にきくな」「したに、しゃべらせるな」「したに、しゃべらせるだけしゃべらせて、全部すてろ」なんて、鉄面皮な「上意下達」システムであることは、しばしばだとのべたが、この「した」に「現場教員」をいれると、現象が よく理解できるだろう(笑)。■つまり、学校体制とは、生徒集団←教員集団←教育官僚という、「上意下達」システムであり、逆方向への「情報」のながれは、はじかれてしまうということだ(笑)。
■教育官僚たちを総称して、「砂上の楼閣」であり「ハダカの王様たち」と、きのう、のべたのは、このことである。

■で、こういった、官僚制の 正常な機能状況を わきまえていない連中が、不審者侵入などへの危機管理対策をすすめるよう、指導したりするから、はなはだおかしい。■たとえば、不審者侵入の、セキュリティ・ホール全開状況をつくれと、命じたのは、ほかならぬ文科省であった。「小学校設置基準」なるもので、小学校教員は自分たちの活動状況を「自己評価」し、保護者に情報の積極的開示せよと、指示されたのだ[岡崎論文,p.88]。もともと、特に小学校は、地域住民に対して「開かれた学校」として位置づけられてきた。来訪者がおおいのである。警備員が監視モニターで常時かつ入り口全部チェックし、来校目的(挙動も)を確認しつつ金属探知機を通過させ、女子警備員も動員してボディ・チェックもし、一応「安全」そうな人物には、IDカードをぶらさげさせ、来校者の わずかに ななめめうしろに よりそいながら 随行・案内し……なんて、ことができるはずがないのである(笑)。■おまけに、岡崎先生ご指摘のとおり、「特攻隊的で」「捕まることなんか怖くない」人物とか、「ビデオで俺の犯罪を映してくれ」「という自己顕示欲の強い犯人」が、もっとも「始末が悪い」[同上,pp.87-8]。■たしかに、自衛隊や警察あたりで、特殊部隊経験があったりすれば、一見なにも もちこんでいないようにみせて、潜入するや豹変という、ゴルゴ13ばりの おおあばれが可能だろうしね。愛知万博の警備でも、ひともんちゃくあったが、「特攻隊的」御仁に、本気に決死的攻撃をかけられたら、完全阻止は不可能だ(プラスティック爆弾、プラスティック・ナイフ……)。できそうに みえるのは、ブルース・ウィルス主演あたりの 映画のみすぎだろう(笑)。■ともかく、「さすまた」が ちゃんと つかえるとはおもえないとか、赤外線チャイムは、うるさすぎて機能しなかったとか、入り口全部の監視モニターに常時はりつくのはムリだよなとか、現場では、ちゃんと 議論がでているのである[同上]。■それをしらないのは、教育委員会以上の「お役人さま」であり、そこにあげないのは、校長先生という、上意下達執行人である。

■以前も、小学校の警備問題をとりあげたことがある。■そこで、すでに論じたことだが、教員は警備員ではない。警備員でさえ、警官ではないので、不審者確保などという責務をおっていない。まして、「教員は暴漢から児童をまもるために、カラダをはって、殉職しても当然」なんて、法的規定は、明治のこのかた、一度たりと法制化されたことなどないし、そんな、ムシのいい「内規」を 当然視する 保護者・地域は、異常集団だ。■国語算数ほか「octathlon」演者として当然視しつつ、幼稚園ばりのお遊戯会演出やら、保育園ばりのケア労働、はたまた、「万博」の引率だ、メンタル・ケアに生活保護世帯のケア・サポートも、いのちはった警備員もかねろと?長期休暇なしで、もちかえり残業山積で、土日もまともに休息がとれない状態のままで? なにを、ふざけたことを ぬかすのか! ■週3日来校、連続2週間以上の長期休暇年3回以上、5年勤務後1年有給休暇、年報1000万以上……といった、待遇を保証できるなら、要求しても おもしろいかもしれないが。

■最後に、鬼といわれようが、これだけはいっておこう。■大阪教育大附属池田小学校の事件は、以上のような分析からして、遺族・被害者家族は、学校および国に、責任をおわせるべきでなかった。慰謝料を責任当事者がわが、はらいたくなるのは理解できるし、遺族・被害者家族の悲痛な気持ちのぶつけどころがない(加害者=被処刑者に、賠償能力など、ハナから なかった。というより、それを おりこんで、しかも 世間の暴力的なまでの憎悪を みこしての反抗だった)のは、よくわかる。■しかし、スジ論として、学校がわに 特段の 落ち度などないし、「平均水準の警備体制を常時維持していなかったから、ああなった」などという非難は、いいがかりでしかない。■裁判所は、判例を ムリに ねじまげるもなにも、原告の請求棄却という判決しか、くだしようがなかったろう。だから、早期に「和解」という結論で、合意がとれたわけだが、その根拠には、重大な疑問がのこる。■学校の教員は 学習院初等部の警備員ででさえもしないような意識水準で、びくびくしながら、児童の安全確保に つとめねばならないのか? もしそうなら、なにゆえ、巨大かつ膨大な「セキュリティー・ホール」が放置、あるいは増設されているのか? なぜ、あれほどのギリギリの教員しか配置されず、警備員配置が真剣に検討されないのか? なぜ「愛知万博」とかいった、「遠足」に、いかせるような暴挙が まかりとおるのか?……
■ちなみに 池田小学校の問題は、「地下鉄サリン事件」などと同様、政府が 被害補償をするという かたちしか、現実的でないとおもう。■「地下鉄サリン事件」被害者に対する政府の補償がセコいこと、こまやかさに かけていることは、よく しられているので、そこの 改善をしないと、単なるアリバイになりかねねいが。


■「基礎学力」とは、なにか? とか、岡崎先生が といかける課題は、まだまだ たくさんあるが、このシリーズは、とりあえず、うちどめ。■後日また、公教育論でやろう。岡崎先生が、あえて さけてらっしゃるらしい、外国人児童問題とかも、からむしね。「学力」うんぬんの まえに、「学力」の なかみ、はかる意味、「問題視」自体の問題 とか、実は、かんがえるべきことは、ヤマほど ある。■今回は、「託児所」だけに、しぼったんだから、読者は ご不満など ゆめゆめ いだかぬように。


【シリーズ記事】
託児所としての小学校」「」「