■何度もかいてきたことだが、いわゆる「凶悪犯罪」は、「少年」「精神障害」「外国人」「被害者感情」などを キイワードに、「厳罰化」が はかられてきた。■司法・警察官僚たちは、統計データの真意にきづいているらしいのに、事実を直視しないで安易な「厳罰化」キャンペーンをはるメディアの姿勢を放置して、存在感や予算獲得を たくらんでいるようにしか、みえない。■昨年処刑された吉岡(旧姓「詫間」)死刑囚なども、利用された くちだろう。
■「精神障害者」という イメージは、実際には 殺人事件などの ごくわずかしか しめず、むしろ 「障碍者全般が弱者であり、加害者よりも被害者になるほうが、ずっとおおい」という、関係者の経験則や統計データがあるにもかかわらず、「障害者は コワイ」という、根拠なき不安が 拡大されることはあっても、沈静化が はかられることは、まずないといってよい。■しかも、処刑された吉岡(もと「詫間」)死刑囚のように、「精神鑑定」の結果は、あらかじめ さだめられた結論をみちびくために、利用されているにすぎないように、おもえる。おおくのばあい、「心神耗弱(シンシンコージャク)状態が いくぶんみとめられるが、犯行当時、善悪の判断をうしなうほどの状況には なかったと みられる」といった「鑑定結果」だけが、証拠採用されるのである。■これは、以前も「権力犯罪としての誤認逮捕」という小文でも紹介したとおり、「有罪率99.9%」という異様な状況とセットになっていると、推定するほかない。関係者がにらむとおり、「検察官の主張は、まずただしい」という先入見でもって、裁判官は結論をまず形成し、そのための 帳尻あわせとして判決文の論理構築を おこなっていると、うたがうほかないのである。
■このような、裁判の「茶番劇」ぶりと、メディアの 「厳罰化以外ありえない」といった論調とは、呼応していると、かんがえられる。■こうした「ムラ社会」的集団ヒステリー状況では、はじめに「厳罰化ありき」であり、「精神異常/責任能力の有無」は、実は、どうでもいいらしいのだ。■「障害者は コワイ」という、立証なき不安が最大限に利用されて、「障害者は危険だ」と「やっぱり、ヤツには判断能力があった」という きめつけが、なんの自己批判もなく、同居する。同一人物に、双方が同時に成立するはずがない。■特に、「解離」(いわゆる「多重人格」)や、知的障碍者、年少児童などのように、判断能力や記憶が犯行前後一貫していないばあいは、「判断能力が不充分でも責任をとえる」という結論は、自己矛盾をきたしているだろう。判断能力や記憶が犯行前後一貫していないばあい、責任能力をそなえた当事者という分類からは、はずれねばならない。しかも、「うたがわしきは、被告人の利益に」という、刑事訴訟の原則にそうなら、「(まちがいなく)判断能力や記憶が犯行前後一貫していた」という立証の責任は検察がわにある。■処刑された吉岡(もと「詫間」)死刑囚のように 自死する勇気がない、あるいは自分だけ ひとりきえていく無念さが たえがたいがゆえに、死刑制度を悪用して「無理心中」を実質的に敢行する(世間から一身に憎悪をあびるような、凶悪犯罪を意図的に実行することで、処刑を確実化する=被害者は、自爆テロのように、「まきぞえ」をくう)という、悪魔的な人物は別として、「自分が犯行をおこなったことは事実だ」と、まったく否認しない被告以外は、調書や証言での「やった」という表明自体、うたがってかかるべきなのだ。
■ともかく、論理的矛盾をまったく感じないかのような姿勢=知的野蛮が「世間」をおおいつくし、「精神障害者は、善悪の判断がつかないような悪魔である」という断定と、「しかし、被害者感情が、医療刑務所いきは、ゆるさないから、死刑しかない」という、判断能力の有無を度外視した論調が支配することになる。■こういった、精神的野蛮にあっては、せいぜいマシなものでも、「障害者は一生とじこめておけ」であり、最悪のものは、「連中に人権など存在しないのだから、最高裁まで上告などさせずに、処刑するしかない」といった「気分」に たどりつくだろう。■おそろしいはなしだ。

■こういった、世論の荒廃のなか、先日、非常に冷静な議論が連日掲載された。■ひとつは、弟さんを保険金殺人でうばわれた被害者男性が、死刑執行に反対したのに、処刑がなされてしまったことを批判する文章
原田正治◆犯罪被害者「死刑願う存在」は偏見だ,『朝日新聞』2005/06/04)。もうひとつは、おなじ『朝日』の、「三者三論 出所情報を考える」でインタビューをうけた、大谷昭宏さんの意見(「予防警察」危うさ認識を)である。

■原田さんは、一審の法廷では検察官に、「極刑しかないでしょう」といっていたが、被告の「謝罪」「償い」の意識とか死刑制度に疑問を感じ、「死刑延期の嘆願をし」、01年には法務大臣にあって「上申書を渡したが、その年の暮れに死刑は行われ」てしまった。「意見や感情は全く無視された」わけである。■原田さんは「同じ役所の人々が今」「被害者感情も踏まえ」「といいつつ重罰化を進めている」と、その矛盾を批判している。そうなのだ。メディアにしろ、司法当局にしろ、「被害者感情」というのは、ムラ社会の空気を動員するための「呪文」であって、「被害者感情」を たんねんに 調査・検討したこともなければ、被害者ケアに とりくんだこともない。被害者の あたまごしに、「被害者と神に なりかわって、処刑する」とか、力んでいるだけなのだ。■以前、法的根拠がないにもかかわらず死刑執行を実際にやらされる刑務官の人権を問題にした(「死刑制度について」その2)が、力む「ムラ感情」は、「被害者感情」という、反論不能にみえるマジック・ワードによって、批判を封殺しているにすぎない。■もちろん、原田さんは、いわゆる「死刑廃止論」者の組織に利用されるのを、こばんでいる。「被害者家族にも、死刑に批判的な人物が実在する」って、オニのくびをとったように、利用するやからも、でそうだから、当然だ。

■大谷さんのインタビューは、非常に内容がこいので、主要部分をそのまま引用する。
-----------(引用開始:強調ハラナ)-----------
 奈良市の女児誘拐殺害事件の男性被告が逮捕されたとき、わたしが出演しているテレビ番組には「性犯罪者を野放しにするな」「性犯罪者の体内にICチップを埋め込んで行動を監視しろ」といった意見が多数、寄せられた。多くは冷静さを欠いていた。
 パニックか、無関心か。日本では、この二つの状況しかない。オウム真理教(アーレフに改称)信徒の子どもの就学や、神戸の連続児童殺傷事件の加害男性の仮退院を巡る騒ぎを思い出してほしい。性犯罪者と知りつつ地域で受け入れられるほど、日本は成熟していない。性犯罪者の出所情報を地域の住民にまで公開すべきではないと考える。
 一方で、奈良事件の反省をどう生かすか。男性被告は、過去にも性犯罪で有罪判決を受けていた。警察が出所情報を持っていたら、容疑者が短期間で浮かび、事件発生から1カ月半もかからずに逮捕に至っただろう。出所情報は犯罪捜査上、有意義だ。
 その意味で、法務省の出所情報を警察限りで提供することは「是」と考える。
 ただ、再犯の予防という点からみると、効果は限定的だ。出所情報を使って警察ができることは、性犯罪者が住む地域の住民に「夜、不審な人を見かけませんか」と質問しながらパトロールすることや、徹底的に尾行して現場を押さえるぐらいだろう。性犯罪者の家のそばにパトカーを常駐させたり、性犯罪者の名前を挙げて聞き込みをしたりすれば、地域はパニックに陥るし、出所した人の人権侵害、更正の妨げになる。
 そもそも日本の警察の基本は犯罪捜査だ。予防検束に対しては、これまできわめて慎重だった。(中略)市民からすれば、何かあってからでは遅い。ただ、警察は何かあったときのためにあるのであって、何もないのに警察が入ってくる社会は良くない。予防について警察に過剰な期待を寄せるべきではない。
 今年9月から、殺人、強盗、窃盗などの約20罪種の犯罪者の出所情報を、法務省から警察庁に提供することが検討されている。さらに警察庁は、全国の警察本部が容疑者から採取した体液などのDNA情報を8月にもデータベース化することを決めた。心配なのは、警察の情報管理だ。警察が持つ個人情報が増えるなか、適正な取り扱いをどう担保するのか。
 警察官による前科前歴などの情報漏洩(ローエー)は枚挙にいとまがない。酔った警察官が、行きつけの飲み屋で「隣の警察署管内の性犯罪者は5人だが、うちは20人もいる」「最近、とんでもない犯罪者が管内に来た」などと話す。そんな問題が起きるのではないか。(以下、略)
-----------(引用終了)-----------
■「予防検束」は、実際には かくされつつ、かなりおこなわれている。■そういう意味で、大谷さんの 指摘には、あまさがあるとおもう。■ただ、あらかじめ 再犯を前提に(つまり、更正を なかば うたがいながら)警察が、つきまとうとか、みはりつづけるというのは、準刑務所的空間が 地域社会にもれだすということだという指摘は、ただしい。■また、警察が 個人情報を管理するというが、到底信用できたものではない。■要は、警察が再犯予防に出所情報をにぎっても、あまり 役だたず、事後的に単に再犯者が少々はやくつかまるにすぎないこと、つまり再犯防止として機能ないのに、個人情報の流出の危険性は増大するという、有害無益かもしれない制度が、はじまりそうだということだ。■こういった矛盾がよくみえているのにもかかわらず、「出所情報は犯罪捜査上、有意義」で、「その意味で、法務省の出所情報を警察限りで提供すること」を「是」とする理由が、よくわからない。■が、守秘義務をもつ警察の実態と、地域住民意識の現実を 正直に指摘したことは、意義がおおきい。

■ところで、社会学者の宮台真司さんは、共著『人生の教科書[ルール]』(筑摩書房)の5章「 なぜ人を殺してはいけないのか」で、人類は、「仲間を殺すな」「仲間のために人を殺せ」という、「二大ルール」で、やりくりしてきたという。近代刑法などが殺人を禁止していることや、戦争状態での殺人が禁止されないことなどが、体系的に説明できると。■ハラナ流に整理するなら、「仲間をころすな/敵をころせ」という、一種の〈二重の基準〉と、まとめられる。■この宮台先生の図式は、実は、死刑制度自体にもあてはまるのではないか? そうなのだ。地下組織や軍法会議などで査問をうけ「有罪」と判断された同志や戦友たちが、「うらぎりもの」として「処刑」されてきたことと、死刑とは、本質的につながっている。「死刑」という判決は、「被告」が「仲間」でなくなり「敵」と判定されたことであり、死刑執行官の行為が「職務」として、合法化されたという意味なのだ。■その意味でいえば、「死刑執行」とは、「永遠に仲間として復帰することはありえない」という「永久追放」であり、モジどおり「最後通告」なのであった。
■これに順ずる制度も本質がみえてくる。■現代日本には存在しないが、「終身刑」という制度も、事実上「永久追放」ということだ
(前 韓国大統領の金大中さんたちのように、死刑判決が 段階的に何度も減刑されて、最終的には、下獄できるような、「恩赦」もあるが)。■また、「治療」を形式的な目的にしては いるが、実質的には、「終身的拘禁」であり、社会からの「隔離」である、医療刑務所への収監なども、同質だろう。関係者は、「完全に回復して、社会復帰することは、まずない」と、判断しているからだ。■しかし、こういった措置が、はたして正当な判断にもとづいているかどうかという保証は、もちろんない。ソルジェニーツィンが旧ソ連を告発した『収容所列島』などや、その「さきがけ」として ちゃかした オーウェルの『1984年』などをみても、国家体制は、つごうのわるい人物を「精神障害者」として、「収容」し、抹殺してきた。■有名な経済史家、安良城盛昭(あらき・もりあき)さんは、『天皇・天皇制・百姓・沖縄』(吉川弘文館)だったとおもうが、学園闘争期に、錯乱したと同僚たちに判断されて、精神病棟にムリヤリいれられてしまったと、回想している。安良城先生、診断にあたった精神科医に 事情を説明して、異常な精神状態ではないと、判断され、無事でられたが、とじこめつづけられた可能性だって、なくはない。■国家権力が介在すれば、なにがおきたって、不思議でないのだから。

■以前のべたとおり、初動捜査に しばしば予断と誤解がからまった 誤認逮捕があり、事実上の密室での精神的拷問による調書作成があり、検察官の証拠書類はただしいと信じこんで 99.9%も支持してしまう判事がいるという、冤罪(えんざい)構造があるかぎり、死刑制度には、監視の目が不可欠だし、「精神障害」を理由にした「隔離」も、不正がないか、めをひからせねばなるまい。■知的障碍のばあいも、問題は複雑だ。取調室という「社会学的密室」では、何度か紹介した、浜田寿美男さんの指摘でも、知的障碍者は典型的な弱者だ(精神障碍者もそうだが)。■レッサーパンダの帽子をかぶったオトコに女性が刺殺された事件でも、加害者は知的障碍があったことがたしかめられているが、一応裁判の争点にはなったものの、調書をとる際になにも障碍がなかったなどと、警察と検察は そろって不自然な証言をしている。本人が殺意をみとめたとされ、無期懲役判決への上告を本人が断念したため、刑が確定したが、警察・検察が「充分な責任能力」というを作文をでっちあげた可能性がおおきい。■簡易鑑定だけですませようという、当局の意思は露骨だし、責任能力ありとする医師の鑑定だけ論拠としたことも、典型的なパターンだ(佐藤幹夫『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」洋泉社)。障碍者教育にたずさわった佐藤さんが指摘するとおり、殺人と傷害致死の差異、殺意の有無の差異、この関連性を、加害者男性が充分理解していたかどうかさえ、微妙だ。取調室でも法廷でも、被疑者の知的能力の不充分さにつけこんで、誘導した可能性がたかい。■結局、刑は確定したが、当局はもちろん、事件にさわいだメディア/世間も、事実を直視せず、実態を封印したまま、わすれさろうとしている。「自分たちがこぞって、わすれさっていまうころまで、男性が とじこめられていれば、とりあえずよい」と、いわんばかりの、無自覚な論理で。
■ノーベル文学賞をとれたソルジェニーツィンや、大統領として復権できた金大中さんは、幸運だったのであって、抹殺されていた危険性がおおきかったのだから。■そして、「人権がまもられている日本は無関係」という、おもいこみは危険だ。日弁連(日本弁護士連合会)などは、被疑者の人権がまもられていない、先進国にあるまじき体制と、ずっとまえから批判してきたのだし。