■川谷茂樹『スポーツ倫理学講義』(ナカニシヤ出版)■きまじめな哲学者による(哲学者ってのは、もともと、みんな 本質的に きまじめでないと、なれないかもしれないが)スポーツ論である。■ただ、正直いわせてもらうと、アタマの あまりキレない読者に「講義」する てつづきなのか、モタモタした 読後感がのこった。
■ハラナ個人は、異論が あまりない。「スポーツとは勝負事であるから」、かちかたの美醜とか、フェアプレイがどうのとかは、問題のたてかたが、まちがっている、といった見解や、「スポーツに関わる人々が、たとえ立派な大人であっても勝利のために常軌を逸した行為に走るのは、ある意味では不可避なことだと」いうほかないとか、したがって「子供の教育の場面にスポーツを導入するのは、本来よほど慎重な配慮が求められるべき」といった意見(p.173)は、もろてをあげて、賛成したい(笑)。■このヘンのことを、カンちがいした御仁が大量にいる。スポーツを過大評価=美化し、アスリートの苦闘を人生の理想像であるかのように、かたる、こまったさんが、そこらじゅうに、はびこっているのだ。■その意味では、議論の「交通整理」というか、あつくなっているだけで、一向に 未整理のまま 混乱をつづけている、ちまたのスポーツ論に、冷水をかけてくれるはずの良書だ。
■スポーツが気になってしかたがないらしいのに、結局、すきになれずに、外在的に、徹底的につきはなして分析をしようとする議論(たとえば、ましこ・ひでのり『あたらしい自画像』の第5章:へそまがり「スポーツ解体新書」とか)とくらべると、する/みる スポーツ両方への「愛」が感じとれる(笑)。川谷先生、運動不足だと、おっしゃってはいるが。■こういった、対象を ホントに愛している人物が 徹底的に分析をつくすと、玉木正之さんの『スポーツとは何か』(講談社現代新書),『スポーツ解体新書』(日本放送出版協会)みたいに、すごみが でるよね。
■それと、この本は、スポーツ倫理/哲学の「講義」だと称しながら、表題は「スポーツ倫理学」をえらんでいる。■筆者は、「スポーツの倫理(ethos=ethics in sports)を巡る探求」(p.104)といったぐあいに、ちょっとしか のべていないが、これは、「スポーツのエトス(ethos)」をあきらかにするのが「ethica(倫理学)」であるということだろう。つまり、「~であるべし」という「理想」ではなく、「特質=目的」の哲学的解明こそ、哲学の下位分野としての「倫理学」ってところ。■その意味では、本書は、スポーツを単に知的に徹底分析しているというよりも、《スポーツという現象(徐々に共通性がうすれていくにしろ、『血族』という連続体が実体としてあると おなじように『実在』する=『家族的類似』)》の「特質」の抽出という意味で、「倫理学」でなければならかったと。
■したがって、「スポーツマンシップ」論とか「ドーピング」論とか「スポーツと暴力」といった議論が前面にでてみえるが、これは、「スポーツを 本来的な、倫理的たのしみに 正常化するための てつづき」といった意味あいは皆無だ。■「スポーツマンシップ」も「ドーピング」も「暴力」も、「あるべき すがた」を さししめすために、論じられているのではない。■あくまで、競技のエートス、競技者のエートスを あきらかにして、「スポーツの周辺」との識別(第6講義)、「スポーツの『内と』『外』」の対比(第7講義)をそえることで、「スポーツの本質」(第5講義)を、うきぼりにすることが、筆者のねらいなのだ。■これは、「スポーツを 本来的な、倫理的たのしみに 正常化するための てつづき」といった意味あいで、自明のように、スポーツ倫理学をやってきてしまった、欧米および日本の研究動向への違和感の表明であると、同時に、既存の「スポーツ倫理学」批判、いや、メタ「スポーツ倫理学」という、方向性があるのだとおもわれる。■しかし、古典派経済学批判=メタ経済学をめざした、マルクスが、やはり経済学者であったように、古典的「スポーツ倫理学」批判をめざすことも、「スポーツ」という「ethos」をあきらかにするのが「ethica(倫理学)」であるという、筆者の内在的必然性があるのだと、かんがえられる。■本書の議論が、グルグル/クドクド感じるのは、そういった、既存の研究動向と、世間のスポーツ観を、全面的にのりこえようと、もがいていること、あるいは、その地平に読者をいざなおうと、苦労しているということだろう。
■しかし、ハラナが少々違和感をもつ箇所がないわけではない。■数点あげてみよう。
■1.「競技とは、強者を発見するための手続きそのもの」であり、それは、われわれが「強者を賞賛したがっているから」だと、のべる(p.64)。ハラナも異論はない。■しかし、こういった強弱の対比、序列化という欲望から、ヒトが解放されないだろうと、いいきってしまうが、はたしてそうだろうか? ■たとえば、現代的な競技スポーツの理念が定着したのが、19世紀ヨーロッパだとすれば、スポーツに代表的にしめされる、序列化の欲求が、普遍的だという論証に失敗していることになる。■ある技術・知識のように、一度発明・発見されたら、ミームとして継承され、まずきえさることはない、という可能性は否定できない。しかし、「強者を賞賛」したがる心性は、一度開発されたら、とめようがないのか? ■こういった論理は、「障碍者をふくめた弱者差別が、なくなるはずがない。みんな、したがっているからだ」といった、典型的な《ひらきなおり》の姿勢と同質のものを、感じる。■「みんな残酷なKOシーン(「死」を象徴化=可視化した暴力ゲーム)をみたがっているんだ」という、ボクシング肯定論の正当化と、通底していないだろうか? ボクシングの危険性をかんがえたとき、やめるべきかどうか、といった議論が、結局は多数決=政治の論理であって、哲学的な次元にない、という筆者の見解はわかる。しかし、「参加しない/観戦しない自由はある」といった論理は、ポルノグラフィの正当化とにた、それこそ多数決原理(「すきな人口が一定いるから、市場がうまれるのは必然」……)にすぎないだろう。■社会学などがとくとおり、「ある現象が複数回くりかえされるなら、そこに、なんらかの構造があるはず」という、認識はただしいが、社会学は「だから、つづくのは、しかたがない」「存在には合理的根拠がある」などと、是認するわけではない。■「現象が、いつまでもくりかえされる構造」があるとは、かぎらないのだし。
■2.勝敗をきめない「プライベート・スポーツ」や「エンターテイメント・スポーツ」、いわゆる「オールタナティブ・スポーツ」への「移行によるスポーツの本来性の回復などという耳あたりのいい提案は」「余りにも空想的にすぎる」。「私たちが理解しているスポーツ概念には、競争=勝負事という原理がしっかりと根を下ろして」いる(p.150)という指摘。■ハラナは、「本来性の回復」とかいった空理空論には、くみしない。しかし、すでにのべたとおり、「私たちが理解しているスポーツ概念」から、絶対に解放されないと、いいきれるだろうか? 期待とか理想とかではなくて、決着がつくという現代スポーツの もりあがりを、とまるはずがない うねりとみなす見解は、現状の追認でしかないような気がする。■筆者自身、「スポーツにまったく興味関心を持てない人、スポーツ外在的観点から出られない人は、おそらく実際に相当数存在している」と推定している(p.221)。筆者は、「現代の社会は、そのような人たちにとってあまり生きやすい社会ではないでしょう。」「私はスポーツに何の興味関心もありません。そもそも何のためにあんなことをやるのか、まったく理解できないからです」「という、その人にとっては一点の曇りもない真理を公言したところで、当人にプラスになることがあるとはあまり思えません。もし会社の面接でそんなことを答えたら、面接官に少しエキセントリックな印象を与えてしまうかもしれません。」「ですが、この種のスポーツ無関心人間は、現在ではやはり少数派に止まるでしょう」(pp.221-2)とのべる。■その現状分析は ただしいかもしれないが(厳密には、スポーツ社会学などの実証調査で、たしかめられねば、わからない)、それこそ「ファシズム」的ではないのか? 「健康志向」「勤労志向」でないと、落伍者/変人と みなすことが当然視されるような 現代が、一種の 無自覚な「ファシズム」であるのと、おなじような次元で。
■「現代スポーツのエートス=本質とはなにか?」という意味での「エティカ」を追究する学究がいることは、なにも問題はない。■しかし、それは、現状追認とギリギリ「せなかあわせ」の、社会学などが とりくむべき 現象論であって、倫理学者は、現状から自由に思索を徹底化すべきではないのか? 倫理学者が、世間的な意味で、倫理的なモノサシを探求すべき存在でないことは、よくわかる。しかし、それは同時に、現状の支配的な意識/ふんいきを 分析・分類し、本質化する作業でもないはずだ。「現在のところ支配的な本質」(p.172)から解放された、自由な思索ができない哲学者など、ナンセンスだろう。存在理由がない。■筆者は、自分たちの にぶい思索を整理しきれていない 既存の倫理/哲学者に支配的な「スポーツ・イメージ」からは充分解放されているだろう。そして、存分に のりこえのための 自在な思考を徹底させたかもしれないが、「現在のところ支配的な本質」からは 解放されそこなっている、としか、おもえない。■キツイ いいかただが。
■本書が、たとえば、友添秀則/近藤良享『スポーツ倫理を問う』(大修館書店,2000年)などが、いわゆる優等生的な理想主義をかたるだけで、なんら哲学的でないエッセイ集=感情論にとどまっているのと、別次元の地平にあることは、あきらかだ。それを、正直に いわおう。■しかし、同時に、本書が「巻末の「文献案内」にあげている、『大航海』(No.2:特集 スポーツは病気? 新書館,1995年)の諸論を、本当にのりこえられているであろうか?
■とはいえ、筆者が本文最後でのべるセリフは、たいしたものだ。
……今度は、あなたが「自分にとってスポーツとは何か」考える番です。私を含めた他人の見解は、すべてそのために利用されるべき(使い捨てられるべき)手段にすぎません。……(p.224)
■スポーツが気になってしかたがないらしいのに、結局、すきになれずに、外在的に、徹底的につきはなして分析をしようとする議論(たとえば、ましこ・ひでのり『あたらしい自画像』の第5章:へそまがり「スポーツ解体新書」とか)とくらべると、する/みる スポーツ両方への「愛」が感じとれる(笑)。川谷先生、運動不足だと、おっしゃってはいるが。■こういった、対象を ホントに愛している人物が 徹底的に分析をつくすと、玉木正之さんの『スポーツとは何か』(講談社現代新書),『スポーツ解体新書』(日本放送出版協会)みたいに、すごみが でるよね。
■それと、この本は、スポーツ倫理/哲学の「講義」だと称しながら、表題は「スポーツ倫理学」をえらんでいる。■筆者は、「スポーツの倫理(ethos=ethics in sports)を巡る探求」(p.104)といったぐあいに、ちょっとしか のべていないが、これは、「スポーツのエトス(ethos)」をあきらかにするのが「ethica(倫理学)」であるということだろう。つまり、「~であるべし」という「理想」ではなく、「特質=目的」の哲学的解明こそ、哲学の下位分野としての「倫理学」ってところ。■その意味では、本書は、スポーツを単に知的に徹底分析しているというよりも、《スポーツという現象(徐々に共通性がうすれていくにしろ、『血族』という連続体が実体としてあると おなじように『実在』する=『家族的類似』)》の「特質」の抽出という意味で、「倫理学」でなければならかったと。
■したがって、「スポーツマンシップ」論とか「ドーピング」論とか「スポーツと暴力」といった議論が前面にでてみえるが、これは、「スポーツを 本来的な、倫理的たのしみに 正常化するための てつづき」といった意味あいは皆無だ。■「スポーツマンシップ」も「ドーピング」も「暴力」も、「あるべき すがた」を さししめすために、論じられているのではない。■あくまで、競技のエートス、競技者のエートスを あきらかにして、「スポーツの周辺」との識別(第6講義)、「スポーツの『内と』『外』」の対比(第7講義)をそえることで、「スポーツの本質」(第5講義)を、うきぼりにすることが、筆者のねらいなのだ。■これは、「スポーツを 本来的な、倫理的たのしみに 正常化するための てつづき」といった意味あいで、自明のように、スポーツ倫理学をやってきてしまった、欧米および日本の研究動向への違和感の表明であると、同時に、既存の「スポーツ倫理学」批判、いや、メタ「スポーツ倫理学」という、方向性があるのだとおもわれる。■しかし、古典派経済学批判=メタ経済学をめざした、マルクスが、やはり経済学者であったように、古典的「スポーツ倫理学」批判をめざすことも、「スポーツ」という「ethos」をあきらかにするのが「ethica(倫理学)」であるという、筆者の内在的必然性があるのだと、かんがえられる。■本書の議論が、グルグル/クドクド感じるのは、そういった、既存の研究動向と、世間のスポーツ観を、全面的にのりこえようと、もがいていること、あるいは、その地平に読者をいざなおうと、苦労しているということだろう。
■しかし、ハラナが少々違和感をもつ箇所がないわけではない。■数点あげてみよう。
■1.「競技とは、強者を発見するための手続きそのもの」であり、それは、われわれが「強者を賞賛したがっているから」だと、のべる(p.64)。ハラナも異論はない。■しかし、こういった強弱の対比、序列化という欲望から、ヒトが解放されないだろうと、いいきってしまうが、はたしてそうだろうか? ■たとえば、現代的な競技スポーツの理念が定着したのが、19世紀ヨーロッパだとすれば、スポーツに代表的にしめされる、序列化の欲求が、普遍的だという論証に失敗していることになる。■ある技術・知識のように、一度発明・発見されたら、ミームとして継承され、まずきえさることはない、という可能性は否定できない。しかし、「強者を賞賛」したがる心性は、一度開発されたら、とめようがないのか? ■こういった論理は、「障碍者をふくめた弱者差別が、なくなるはずがない。みんな、したがっているからだ」といった、典型的な《ひらきなおり》の姿勢と同質のものを、感じる。■「みんな残酷なKOシーン(「死」を象徴化=可視化した暴力ゲーム)をみたがっているんだ」という、ボクシング肯定論の正当化と、通底していないだろうか? ボクシングの危険性をかんがえたとき、やめるべきかどうか、といった議論が、結局は多数決=政治の論理であって、哲学的な次元にない、という筆者の見解はわかる。しかし、「参加しない/観戦しない自由はある」といった論理は、ポルノグラフィの正当化とにた、それこそ多数決原理(「すきな人口が一定いるから、市場がうまれるのは必然」……)にすぎないだろう。■社会学などがとくとおり、「ある現象が複数回くりかえされるなら、そこに、なんらかの構造があるはず」という、認識はただしいが、社会学は「だから、つづくのは、しかたがない」「存在には合理的根拠がある」などと、是認するわけではない。■「現象が、いつまでもくりかえされる構造」があるとは、かぎらないのだし。
■2.勝敗をきめない「プライベート・スポーツ」や「エンターテイメント・スポーツ」、いわゆる「オールタナティブ・スポーツ」への「移行によるスポーツの本来性の回復などという耳あたりのいい提案は」「余りにも空想的にすぎる」。「私たちが理解しているスポーツ概念には、競争=勝負事という原理がしっかりと根を下ろして」いる(p.150)という指摘。■ハラナは、「本来性の回復」とかいった空理空論には、くみしない。しかし、すでにのべたとおり、「私たちが理解しているスポーツ概念」から、絶対に解放されないと、いいきれるだろうか? 期待とか理想とかではなくて、決着がつくという現代スポーツの もりあがりを、とまるはずがない うねりとみなす見解は、現状の追認でしかないような気がする。■筆者自身、「スポーツにまったく興味関心を持てない人、スポーツ外在的観点から出られない人は、おそらく実際に相当数存在している」と推定している(p.221)。筆者は、「現代の社会は、そのような人たちにとってあまり生きやすい社会ではないでしょう。」「私はスポーツに何の興味関心もありません。そもそも何のためにあんなことをやるのか、まったく理解できないからです」「という、その人にとっては一点の曇りもない真理を公言したところで、当人にプラスになることがあるとはあまり思えません。もし会社の面接でそんなことを答えたら、面接官に少しエキセントリックな印象を与えてしまうかもしれません。」「ですが、この種のスポーツ無関心人間は、現在ではやはり少数派に止まるでしょう」(pp.221-2)とのべる。■その現状分析は ただしいかもしれないが(厳密には、スポーツ社会学などの実証調査で、たしかめられねば、わからない)、それこそ「ファシズム」的ではないのか? 「健康志向」「勤労志向」でないと、落伍者/変人と みなすことが当然視されるような 現代が、一種の 無自覚な「ファシズム」であるのと、おなじような次元で。
■「現代スポーツのエートス=本質とはなにか?」という意味での「エティカ」を追究する学究がいることは、なにも問題はない。■しかし、それは、現状追認とギリギリ「せなかあわせ」の、社会学などが とりくむべき 現象論であって、倫理学者は、現状から自由に思索を徹底化すべきではないのか? 倫理学者が、世間的な意味で、倫理的なモノサシを探求すべき存在でないことは、よくわかる。しかし、それは同時に、現状の支配的な意識/ふんいきを 分析・分類し、本質化する作業でもないはずだ。「現在のところ支配的な本質」(p.172)から解放された、自由な思索ができない哲学者など、ナンセンスだろう。存在理由がない。■筆者は、自分たちの にぶい思索を整理しきれていない 既存の倫理/哲学者に支配的な「スポーツ・イメージ」からは充分解放されているだろう。そして、存分に のりこえのための 自在な思考を徹底させたかもしれないが、「現在のところ支配的な本質」からは 解放されそこなっている、としか、おもえない。■キツイ いいかただが。
■本書が、たとえば、友添秀則/近藤良享『スポーツ倫理を問う』(大修館書店,2000年)などが、いわゆる優等生的な理想主義をかたるだけで、なんら哲学的でないエッセイ集=感情論にとどまっているのと、別次元の地平にあることは、あきらかだ。それを、正直に いわおう。■しかし、同時に、本書が「巻末の「文献案内」にあげている、『大航海』(No.2:特集 スポーツは病気? 新書館,1995年)の諸論を、本当にのりこえられているであろうか?
■とはいえ、筆者が本文最後でのべるセリフは、たいしたものだ。
……今度は、あなたが「自分にとってスポーツとは何か」考える番です。私を含めた他人の見解は、すべてそのために利用されるべき(使い捨てられるべき)手段にすぎません。……(p.224)
