相原奈津江『ソシュールのパラドックス』 (エディット・パルク)は、ふしぎな本である。■きまじめな日本語教師が、言語学者ソシュールの講義録を軸に、永年の熟考を まとめた言語論なのだが、やはり「コメンタール(注釈書)」というべきなのだろうか? ■ちなみに、著者は、ソシュールの講義録『一般言語学第三回講義―コンスタンタンによる講義記録』(エディット・パルク)の翻訳者のひとり。
■日本語教育関係者のNPO法人「言語文化教育研究所」のメールマガジン「ルビュ言語文化教育 」に 掲載された、ご本人の 紹介文を転載する(改行の修正・強調等を、ハラナが無断でおこなっている)。

■ わたしから一言 ■□■□■□■□■□■□
今,なぜソシュールなのか。                相原奈津江
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 今,なぜソシュールなのか,と多くの方々は思われるかもしれません。ソシュールの一般言語学の講義は90年も前の話で,言語学はそれ以後,確実に進歩していると思われているからです。
 しかし,本当に言語学は進歩したのでしょうか。進歩するとはどういうことでしょうか。確かに研究はより専門的になりました。ところが,専門的になればなるほど,その対象が忘却され,言語なるものが不問のまま,隠蔽されてしまったとは言えないでしょうか

 実はソシュールの時代も同じだったのです。「言語以上に空想的で不条理な考えを引きおこした領域はありません。ランガージュという対象は,ありとある蜃気楼を生み出しました」とは,『一般言語学第三回講義』の序章の言葉です。当時もあった音声学,文献学,比較言語学,規範文法が蜃気楼だと語られているのです。「ランガージュの中で生み出された数々の現象の,その真実からほど遠い観念を,今まで手を付けずにいた誰もが心に抱いてしまっているのです」(20p)。
  「言語とはなにか」の問いに「今まで手を付けずにいた」ために,「真実からほど遠い観念」が抱かれ,それが一人歩きしていたのです。誤りの大きな理由は「研究の視点で,文献学,あるいは比較の段階に共通する大きな欠点の一つは,文字,つまり書かれた言語に奴隷のように拘束されていて,実際に話されている言語と表記記号との違いが,はっきりと区別されていなかったことです」(16p)。現在も克服されているとは言い難いと思われます。
  「文学言語が一定の形になるのに成功した時,その状況(書かれることで固定された,書かれた言語に依存する関係)に基づいて会話することで,人は保証を与えられます。それは,生きた言語の動きを教えてくれるものではありません」(54p)。音声学は生きた状況のようにも思われますが,例えば音素とは耳の出来事の単位でしょうか,口の出来事の単位でしょうか。耳の出来事を口の出来事で代理させ,それを表記に置き換え,実は目の出来事になっていたりするのではないでしょうか。

 「言語の生きている状況」に目を向けたソシュールは,「言語学とは,当然,自分が多くの観念を訂正するような立場,多くの研究者が間違いを犯しやすく,またもっとも重大な過ちを犯してしまう場所に光明を与える立場」(20p)であろうとし,それまでの言語学を批判する形で一般言語学を講義しました。「大衆全体の広がりの中にその対象がある」(19p)のです。

 「日本語」の研究は,近年ますます専門化される一方ですが,「日本語」という対象は地理的,時間的にどこにあるのでしょうか。「表記と話されるものとの間で一緒には出来ない記号の二重の体系が,一緒くたにされてしまっ」(15p)てはいないでしょうか。話される記号の単位を考えず,まるでジグソーパズルのように専門分野が寄せ集められ,架空の「日本語」が学問的に組み立てられ,いつしかそれを「真の日本語」,「正しい日本語」として想像するようになってしまってはいないでしょうか。
 言語はうつろいゆく束の間のものであり,決して固有の何かではない,というのがソシュールの考えです。ところが,ソシュール以後,皮肉にもソシュールの名において,言語すなわち規範であると捉えられてしまったのです。誤解の最大の原因は,セシュエとバイイによって編纂された『一般言語学講義』にあると考えられます。

 「大衆全体の広がりの中に」誤りがあるはずはありません。言語が変化するだけです。変化しない言語はありません。「エクリチュールと言語の間にある隔たりが無意志的」なので,常にズレが生じざるを得ないのです。「正しさ」の前で苦しめられているのは「日本語」教師だけではありません。現在,大衆全体がノイローゼ状態にさせられていると思われるほどです。大衆の誤りを得意げに指摘する人達は,その前に自分の存立基盤がどこにあるかを考えた方がいいと思います。その蜃気楼の源をソシュールに求めても,そういう人達に対し,ソシュールは沈黙の暗闇の中で首を横に振るだけでしょう。まさに『ソシュールのパラドックス』です。

※引用ページ数は相原奈津江・秋津伶訳『一般言語学第三回講義』より
 他に参考文献,相原奈津江著『ソシュールのパラドックス』
               (あいはら なつえ・エディット・パルク)
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■しろうとかんがえながら、相原先生、少々誤解されているかもしれない。■もし、理念上の言語学徒であるなら、「言語はうつろいゆく束の間のものであり,決して固有の何かではない」という、言語認識を当然ふまえているはずだし、まして「表記と話されるものとの間で一緒には出来ない記号の二重の体系が,一緒くたにされてしま」う、といったことは、ありえないからだ。■「架空の『日本語』が学問的に組み立てられ,いつしかそれを『真の日本語』,『正しい日本語』として想像する」といった、非言語学的な認識・態度は、論外である。なぜなら、「言語はうつろいゆく束の間のものであり,決して固有の何かではない」からだ。
■しかし、「言語学者」として 大学・研究所に在籍し、世間も「言語学者」として遇しているとしかおもえない ひとびとが、「真の日本語」,「正しい日本語」の教祖のような ふるまいを、はじらうこともなく くりかえしている。■たとえば、菊地康人『敬語』(講談社学術文庫)、 『敬語再入門』(丸善ライブラリー)などは、典型か? ■東大の 菊地先生には、阪大の山下先生が、「敬語研究のイデオロギー批判」という論文で かみついている(笑)。以前紹介した野呂 香代子・山下 仁【編著】 『「正しさ」への問い―批判的社会言語学の試み 』(三元社)に収録されている。■紙幅の関係で、ここでは 内容に たちいらないが、言語学者たちが、規範主義的美意識から解放されていないことだけは、はっきりしている。ミュージカル「マイフェアレディ」の主人公、ヒギンズ=言語学者が、階級的な差別意識の とらわれびとであったという、原作者 バーナード・ショーの 痛烈な皮肉は、いまだ おわらない「物語」なのだ(笑)。■余業でかいているにすぎない 作家、橋本治さんの『ちゃんと話すための敬語の本』(ちくまプライマリー新書)が、意外に 社会言語学的で、スキが ほとんどない、ってのは、敬語論周辺の 言語学の先生方の敗北を象徴しているいるような気もするし。橋本さんの分析は、規範主義でなく、実態に即したリスク回避論として、さめた 「きれあじ」が さえるばかりなんだな
(ちなみに、橋本さんの論法は、一見「社会言語学的マナー集」然としているけど、えがかれている現象、まにうけてしまう読者を 冷笑するような 痛烈な皮肉=反権威主義が、行間から ほとばしって、きもちいい。たとえば、「日本語には豊かな表現がある」なんて章も、まにうける読者をオチョくっているようにしか、よめない。笑)。
■菊地先生たち 言語学者が「卒業」しきれていない 規範主義=美意識は、たとえば 小津安二郎[1903-63]監督による映画作品の登場人物(昭和初期の東京山の手の中産階級)に 直接影響をうけているのかもしれない。かれら登場人物たちは、中産階級方言を 象徴化して身体表現したものだが、それが 具体的に、「関係性・価値観の うるわしさ」「やりとりの美学」といった 美化の 対象と されたとき、それらは モジ化され、評論・啓発書の 素材とされるだろう。■ハラナ個人は、小津作品の 登場人物の 身体感覚を 無批判に たたえる 姿勢の 無思想性・政治性に 賛同しかねるが、それは おこう。しかし、問題は、モジ化され 評論・啓発書の素材とされた 敬語表現などが 物象化=仏神化して、先生方の規範意識を支配しているだろうことだ。■アナログ情報としての 音像/図像(かりに、ディジタル情報として保存されていても)が、暗黙のうちに 提示する、階級的・地域的序列、つまり「文化資本」による 差別化・序列化は、たしかに 問題だ。しかし、「カルチュラル・スタディーズ」「メディア・リテラシー」の授業じゃあるまいし、音像/図像という アナログ情報そのままで、素材が 検討されることは、ごくマレだし、すごく「高級」なことだ。実際には、敬語法であれ、「洗練された日本語」であれ、普通は、モジ化されることで、はじめて評論・啓発書の素材とされるという 構造が、ぬきがたい。■モジ化 されることで コボレおちる、膨大な情報が 問題なんじゃなくて、モジ化 されることで ネジまがって 記録され、固定化した 情報が、「規範」=疎外体として 先生方の 思考も ネジまげ、コチコチにしてしまう、という構造は、いなめないとおもう。■まさに、相原先生の問題化している、「架空の『日本語』が学問的に組み立てられ,いつしかそれを『真の日本語』,『正しい日本語』として想像する」といった、非ソシュール的な認識・態度が、実は、言語学界を、おおっているのではないか。
■それは、おそらく、「真の日本語」「正しい日本語」を おしえてよいと、誤解されつづけている、国語教育・日本語教育では、疑問視されることなく、ロコツに ふきだすのだ。■大学や研究所あたりでは、さすがに 同業者、とりわけ わかて研究者の さすような視線を 意識して、おバカな 放言を、さしひかえている。しかし、そんな ガマンを つづけている研究者たちの 美意識=ホンネが、濃縮・凝縮して 露呈するのが、国語教育・日本語教育への「指導」ではないか? 「啓発」書、審議会、教員養成課程、……といった、学界内部の緊張感が ほどける空間、名声にまもられて「放言」が 容認されてしまう場、加齢によるものか地位によるものか 保守的で体制護持的な姿勢が当然視される意識が、ないまぜになる時空で。

■ただ、菊地先生ほど ロコツに 規範主義を ふりまわる御仁は、さすがに 激減したことも、たしかだ。■基本的には ただしい日本語が あることには疑問がないらしい 執筆者たちが かいたとおもわれる『問題な日本語』(大修館書店)でさえも、表紙おびカバーの「へんな日本語にも理由(わけ)がある。」という コピーは、けっして「看板だおれ」「羊頭狗肉[ヨートークニク]」ではない。「必ずしも誤用とは言えず」といった評価が、たびたび くりかえされているし、「現在、一般化している」といった、現状追認主義によって、単なる「規範主義」には、おちいっていない。ハラナの語感とか 語源意識からして、おおむね 妥当な結論に なっているという項目が大半だ。みちびきかたの姿勢・理念には、「規範主義」の シッポを、感じるけどね(笑)。■ちなみに、『問題な日本語』、スジとしては、「『言語学の倫理と近代主義の精神』にそおうとしながら、中途半端におわってしまった言語学者群像」を 皮肉っぽく たのしむ本、ってことになりそうだが、ハラナ個人は、4こま(ないし8こま)マンガで、執筆陣を 完全に オチョくっている いのうえさきこ さんのセンスに、脱帽した(笑)。■編者の 北原保雄先生、ふとっぱらなのか、鈍感なのか(笑)?
■実は、『問題な日本語』が、読者に どううけとめられているかを推測するうえでは、Amazonの「カスタマー・レビュー」が参考になる。■みんな、大半は、「冷静で客観的な基準にそった正誤判定」を もとめているんだな。そして、それらが、音声言語の動態(「うつろいゆく束の間のもの」)ではなくて、たやすく モジ化可能な水準だけに とどまっているのは、象徴的だ。■相原先生の指摘は、予想以上にふかく、射程がながそうだ。

■ 『一般言語学入門』とか、『共時態、通時態、歴史書誌情報』といった、ソシュール批判で有名な、エウジェニオ・コセリウの ツッコミなんぞも、『一般言語学第三回講義』とかによって、ソシュールの真意が わかるまえの「ひとり相撲」だったのかな、って、気もする。■日本のソシュール信奉者たちの一部に、命日をいわったりするな、って、ツッコミをいれていた、亀井孝 大先生の いい分もわかるし、ソシュールのといた基本概念のおおくは、ドイツ系の先人たちにおっているという、亀井・田中 両先生たちの 正当性も 当然だとおもうけど(笑)。
■その意味では、「○○は、やっぱり エラかった」といった、権威主義的な温故知新系の回顧ではなくて、現代的な課題に日々直面する現場教師が、くりかえしたちかえった「原点」の意義。味読の迫力を あじわいたい。■こういった読書ができるなら、一生に数冊しかよめなくても、後悔しないんじゃないか? 

■ともかく、味読してほしい。じんわりと、きいてくる インタビュー集だ。訓詁学的な ソシュール注釈書としてでなく、コトバの本質を かんがえぬく態度を 代理体験するためにも。