■スポーツが、業界関係者と愛好者/ファンの占有物として、「真空」状態のなかでだけ展開される現象ではなくて、すぐれて社会的存在であることは、いうまでもない。■スポーツ社会学をはじめとして、社会現象としての「するスポーツ/みるスポーツ/ささえるスポーツ」を対象化する作業が、たくさん たくわえられている。
■今回は、年報龍谷大学 社会学部ジャーナル RON RON(龍論)』(第2号,2003年)掲載のシンポジウムから。
■『フットボール都市論―スタジアムの文化闘争』(青土社,2002年)などの著書をもつ、フランス現代文学研究者の 陣野俊史 先生が、現代日本は 社会的な中間層が 二極分化してきて、その上層が サッカーの 基本的ファン層を かたちづくっている。基本的に労働者の愛好する(みる/やる)スポーツである、サッカーが、こんなかたちで うけいれられている国は、「たぶん世界中探して1つもない」とのべている(『RON RON』Vol.2,p.95)。■これは、かきことば、天皇制、キリスト教受容と、ならんで、日本特殊論を展開するときに、かならず あげられるべき 要素だとおもう。

■?ひらがな/カタカナ だけでなく、漢字表記という、まったく異質な表記体系が ごく普通に まぜがきされること。ときには、ローマ字まで まぜがきされるといった、複雑怪奇な書記体系が ごく自然に うけとめられていること。「訓よみ」という曲芸的な 慣習が ごく普通であり、「語呂あわせ」という、外国人には理解不能な 暗記法まであるなどは、日本が特殊な文化空間であることの、重要な点だ。
■?民族的な一王族にすぎないにもかかわらず、その歴史性・独自性が突出した伝統をもつと、国民に信じられており、かつ、周囲の王族との姻戚関係をいっさいもたない(近代期に、一時もとうとしたが、失敗)という異様さは、やはり「独自な王権」というほかない。
■?キリスト教の 教義の是非はともかく、人口の1%前後の信者しか 定着しなかったという経緯は、近世期の「かくれキリシタン」の伝統、ミッション系教育機関と教会のおおさ、米英など「友好国」の大半がキリスト教圏であるという現実、クリスマス/バレンタインデー/挙式など少数とはいいがたいキリスト系儀礼への大衆的な執心などと対照したとき、異様というほかない。

■そうなのである。おなじフットボールでも、ラグビーが 裕福な家庭のお坊ちゃんたちが大学とその準備校で本格的にアマチュア選手生活をはじめるのと対照的に、サッカーは、「あわよくばプロ選手」といった、労働者階級の少年たちの 階級脱出の夢想をのせた、庶民のスポーツだ。■タイのムエタイ(キック・ボクシング)が、けっして上流階級の男性にこのまれないように、社会階級に対応した スポーツの典型例なのだ。
■しかし、ハラナは、よくおぼえているが、1970年代、一部のファンしかいなかった、サッカーで話題となるのは、釜本選手なんぞではなくて、ドイツの「皇帝ベッケンバウワー」さま、だったりしたわけだ。当時のサッカー小僧は、庶民の「ハナたれ小僧」ではなくて、医者や船長さんのご子息だったりしたのだ(笑)。■ヨーロッパの大衆文化は、日本にもちこまれるときに、大学の「蹴球部」文化などとともに、確実に「高級文化」に、すりかえられたのだ。
■おなじシンポジウムにパネリストとして登場した、龍谷大の亀山佳明 先生が、サッカーと野球のファン層を比較していたのは、重要だ。

 ……例えば、甲子園球場の阪神タイガースの試合観戦に来ているお客さんと、Jリーグの試合観戦に来ている……お客さんとは、明らかに階層が違うんですね。
 僕が面白いと思うのは、阪神タイガースの応援席を見ますと、なかなかユニークな人が多いんですね。夏なんかはステテコ一丁でおられるおじさんとか、そばによっていくと、怖いんじゃないかなというふうなおじさんとかがたくさんいて、随分、野次ってるんですよ。昼間から、お酒の匂いをぷんぷんさせているようなおじさんが。
 ところが、ガンバ大阪の試合観戦には、子ども連れの若いサラリーマンのお父さんお母さん、といった中産階層的なイメージの強い人が多いんですね。……Jリーグ、あるいはサッカーは、少し大袈裟な言い方ですが地域エリートのものであって、まだ地域に根付いてないなというふうに思います。
 というのも、甲子園に来ている阪神ファンのおじさんたちは、何があっても阪神タイガースを支えますよね。陣野さんの『フットボール都市論』という著書では、結局、日本はまだ、近代を上手く抜けてないんだということをおっしゃっている。それは労働者にスポーツが深く根付いていないことからわかると。
 でも、阪神ファンには、わりあい根付いていると思います。ところが、Jリーグ、サッカーファンには、流行が過ぎれば、冷たくあしらうような中産階級の人たちが非常に多いと思うんですよね。そこのところに日本におけるスポーツの根の弱さというのを僕は感じて、まだ野球の方が、根っこが広くて深いと思います。
 そのことが、今回のW杯の中でフーリガンが出現しなかったこととつながっているのでしょう。フーリガンはいたじゃないか、道頓堀に飛び込んだじゃないか、渋谷で騒いだじゃないか、と言われるかもしれませんが、あれはとてもフーリガンとは言えないですよね。興奮した連中のただの憂さばらしでしょう。ヨーロッパサッカーにおけるフーリガンは、労働者階級のある意味の自己表現のかたちと言えますからね。……[pp.105-6]


■世界中でサッカーが どう うけとめられているかは ともかくとして、ヨーロッパでは、サッカーは、労働者がよろこんでみるスポーツであり、労働者出身の少年が、そこからの飛躍をゆめみる舞台だ。■日本は、全然ちがう。
■ヨーロッパのサッカーリーグは、アメリカのメジャー・リーグ・ベースボール同様、世界中の才能を「レンタル輸入」して成立する最高水準という、「南北問題」=旧宗主国支配構造をもっている。■日本の野球もサッカーも、本場で一流をはれない選手層が、「でかせぎ」「ファーム」として利用する空間にすぎない。だから、日本人選手も、とびぬけた層は、脱出をはかる(笑)。■もっとも、「でかせぎ」したくなる程度のギャラを奮発する点で、「なりあがり金満家」の 道楽という性格はあるが。
■こういった世界構造にまで視線がむかう、一部のスポーツファンはともかく、大半のテレビ観戦層は、自分がなぜサポーターをやっているのかっていう、位置づけは全然できていないだろう。にわかサポーターたちは、「つよいところだからすき」「スター選手がいるから応援」「ちかくに、スタジアムがあって、たのしそうだから、いく」といった、ねっことは、いいがたい浮動層にちがいない。■「なに? ヨーロッパのフーリガンたちだって、資本主義の矛盾の産物としての自分たち、なんて階級意識なんて、ないって?」  それはそうだ。しかし、阪神ファンの おっちゃんたちにまけないチーム愛がある。それに阪神ファンより数十年もながいサポーターの歴史があったりするんだよね。そして、ブルジョア少年たちは参入してこないアリーナへの、ゆめがかけめぐっている。あるいは、ありし日のゆめが、おどる。「オレだって、ケガさえしなければ、ピッチにたっていたかもしれない」とかね。■もちろん、阪神ファンや競輪ファンの、選手への愛は、みとめる。しばしば、怒気をともなったね(笑)。これに階級意識がからまったら、充分フーリガンと同質になる。
■そういえば、陣野さん、釜ヶ崎の日雇いのおっちゃんたちが、2002年ワールドカップに無縁な層だって、フランス、ル・モンド紙が取材にきたことにふれていた。そして、数十円で観戦できる制度をつくれば、おっちゃんたちも、カネのない若者やフリーターもくるだろうって、指摘していた。たしかにそうだよな[p.95]。
■メディアが カネもうけのために、利用しようといった さもしい動機からだけ、スポーツ振興しているようでは、ねっこは、絶対にはえないよね。

■それにしても、龍谷大のこのシンポジウムが、かたられたのは、2002年だが、話題にのぼった近鉄バッファローズは消滅。よわいチームなら3つぐらい とりだせる、日本シリーズで西武を4タテにした つよすぎる某球団は、最下位に沈没(笑)。大阪バッファローズと企業名をはずそうという うごきが指摘されていたのに、むしろ楽天・オリックス・ソフトバンクなどと、企業名が完全に広告塔として健在……など、時間のながれを痛感させるものだね(笑)。


■ちなみに、ジャーナル『RONRON』の入手は、journal@rnoc.fks.ryukoku.ac.jp あて。