■きのうは、スポーツといいながら、野球とサッカーをとりあげたにすぎない。■しかし、例のシンポジウムも、あとひとつ、プロレスなど格闘技が くわえられていただけだった。■で、観客動員数とか、年間の興行回数とか、平均視聴率とかをかんがえると、この3つに かなわないってことだろう。■しかし、オリンピックをみて、「こんな競技があったんだ」って、おどろかされることが おおいように、いわゆる人気スポーツばかりが、スポーツじゃないことは、いうまでもない。
 
以前紹介した、川谷先生も、スポーツとはなにか?、って、本質論を展開していたが、たとえば、シンポジウムによばれていた、「大阪プロレス」の スペル・デルフィン(Super Delfin)さん自身がみとめているとおり、プロレスは「エンターテイメント」としての、パフォーマンスでしょう。けっして、格闘技じゃないし、すくなくとも、スポーツではない(笑)。■半世紀まえに、力道山の勇姿が、あのNHKでテレビ中継されていたという、ものすごい時代の位置づけはともかくとして。

■それはともかく、なにが スポーツとされ、なにが スポーツとみなされないかは、実は、その社会をうつしだすものだと、ハラナは にらんでいる。■でもって、川谷先生は、優劣をつけようと 死力をつくす 肉体競技 として、ルールが整備され 制度化された ものと、位置づけているとおもう。■しかし、それで、完全に シキリが すっきり ひけるかというと、かなり あやしいんだね。たとえば、キックボクシング系の興行である、「K1」が、プロレスみたいなパフォーマンスってかんがえるひとは さすがにいないだろう。■しかし、スポーツ新聞はともかく、全国紙やもちろん、普通の日刊紙のスポーツ欄に「K1」がとりあげられることは、例外的事態だろう。「K1」が特別話題になったときに、社会面にちいさくとりあげられる以外は、基本的には、テレビ欄だけの存在なのだ。■モータースポーツや競馬は「スポーツ欄」であつかわれるが、競輪や競艇の結果が一般の日刊紙であつかわれるとはおもえない。■これらの、「シキリ」は、どこからくるのか?
■結局、それは 権威の問題に帰着するんじゃないだろうか? 大相撲は、しばしば「星のうりかい」といった 「八百長」疑惑がとりざたされる。はっきりいって、千秋楽で7勝7敗の力士の勝率がたかすぎる(笑)。横綱審議委員会という組織のメンツ自体 あやしげな組織が、権威をほころうとしても、一種いかがわしい ふんいきを、ぬぐいようがないがね(連続優勝という規定と無縁に、期待だけで[もちろん、潜在的には空前絶後の運動能力のもちぬしだったかもしれないが。笑]横綱に昇進し、優勝せずに廃業におこいまれた双羽黒[北尾]光司の存在だけをとっても、相撲協会が業績原理にのっとった近代的組織ではないことを証明している。小錦の横綱昇進疑惑はもちろん、貴乃花の横綱昇進を異常に慎重にためらったことも、ふくめて。)。ともかく、日本相撲協会という興行団体を、伝統芸能の継承組織として、NHKをはじめとした国家機関/準国家機関が、権威化をよしとしていると(笑)。■しかし、すくなくとも 競馬と競輪と競艇とを、はっきり区別できるような、競技の本質的差異などないはずだ。出身地など、選手同士のコネが、包囲網として劇的に作用する競輪の実態とか、第一コーナーで ほとんど順位が確定してしまうといわれる競艇は、いかにもギャンブルっぽいのかもしれないが、公営ギャンブル同士として、質的ちがいがあるとは、おもえない。欧米とちがって、競馬が紳士淑女の趣味でないことは、あきらかだしね(笑)。■競馬がギャンブルとして位置づけられ、障害物競技などとしてきそわれる「馬術」が、ブルジョア系のアマチュアスポーツとして、マイナーながら権威がたかい、なんてのも、陽は、欧米の白人支配階級文化の産物の権威にすぎないんじゃないか? そうかんがえると、おなじ公営ギャンブルとして、労働者の日銭をまきあげて、赤字経営の公的資金運用のあなうめに援用されようとした(現在は、赤字ギャンブルがおおいそうだが)競技のなかで、競馬(JRAだけみたいだが)だけが日刊紙のスポーツ欄にとりあげられる理由のひとつが、すけてみえる。競艇や競輪にあたる欧米文化がないからね(笑)。■というか、プロがこれだけ、ぶあつく、しのぎをけずっているのに、五輪公式種目になっても、優勝がほとんどできない競輪陣って、無能なんじゃないかと、とてもフシギ(笑)。■五輪競技とは無関係に権威がある、自転車競技「ツール・ド・フランス」なんてのも、ナショナル・チームが、敵を包囲したりとか、自国のエースの かぜよけになって、体力温存をたすけたりとか、個人競技のはずが、実質的なズルが公認されているような大会もあるが、これらが、「あやしげ」といわれることは、まずない(笑)。これ自体、あやしげだと、ハラナはおもうが。
■基本的に「ガチンコ」とみなされている野球・サッカーなどでも、たまに、八百長が問題化する。それは、普通「真剣勝負」って、信じられているからこそ、落差がおおきいというか、スキャンダル性がたかいという、逆説もなりたつけど、モグリで、カケの対象になっているって現実、ひとつとっても、健全なスポーツって、イメージとは、別なんだよな。サッカーなんて、公営のクジまでできてしまったし(笑)。■でもって、野球・サッカーにかぎらず、本気でたたかえたもんじゃない試合状況とか、どうかんがえても、戦意喪失って「ながれ」は、さけられないんだよね。そういったときに、「真剣勝負」っていうのを、うんぬんするのは、ヤボってもんだ。■その意味では、スポーツも、ショーであり、エンタテイメントなんだ、って、わりきって、しかし勝利市場主義を演じてみせる、長嶋茂雄とかイチローってのは、プロのカガミなんだとおもう。お客さんが、よろこばなきゃ、お客さんが球場にあしをはこんでくれ、テレビをみてくれるという、観客動員力を追求しないのは、プロじゃないんだね。■もちろん、求道者、前田(広島)とか、桑田(読売)とかは いるし、寡黙な野武士 野茂のように、いきかた自体が、こうごうしく みえてしまう、選手は いる。しかし、それは特殊な例外であって、基本は、セコイ勝利至上主義ではなくて、「お客さんによろこんでもらえるプレイ」という姿勢に徹することが、感動をよぶのだとおもう。■そうかんがえれば、プロレスなどのエンタテイメントと、質的に、全然別のものとは、いえないはずなんだよね。■すくなくとも、ペナントレース(リーグ優勝あらそい)終了後の「消化試合」をみるかぎり、勝利とは無縁な個人タイトル競争が、不毛な展開をしめしたりと、ほんすじから はずれた「競争」が、けっこうある。年俸獲得運動はともかくとして、「消化試合」期間が、死力をつくしたたたかいとは、到底いえないだろう。■「それも、スポーツだ」ということは、スポーツ社会学的には いえるにしろ、「優劣をつけようと 死力をつくす 肉体競技 として、ルールが整備され 制度化された もの」という「定義」からは、はずれた、奇妙な現象になりはてる。もちろん、ファンの一部は、それに興奮してくれるけど、大半は、しらけているよね。
■それからすると、優勝がきまってしまおうが、個人の番付の基礎資料が、最後まで確定しない、大相撲というのは、「ガチンコ」のパーセンテージはともかくとして、よくできた興行だと、つくづく関心する。
■とはいえ、日本相撲協会をはじめとした大相撲の興行としての 「ウラ」の実態はともかく、
相撲が スポーツなのかどうかについては、専門家自身、留保している始末であることは、記憶にとどめておいてよかろう。■たとえば、相撲の成立史を簡潔にまとめただけでなく、その本質をするどく分析してみせた、新田一郎氏の『相撲の歴史』(山川出版社)では、アマチュア相撲をスポーツと位置づけながら、大相撲は伝統にねざした興行という見解がでていた
(現在、てもとにないので、詳細は、後日確認する)。■新田先生(日本法制史:東大法学部教授)、みずからも学生相撲の選手としての経験があり(かなり、つよかったようだ)、ご自身出身の東大相撲部の監督をしていらしたがいまは、部長らしい、日本学生相撲連盟理事の理事などもつとめた、相当の相撲通(マニア/オタク)だが、まわしという衣装と、土俵以外に、伝統的制度をおっていないアマチュア相撲は、基本的に近代スポーツであり、それがゆえに、人気がもりあがらず、大相撲は、大銀杏など、まげ、とか、行司さん、呼出さん、番付、部屋制度、御茶屋、タニマチ衆とか、さまざまな興行的資源があるからこそ、「国技」というイメージがたもたれ、人気が維持されているのだという。
■たしかに、周防監督作品の『シコふんじゃった』などでパロディ化されるとおり、大学相撲部は存続の危機にあるところがおおいが、それは関係者だけの心配ごとにすぎない。学生相撲のすそのが せばまることで、人材が不足し、水準がさがることを本気で心配しているのは、学生相撲関係者と大相撲のリクルーターぐらいだろう。■これは、実に重要な格差だ。アマチュア相撲は存続の危機が国民的課題にはけっしてならない、一アマチュアスポーツにすぎず、かりになくなってしまっても、国民の大半は、さほど真剣にながくとはおもえない。■しかし、横綱審議委員会という組織の存在をふくめて、大相撲人気がおとろえたとはいっても、プロ野球・高校野球についだ、国民的人気興行であることには、ちがいがない。■この、そこがたい人気が、純粋なスポーツとしての本質から、うまれるはずがない。アマチュア相撲との温度差、人気の格差は、あきらかに「国技」という、伝統芸能としての本質
(もちろん、歴史家たちがいう「伝統の創造」の産物だけど)が、もたらしたものだ。
■そして、実は、大相撲ってのは、ほかのスポーツとちがって、純粋なリーグ戦じゃなく、格のちがいごとに、「取り組み」をさせて、「番付」表をくみかえる、という儀礼こそ、本質なのだ。たとえば、「幕内優勝」は、あくまで、「取り組み」をおもしろくするための、装置のひとつにすぎない。■もちろん、「ほかのスポーツだって、優勝あらそいに付随した順位あらそいが、きそわれている」という反論がでそうだ。しかし、かんがえてもみてほしい、「取り組み」は、幕内力士間でも、「総あたり」じゃないんだ。なにしろ、本場所は15日制だからね。リーグ戦にしたければ、15人にするしかないが、ケガ人がでるかもしれないとかだけでなく、もりあがりそうにないから、そういった制度は絶対にできないだろう。
■大体、同部屋同士では、優勝決定戦しか、「取り組み」がないし、幕じりあたりで、大勝して、優勝争いにのこるなんて力士がでること自体、「幕内最高優勝」なんて、ペナントが真剣にとらえられていない証拠。横綱・大関と、1?2の対戦があっただけで、優勝なんて、おかしい。■連勝して調子がいいいと「目をつけられた」ばあい以外、横綱・大関にまともにあたらない前頭中位以下は、ほんとは優勝あらそいから、除外しなきゃいけないんだが、そのヘンが、真剣に議論されたことなんてない。■どうかんがえても、中長期的に、「番付」という、地力ランキングを維持していくために、本場所があるとしか、おもえない。これひとつとったって、これは近代スポーツじゃない。トーナメントでないのに、リーグ戦でもない。優勝が本気でとらえられていない。「つよさ」、というより、みせることの様式美をむしろ前面にだしている■これだけとっても、これは、リッパに興行だ(笑)。■審判にあたる行事さんが、親方衆からえらばれた、「審判部」役員に「さしちがえ」なんて判定をくだされて、ときには、引退させられるとか、行司さん自体が、どこかの部屋に所属して、修行しつつ、「格」をあげていく「出世レース」をくりひろげている、といった、およそ、業績原理とはちがった、面もみのがせない。
■もちろん、女性を土俵にあげないとか(女子選手を排除している野球だって、始球式ぐらいは、マウンドにあがらせるぞ。笑)、「年寄株」といった、いかにも不明朗な利権制度だとか、ウラ舞台は、プロレスに準ずるぐらい、「あやしげ」なのだ(笑)。
■このように、かんがえれば、スポーツ新聞はともかく、一般の日刊紙は、大相撲をスポーツ欄から除外するのが、スジなのだ。■しかし、日本人で、こんなことを、まともにかんがえている層は、ごくわずかだろう。ハラナのような、強度のヘソまがりぐらいか(笑)? ■相撲に関心があろうがなかろうが、「日本を代表する文化」という認識と、「伝統にねざし、精神性をおもんじる、柔道などと共通した格闘技スポーツ」というイメージは、なんの緊張感もなく、融合するのだ。■だが、両者とも、ものすごい問題をはらんだものであることは、あきらかだし、大相撲がスポーツとして、つゆほども、うたがわれない、ってところに、多数派日本人の、かくれた国民イデオロギーが、すけてみえる。