■先日、アマチュア相撲は近代スポーツだが、大相撲は近代スポーツとはいいがたい側面が濃厚だとのべたが、逆説的な はなし、非情に近代的な部分もあるとおもう。■それは、まげ/まわし/しこ名という、究極の「民族伝統」を死守しながら、リクルート(軍事用語で、「新兵補充」)は国際化しつつあるからだ。横綱朝青龍をはじめとして、土俵上の人気の中軸は、あきらかに「日本国籍」以外の力士に移動している。
■それは、もちろん、廃業してプロレスラーに転進した力道山をはじめとして、朝鮮半島出身者ないし、そこに出自をもつ層を戦前から、まきこんでいたことに、端を発する。琉球列島に、独自の相撲(「シマ」「沖縄角力」,韓国のシムルや、モンゴルのブフに、ちかい)があったにもかかわらず、その人材が大相撲にも、吸収されていった。■その意味では、近代興行として、「伝統の創造」をおこなった大相撲は、帝国日本の植民地拡大に応じて、リクルート空間と巡業空間をひろげていったといえよう。
■しかし、力道山は、のちに朝鮮半島出身者であることが、ひろくしられるようになるまで、日本人の象徴として英雄視されてきた。戦前に朝鮮戸籍をすてて内地戸籍にきりかえたため、戦後は国籍上「日本人」として、なんら変動をきたさなかったこともあって、いまでも、日本人だとおもいこんでいるひとは、すくなくないだろう。■すくなくとも、NHKで中継されていたプロレスの勇姿を、旧植民地出身者が日本人だと演出している、と、うけとめていたひとは、すくないだろう。在日コリアン系のひとびとの応援の動機は複雑だったにちがいないが。■いずれにせよ、野球以上に保守的なふんいきでおおわれている相撲界では、在日であるというイメージは致命的になるらしく(たにまち など、パトロンたちや、懸賞金をだす企業の意識なども、からむのだろう)、実は人口比ににあわぬ率で、在日力士はいたとかんがえられる。■本人や周囲が、その出自をかたくなにかくすかぎり、それをあばきたてることはタブー視されるのだろう、親方株の取得など、国籍が問題にならないかぎり、事実が浮上することは、まずマレのようだ。■つまり、在日力士は、野球選手以上に、「みえない」。かおつきの同質性もあって、「外国人力士」というイメージからは、はずれてきたのだ。■ついでにいえば、おとうさんがウクライナ人である、大横綱「大鵬」のことも、日本人そのものと、みていたひとがおおいにおおいはずだ。しかし、北海道そだちの大鵬は、サハリンうまれであり、帝国日本がサハリン南部を戦前植民地化していなかったら、誕生していなかったはずである。

■そうかんがえると、いわゆる「外国人力士」というイメージを形成した「立役者」とは、やはり「高見山」にはじまる、ハワイ出身の米国籍力士の登場からといえよう。■その、一連の文化摩擦のなかで、いくつもの「小錦」問題が浮上したということは、わすれてはならない事実だとおもう。「国技に外国人横綱などいらない」等の、野蛮な暴言が文化人などからも発せられたこと、「にくまれ役」として終始しながらも、かなりの人気をあつめ、タレント活動さえも日本を軸におこなっていることなど、小錦自身は、活動拠点の「移住」「二重生活」を成功させた、第二号なのである。■その意味で、武蔵丸という2横綱の誕生は、ふたりの先駆者なしには、かんがえられなかった。高見山が米国籍を放棄して、日本国籍取得のうえ、日本人女性と結婚して「親方」として地位を確立したこと、小錦が実力で人気大関にまでのぼりつめ、悲運の英雄として日本人ファンの同情をひいたことこそ、「国技に外国人横綱などいらない」式の「鎖国」状況が、こなごなになったのだ。
■その意味では、横綱朝青龍をもたらした、ブフ(モンゴル相撲)出身の旭鷲山などの意義は、先駆者性としては、うすいとさえいえるかもしれない。

■しかし、「ブフ」経験者や、東欧のレスリング出身者が最近低落傾向ぎみの大相撲をかろうじて活性化しているとすれば、それは、これまでの「外国人力士」の「リクルート」とは、全然別種の事態とも、いえそうだ。■それは、いわゆる「ハワイ勢」の面々は、みな、フットボールなど、アメリカ式のタックルだけが、みぢかにありはしても、将来のレスリング系の重量級選手候補がリクルートされてきたわけではないからだ。■かれらが、みこまれたのは、単に運動能力・筋力なのであって、あしこしの安定性とか、わざの キレあじといった面では、決してなかった。■周囲に、日系人社会があり、しばしば親方衆が巡業をくりかえし、日系人社会のアマチュア相撲に着目していただろうに、日系人社会からの人材は、結局まともにリクルートされることはなかった。「柔道」「沖縄角力」など、人材がうもれていただろうに。レスリング文化が周囲に なくは ないはずの、ヨーロッパ系米国人についても同様だ。■つまりは、カナカ系の在来住民が、経済階層上 低位にとどめられたという、差別構造が土壌としてあり、アメリカ本土へのスポーツ推薦などとの天秤をかけた人材が、親方の目にとまったということにすぎない。ヨーロッパ系米国人がリクルートされなかったのは、経済階層上、そんなハイリスクな選択が魅力的にはみえなかったからだろう。現代日本人の大半が敬遠する、暴力的で禁欲的な「部屋」に入門するはずがない。■ちなみに、米国「本土」出身者で、唯一の幕内力士「戦闘竜」がいる(現在、PRIDEなど、格闘家に転身)が、かれのばあい、東京の米軍基地に勤務する技師を父親と日本人の母親のあいだにうまれ、少年時代時代を日本ですごさなかったら、来日しなかっただろう(もちろん、お母さんがらみで、友綱部屋とのコネがあったことは重要だが)。かれは、柔道/レスリングの経験があるそうだし、例外的な存在だ。 

■ともかく、ハワイ系の力士が「こしだかで、ひきわざに モロい」という欠陥は、構造上あたりまえだったのだ。■その点で、モンゴル・東欧出身者たちも、「貧困からの脱出」という意味で、「移民労働者」の一種にはちがいないが、かれらは、レスリング系の基礎技能を相当つんだうえでの、「転身」ぐみだ。「こしだかで、ひきわざに モロい」という欠陥は、基本的にない。■先日紹介した、新田一郎先生。何度も対戦する大相撲なら、中長期的に、相撲独自の技法が最強であることは証明できても、アマチュアの一発勝負のばあいは、レスリング系など、非相撲系格闘技経験者による挑戦が脅威になると、世界大会などのばあいをイメージして、のべてらしたが、中長期的にも、シムル/ブフ/レスリング出身者の技法は、大相撲自体の 土俵を変質させる可能性があるとおもう。■かりに、それが「相撲四十八手」(実際には、「決まり手」82種)におさめられてしまうにしろ、朝青龍らのわざは、土俵上を、あきらかに変革しつつあると、おもう。

■しかし、経済格差がある地域からしか、大相撲に人材があつまらないという構造は、相撲協会の ふるい体質とともに、日本社会の暗部を象徴していることを、わすれないでおこう。■工場労働や水商売など、社会の「底辺層」労働力の補充の意味で世界からあつめられる人材(ものすごい、人材の浪費)の、一環として、大相撲のリクルートもある。■せめては、日本国籍をえなくても、親方になれる。不明朗な親方株を購入しなくても、一代親方になれるような制度をつくらないかぎり、「文化的鎖国」といえるだろう。「国技」と、いいはるうちは、日本に「開国」は、やってこない。

■あと、あの 漢字表記に しがみつく「しこ名」。なんとか、ならないかね。日本国籍を取得していない力士にまで、「朝青龍 明徳(あさしょうりゅう あきのり)」は、ないだろう(笑)。■もちろん、この悪習は、「国技大相撲」だけじゃないけどね。「ユーリ・アルバチャコフ」とか、カナがきできる選手に「友利海老原」なんて、つけて、本人にいやがられたボクシングクラブ会長のケース(笑)もあるし、ブラジル出身のサッカー選手が日本国籍とるときにも、漢字表記をつけさせようとする周囲の圧力があるんじゃないか? 本人たちが全員のぞんでいるなら、とめねばならんもんでもないけど。■歌舞伎・落語など伝統芸能の「襲名」制度とか、「外国出身者も、入門した以上は、国風文化に なじんでもらう」といった態度は、いかがなものか? ■アメリカ大リーグでも、「Ichiro」「Matsui」といったローマ字表記が、かりに、米語風に なまって発音されたにしても、「Brown」とか「Smith」とかに、改名させられたりしないぞ(笑)。■日系人の「田中マルクス闘莉王」はともかく、ラモスさんの「瑠偉」とかは、必要なんでしょうかね?


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