■「数量的データをあげて冷静に議論しよう」「ものごとの判断を客観的に判断するためには、統計的な比較しかない」というのは、もっともな論理だ。■ハラナも、以前、「鉄道事故再論1[2005/07/01]で、インターネット新聞『JANJAN』に掲載された 上岡直見さんの「JR事故の構造分析 システム的・定量的検証が必要」を引用しながら、リスク論を展開した。
■つぎに引用するのは、村田光平による、やはり『JANJAN』の記事。
(強調部分:ハラナ)


「疑わしき」を明るみにする原子力報道を 2005/07/27
 最近「原子力タブー」を破り、放射能の危険性について考えさせられる報道が目立つようになりました。また、多くの人が非常に危険だと考えている浜岡原発についての報道も増えつつあります。浜岡原発と並び、最悪の場合「世界を壊す」可能性のある六ヶ所村の再処理工場についても、驚くべき安全軽視の対応が報じられております。
 以下に見るような諸報道は、原子力政策のあり方を根本から問うものと思われます。
  ◇   ◇
 1954年3月、米国が行ったビキニ環礁での水爆実験で第5福竜丸が被曝し、同年9月、久保山愛吉さんが死亡しました。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表しましたが、米国は「放射能が直接の原因ではない」との見解を取り続けております。しかし7月23日毎日新聞では、その背景として、日本の反核反米運動の高まりを恐れた米政府高官の発議で情報操作が画策されていたことが、情報公開された米公文書により判明したと報じています。
 この報道は、6月17日付で毎日新聞が報じた“米国ジャーナリストによる「長崎原爆ルポ」”の発見と相まって、「原子力タブー」の淵源を白日に晒すものです。今後日本のマスコミは、これまで国民に十分周知されていなかった放射能の危険性について報道していかざるを得なくなるものと予想されます。
 さらに注目されるのは、7月1日の東京新聞の記事です。同紙はワシントン発共同電をキャリーして「放射線被曝 低線量でも発がん危険」とする米科学アカデミーの報告書の内容を伝えています。
 これによれば、低線量の被曝による人体への影響に関し、「一定量までなら害はない」との主張や「低線量の被曝は免疫を強め健康のためになる」との説が否定され、低線量でも発ガンのリスクがあると結論づけています。全身のX線CTを受けると千人に一人はガンになるとのことです。
 この報告書の指摘の正しさが確認されるならば、深刻な影響を各方面に及ぼすことになると思われます。
 原発従事者の被曝許容量はどうなるのでしょうか。周辺住民への影響はどうなのでしょうか。健康診断で毎年実施されるレントゲン検査はどうなるのでしょうか(7月17日付毎日新聞は、職場での胸部X線検診について厚生労働省が法的義務づけ廃止の検討に入ったと報じております)。
 また、今国会で「改正原子炉等規制法」が成立しましたが、これは原発の解体で出る放射性廃棄物のうち、放射能レベルが一定値以下の金属やコンクリートを一般の産業廃棄物や資源ゴミと同様に扱うというもので、将来的には一般の道路舗装材や建築材としてリサイクルする予定となっています。しかし上述の米科学アカデミーの報告書が出された以上、その内容如何によっては、同法も当然見直しが必要になると思われます。すでに台湾で一般の住宅ビルから放射能が検出され、大きく報道されたことが想起されます。
 さらに、浜岡原発などの危険性を指摘する最近の報道を見ると、驚きを禁じ得ません。
 「週刊フライデー」7月29日号によれば、文科省所轄の防災科学技術研究所は、「東海大地震の揺れは、浜岡原発が想定している基準の2倍近い」と指摘しております。
 「週刊金曜日」7月15日号は、上記に加え、浜岡原発2号機の岩盤の強度に数値操作の疑いがある主旨の内部告発(林信夫氏による)が、25年前の毎日新聞の記事により裏付けられることを示唆しています。
 さらに林信夫氏は、7月8日付JANJANにおいて、浜岡原発周辺には活断層が存在し、米国の耐震基準に従えば建設を断念せざるを得なかったはずである旨、指摘しております。
 六ヶ所村の再処理工場では、また不正溶接が見つかりましたが、原燃は「水漏れが1時間あたり10リットル未満ならば経過観察する」との方針を決めたと報じられています。
 高浜原発3号機では、濃縮ウランを含む中性子検出器が見つからないまま再起電されるとのことですし、美浜、高浜、大飯の各原発一カ所以上で、鍵の管理にルールがないことが判明したと報じられています。
 これら、ずさんとしか表現できない管理体制が即刻改められるべきであることは、言うまでもありません。
  ◇   ◇
 昨今、アスベストによる被害が大きく取り上げられていますが、その危険性はかつてより指摘されており、ようやく92年に規制法案が議員立法で国会に提出されたものの、一度も審議されることなく廃案となっています。繰り返される薬害、公害など、危険性が指摘されていながら看過されてきた事例には事欠きません
 私はかねて、人体や環境に対する悪影響については「疑わしきは罰す」の方針で臨まなければとならないと訴えております。被害を確認してから改めても「手遅れ」であり、取り返しがつかないのですから。
 昨今次々と明るみに出されている放射能の危険性についても、「疑わしきは罰す」を前提としなければなりません。まして原子力施設に関して想定されている被害は、修復不能な破局まで含むのです。
 これまでと同じ過ちを繰り返さないよう、マスコミのさらなる啓発活動を期待してやみません。
(村田光平)

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■この記事の水準は、ハラナの文章の定期読者、とくに「リスク論」を およみのかたなら、さほど、おどろかないだろう。むしろ、「やっぱりね」という既視感覚(deja vue)を おぼえるだけと(笑)。■問題は、おなじページでよめる、読者の反応だ。

[9305] 必要なのは科学的裏付けに基づく定量的評価
名前:京本大輔
日時:2005/07/28 01:27
 環境や健康という問題は確かに皆が関心を持ちやすい問題です。だからこそ、センセーショナルに危険だと煽るだけでなく冷静に科学的な定量的評価に基づいて判断を下すべきだと考えます。


> 私はかねて、人体や環境に対する悪影響については「疑わしきは罰す」の方針で臨まなければとならないと訴えております。被害を確認してから改めても「手遅れ」であり、取り返しがつかないのですから。

 その面から、私は記者のこの考え方に反対します。人体や環境への悪影響がある可能性があると言うだけならばあらゆるものが該当します。まず、人体への悪影響と言う面からいえば、よくいわれる放射能や環境ホルモン・石綿など人工物だけでなく、直射日光、ストレス、交通、食習慣等人間に関わるあらゆる物が人体へ悪影響がある可能性があるのです。環境に至っては、人間活動全てがが環境への負担以外の何物でもないことは間違いありません。
 にもかかわらず、記者が原子力・放射能の危険性のみを取り上げるのは単にそれに反対したいからだとしか思えません。

 なにを規制し、なにを容認するのかは人々の幸福に寄与するか否かを定量的に評価する以外ないのです。例えば「レントゲンは発ガン性が疑われる」から規制すべきとしたとき、「レントゲン検査で救える人命」と「レントゲンによるガンにより失われる人命」とを評価してみる必要があるでしょう。
特に

>全身のX線CTを受けると千人に一人はガンになるとのことです。
と言う書き方は単に煽るだけで何の意味も無いと考えます。恐らく受診者の方が非受診者に比べの0.1%ガンが増えたと言うことなのでしょうが、これがどれ位重要なものなのかが全く示されていません。日本人の3割はガンで死亡しているのです。人によっては、誤差の範囲と考えるかもしれません。もし、わたしなら、
「受診後?年でガンが発症する確率が、受診しない人に比べ○倍になる。これは、タバコを吸うことでのガン発症リスクの×倍である。」
「十万人全身CTを受診すると、CTによるガンの発症者は○人であり、死亡者は△人になる。一方、CTによりガンが早期発見される人は×人である。」
と書きます。

 原子力にしても、?の管理が悪いから危ない。不祥事を起こしたから危ない。だけでなく、現在の状態でのリスクはどのように評価されるか。どのようにすればどの程度リスクを低減できるか。メリットとリスクを評価しリスクを許容できるか。など定量的に評価することが、危険を喧伝するだけの報道より意味のあるものだと考えます。


■「よくいわれる放射能や環境ホルモン・石綿など人工物だけでなく、直射日光、ストレス、交通、食習慣等人間に関わるあらゆる物が人体へ悪影響がある可能性がある」という一節は、一見もっともらしく みえる。しかし、実は まとはずれだ。■文章で主旨は、「原子力施設に関して想定されている被害は、修復不能な破局まで含む」から、「被害を確認してから改めても「手遅れ」であり、取り返しがつかない」。したがって、「「疑わしきは罰す」の方針で臨まなければとならない」ということだ。■うえのような提起に対して批判を展開したいのなら、「被害を確認してから改めても「手遅れ」であり、取り返しがつかない」という論理が破綻していると信ずるにたる、議論を展開しなければならないはずだ。
■「例えば「レントゲンは発ガン性が疑われる」から規制すべきとしたとき、「レントゲン検査で救える人命」と「レントゲンによるガンにより失われる人命」とを評価してみる必要がある」 という一節は、ただしいとおもう。村田さん、ワキがあますぎる(笑)。■しかし「なにを規制し、なにを容認するのかは人々の幸福に寄与するか否かを定量的に評価する以外ない」といった論法は、「あしき科学主義」というほかなかろう。■「定量的に評価する以外ない」といいはる以上、「被害を確認してから改めても「手遅れ」であり、取り返しがつかない」という論理に、「定量的」な反証をくわえる責任をおっていることに、京本さん、おきづきでないのか? そういった具体的データを いっさいあげずに、「定量的に評価することが、危険を喧伝するだけの報道より意味のある」といった論理で ツッコミをいれた気になっているのなら、単なる無責任だろう。■科学的な発想法によわい読者は、コロっと だまされる危険性がおおきそうだからだ。
■「現在の状態でのリスクはどのように評価されるか。どのようにすればどの程度リスクを低減できるか。メリットとリスクを評価しリスクを許容できるか。など定量的に評価する」というが、?リスク・データが まともに公表されたこなかったこと、?むしろ、かくすだけでなく、ねじまげられた数値が提示されてきたうたがいが濃厚なこと、?これらについて、まともな弁明が 展開されたことが全然ないこと(今回のアスベストなどは、例外的で、放射線リスクについては、まったく進展していない)、?大震災など、おおくの自然災害は「想定外」の事態がさけられないのであり、「想定内」の数値の入力でしか 計算ができない コンピュータ・シミュレーションは、「想定外」に まったく対応不能であること、?「想定外」に まったく対応不能である以上、「被害を確認してから改めても「手遅れ」であり、取り返しがつかない」かもしれないことに、どう責任をとるのか?

■実は 「なんだってリスクだ」論と「メリットとリスクの定量的比較」論、そして「危険を喧伝するだけ」論は、既存の体制を維持したい人物や組織が、体制批判を封じる、「だまし」「はぐらかし」の 定番として、警戒が不可欠だろう。■「リスク論」をかたるときに、「国家権力や巨大企業、あるいは科学者たちの 不正・不誠実、権力犯罪」という、「数値化しづらいリスク」を いつも想定しながら 議論をすすめねばならないのは、ホント やりきれない気分に させられる。
■それにしても、警官や医師や科学者など、リスク対策者自身が、ほかならぬ「リスク要因」というのは、皮肉として、ヒネリが ききすぎていないか(笑)? われわれは、サスペンス・ドラマの主人公ではないはずだが……。