高陽東の原爆黙祷巡り混乱 社内連絡不備と本社が陳謝
2005年08月06日21時12分

 6日に開幕した第87回全国高校野球選手権大会の開会式前、高陽東(広島)の選手が原爆投下時刻に合わせて全代表校の選手に黙祷(もくとう)を呼びかけたいと大会本部に意向を伝えたところ、日本高野連から「終戦記念日の黙祷に合わせてほしい」と説明を受け、同校の選手だけで黙祷する事態があった。朝日新聞社は同校から事前に相談を受けていたにもかかわらず、社内の連絡が不十分だったために混乱を招いたとして、同校と日本高野連におわびした。

 大会本部によると、高陽東は4日、朝日新聞側に「6日に黙祷したい」との希望を伝えた。本社の担当部署は日本高野連と相談して「自校で黙祷することはかまわない」と判断したが、学校側に伝える際に社内で行き違いがあり、同校は他校に呼びかけても差し支えないと受け止めたという。

 この件に関して6日、日本高野連幹部が「原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない」と制したなどと、毎日新聞が報道した。同連盟は「事実と全く異なる」として、同社に抗議した。

■この『朝日』の記事については、『毎日』の 少々いさみあしを反省している感じの続報があったが、こういった、新聞社間の、みぐるしい ドロ試合なんぞ、どうでもよろしい。■ハラナのばあい、こういった すれちがいが おきた経緯や、ギャラリーの さわぎかたの、政治性にだけ、興味が わく。
■しばしば引用することで、お世話になっている、インターネット新聞『JANJAN』から、2件。
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原爆黙祷を制止した高野連に抗議(2005/08/07)
 今日(8月6日)の全国高校野球選手権大会の開会式前に、原爆が投下された午前8時15分に、全国47都道府県の代表が全員で黙とうを捧げようという、広島代表の高陽東高校ナインの願いは、高野連、朝日新聞ら運営側の圧力で潰されてしまった。

 高野連の言い分は「大会行事として8月15日には黙とうしており、原爆の日の黙とうを全体の行事とするわけにはいかない」というが、ホントは、運営の都合で、タダ単に面倒だったからではないか?
 
 高陽東高校ナインは、広島の方角に向かって自分たちだけで黙とうしたという。

 今日・8月6日は、原爆が広島に投下されてから60年の原爆忌だ。米国国内では、まだ、正当化と批判の議論が続いている。だが、広島に原爆が落とされて、一般市民が多数犠牲になったことは紛れもない事実である。

 原子爆弾は、広島、長崎で落とされた。しかし、この2つの原爆は間違いなく、日本全国で共有しなければならない歴史である。原爆忌と終戦記念日など戦争関連行事が重なる8月は、二度と戦争を自らの手で起こしてはならないという不戦の誓いを改めて確認しなければいけない時期である。

 この時期になると、甲子園で熱戦が繰り広げられる。しかし、今まで、どの高校からも「原爆の日に黙とうを捧げたい」という話は聞いたことがない。戦争を知らない世代は、平和の大切さをどこまで感じ取れるだろうか。

 脇村春夫・日本高野連会長は、開幕式での挨拶の中で、広島原爆の日で戦後60年にあたることを触れたそうだが、運営の都合という言い訳で代表全員の黙祷を制止したことから、現実問題から逃避しようという姿勢が出ている。

 こんな矛盾した高野連はいらない。
 こんな高校野球なんか、いらない。

 高校生の願いを踏みにじるような行為を起こした高野連の態度は、断じて断罪されるべきものである。「原爆は広島だけのこと」という意識を剥き出しにした高野連の担当者に強く抗議する。

 そして、今日と同じ酷暑の中で亡くなられた原爆犠牲者の方々に改めて、祈りを捧げたいと思う。

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「原爆は広島だけのこと」に見えてくる「新しい歴史観」の静かな拡大(2005/08/07)
 第87回全国高校野球選手権大会が、今日・8月6日から始まった。ところが、球場ではテレビカメラの入らない所で、驚くことが起きていた。今日のMainichi webによると、広島県代表・高陽東高校の工藤真司主将(3年)が、開会式に出場するために集合していた、他の46校の選手たちに、原爆投下時刻の午前8時15分に黙祷を呼びかけたところ、日本高野連の関係者が制止したとあった。結果、同校の生徒だけで黙祷をしたという。

 驚いたのは、その時に、日本高野連の関係者が「原爆は広島だけのこと」と発言したことだ。ほんとなのかと目を疑った。いつの日から「原爆は広島だけのこと」になったというのか。広島や長崎への原爆投下は、日本中の日本人全体のみならず、全世界の痛みではなかったのか。戦後60年過ぎたら、「ピカドン」はもう忘れろとでも言いたいのだろうか。もう語り繋ぐ必要がないとでもいうのか。

 青少年の心身の育成を目指して行なわれているはずの高校野球大会で、黙祷を通して戦争の悲惨さを他のチームの生徒と共有しようという呼びかけの、どこがいけないのだろう。いまなお、後遺症で苦しんでいる人、2世・3世とその苦しみを、受け継がなくてはならなくなった人が聞いたら、どんなに悔しい思いをすることだろう。

 筆者は、この出来事を見て、過去の戦争を何とか忘れさせようという「新しい歴史観のプロパガンダ」が、21世紀になって成果を見せ始めてきているという恐ろしさを感じる。

 その一環として、「新しい歴史教科書」は、先日、栃木県大田原市で採択になった。昨日(8月4日)は東京杉並区での採択について、同区教育委員会と採択反対派そして賛成派の間で、大揉めになっているのをテレビのニュースで知った。日本各地で同じようなことが起きている。この「新しい歴史教科書」と「原爆は広島だけのこと」とは、無関係ではないのだ。

 この「新しい歴史教科書」は、事実上、“めくらまし”の役割を果しているのではないか。そこばかりにマスコミと国民の注目が集中し、他の見えない所で、歪められた教育指針を打ち出し、一部の指導者はその指針にそって、「改悪」を着々と進めているのではないかという疑念さえ感じる。

 テレビや新聞で、大きく取り上げられれば、それだけ見えない所では動きやすい。政府のスポークスマン化した、今の日本のマスコミは従順にもその役目を果たしている。いや、もっと進めている可能性すらあると、恐ろしい気にもなる。

 旭川にある「北の靖国」といわれている北海道護国神社で、カウスボーイが「同期の桜」を歌わせられているのがいい例だろう。これと似たことは、全国を探せばかなりあるのではと思う。

 着々と進められてきた「新しい歴史観のプロパガンダ」が、早くもこういう形で日本中の注目を浴びる全国高校野球選手権大会の場で、予想を裏切って発揮されてしまったのではないだろうか。

 それでは、それらに対峙して私たちに何ができるのか、それは2つある。

 1つは、有権者としての一票を有効に使うことである。近じかあると予想されている、解散・総選挙を大いに利用することなのだ。選挙区の候補者が、「(普段から)過去の戦争とどう向き合いながら国政を担っていこうとしているのか」を、見極めて投票すること。

 もう1つは、子孫に戦争とは何かを「語り伝え繋ぐ」ことである。戦争するとどうなるのか、原爆とはどういう恐ろしいものなのか、なぜ原爆は日本に落とされたのか。なぜ、戦争を止められなかったのか。戦争をすると誰が一番被害にあうのか。「語り伝え繋ぐ」ことは、たくさんあるはずである。

 それができれば、「原爆は広島だけのこと」と言う言葉を、二度と耳にすることはなくなると考えている。

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■高野連幹部が「原爆は広島だけのこと。この場でみんなを巻き込むのは良くない」と制したのかどうか、そんなことは、どうでもよい。■そういった暴言がでてもフシギでもなんでもないからだ。■もちろん、優等生リベラル左派・中道をイメージとして定着させてきた、朝日新聞が音頭をとっている(というか、野球害悪論の主軸だった新聞社が、一転豹変して、現在のいしづえをきずいたなど、かなりみぐるしい「前史」をもつが。笑)甲子園大会関係者が、非教育的な失言をしたとなると、『毎日』ような、体質としてにかよった新聞社としては、「差異化」の好機としての「敵失」ってことなのだろう(笑)。■しかし、純真な高校生ウンヌンといった感情論の もりあがりには、ヘキエキさせられる。
■前便にもかいたとおり、8月15日はともかくとして、原爆投下の8月6日と9日が、国民的な記憶かといえば、そんなことはない。風化ウンヌンというより、他府県の住民にとっては、もともと記憶として継承されてきていない。■被爆地に まじめに「巡礼」にいって、衝撃をうけてくる。被爆者をしりあい、親類にもつ。自分が、たまたま広島・長崎に当時かかわりもった。そういった、特殊な契機をもたない、日本列島住民には、「無関係」なできごとのひとつにすぎない。■だからこそ、原水爆禁止運動をつたえるマスメディアや教育関係者の努力が、かろうじて、関心をほそぼそとつづけさせる回路となってきた。■そして、そういった、基本的に優等生的な空間に、「おしつけがましさ」などを感じとってしまうと、千羽鶴に火をつけるといった、バカものにも なっていく。■それら愚行を、まともな反応などとは、くちが まがっても いわないが、優等生を育成しようといった、教育関係者の りきみは、絶対に、こういった ふとどきものを、けしされない。それだけは、きもに銘じておくべきだろう。
■ひるがえって、8月15日の正午に、甲子園球児たちに黙とうを強要しているが、あれが、教育的はたらきかけなのか? ■1945年8月15日なんて、琉球列島住民や、外地でにげまどっていた日本人たち、あるいはシベリア抑留にあったいた兵士たちなど、まったく 無関係な時刻だ。■昭和天皇ヒロヒトが前日に録音したレコードを「玉音放送」などとして、ラジオでながした、それだけのことではないか? ■国際法上では、「ポツダム宣言受諾」を、連合軍に通知した日時、あるいは署名をした日だよね。■国民、被支配民族にとっては、圧政が実際にやんだとき、極限状況から解放されたときこそ、「終戦」であって、無責任の象徴のようなヒロヒト氏の 年中行事=アイデンティティ確認に あわせて、球児たちに めをつぶらせ、アタマをたれさせる、その教育的根拠はどこにある? その政治性を 一度でいいから、とうたことがあるのか?
■「こうべを たれろ」と 強要しても、どうせ、みていないところでは、やりっこない。そのうち、わすれる。ときには、さかうらみして、優等生を ねたんだり、バカにしたり しかねない。
■「この2つの原爆は間違いなく、日本全国で共有しなければならない歴史である。原爆忌と終戦記念日など戦争関連行事が重なる8月は、二度と戦争を自らの手で起こしてはならないという不戦の誓いを改めて確認しなければいけない時期である」とか、リキんでいる、おにいさん。沖縄戦とか東京大空襲は、いかがしますか?
■「旭川にある「北の靖国」といわれている北海道護国神社で、カウスボーイが「同期の桜」を歌わせられている」「戦争するとどうなるのか、原爆とはどういう恐ろしいものなのか、なぜ原爆は日本に落とされたのか。なぜ、戦争を止められなかったのか。戦争をすると誰が一番被害にあうのか。「語り伝え繋ぐ」ことは、たくさんある」と、ご指摘の おにいさん。ごもっともです。■しかし、「新しい歴史教科書」とかの 定着だけで 「敵」を過大評価していませんか?

■ただね。8月6日が開会式で、しかも原爆投下の8時15分という象徴的な時刻、しかも60年後という瞬間に黙とうしよう、って、提案した 広島の高校生や野球部関係者の着想は、すばらしい。強制するんじゃなく、「有志(=こころから むねに きざめる球児・関係者だけ)が、 こうべを たれる」って提案だったなら、申し分ない。■それを、「田名部参事は、黙とうする同校選手を他校から離したことについて、「落ち着かないだろうと考え、練習場の隅に案内した」と説明した」ってのは、ユトリが たりないっていうか、官僚的っていうか、みっともないことしたよね。■これが、実現していたなら、かなり カッコよかっただろうし、ウソくさい 甲子園神話の ナマぐささが、かなり清涼感で、中和されてたはずだ。
■『朝日新聞』さん、大失態でしたね(笑)。『毎日新聞』の、「いさみあし」は、「敵失」なんかじゃありません。やっぱり、高野連、非常に みっともなかった。連絡をおこたり、そのあと高野連をかばった姿勢も、はじの うわぬり(笑)。