■先日、スポーツとしてのアマチュア相撲と、興行としての大相撲を対照する作業をしてみた(スポーツからみた日本社会。■今回は、「スポーツ化しきれない大相撲」という本質を 整理するためにも、「武道」というイメージをせおった「柔道」などを とりあげてみよう。
■フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「相撲」という項目には、つぎのような珍妙な記述がある。

相撲(すもう)は、日本国技といわれ、国際的にも行われている武道格闘技スポーツである(武術ではない)。

■どうして「珍妙」か? ■『ウィキペディア』の「武術」の項目の冒頭部分は

武術(ぶじゅつ)とは、武器素手による戦闘技法の総称である。日本語ではこの言葉は通常日本古来の武術を指す。武道と近い概念だが、一般には武術に精神修養としてのを附したものを武道と言う。現代武道との区別のために古武道、古武術、古流武術、古流などの名で呼ばれる。

武道が身体の鍛錬・技の錬磨と同時に人間形成を目的とするのに対し、武術は「相手を効率よく制する技術に注力する」という点から区別することができる。が、ただし古流武術においてもと結びついた精神修養は行われており、単純な定義はできない。


とある。■「相撲」が「武道・格闘技」でありながら、「武術」でないという定義をするためには、かなりの補足説明が必要なはず。■それを はぶいた 記述=断定は、破綻しているといっていいだろう。■もし、武術には精神性がなく、相撲にはあるから、などといった認識なら、相撲を辞書的に論じる資格をもたないとおもう。

■では、「武道」の立役者といってさしつかえない、嘉納治五郎 先生の 「特徴」論に あげられているのは、つぎのとおり。

・個別武道が根本原理であること。
・練習・試合することで人格の完成をめざすこと。
・全国組織があり、日本全国で練習・試合できること。
・少数の基本技と多数の応用技があること。
・試合競技があること。
・昇段制度があること。

■これは、わかりやすい。■「昇段」制度があるって点では、日本相撲連盟(アマチュアの統括組織)などが とりしきる アマチュア相撲は みたしているけど、大相撲の「番付」の ばあいは、基本的に、まけこせば おちる シクミだから、あてはまらない。ちなみに、『ウィキペディア』の「武道」という項目の「主な武道」には、相撲は ふくまれていない。
■柔道は、当然 みたしているね。嘉納先生が、柔術を源流に講道館柔道をたてることで、「武道」という、近代的伝統をうちたてたのだから、当然とおもうひとも いるかもしれないが、それはちがう。■おなじ 柔術(といっても、流派がおおく、ゆるい意味での まとまりしかないが)から、わかれて 近代化した、合気道日本拳法、琉球武術が近代化されつつ日本列島全域にひろがった、空手、剣術の しない(竹刀)稽古を競技化した剣道など、およそ近代日本で 展開された 伝統武術の 近代化は、みな 講道館柔道の 組織・制度展開のコピーといって、さしつかえないのである
(合気道には、例外をのぞいて、乱取り=格闘競技が存在しないが)。■いわば、嘉納先生が プロデュースした「柔道」という、「武道」の 原型は、文化遺伝子(meme)といって 過言でない(いや、「書道」など、「武道」にかぎらず、お稽古事の おおくが、級段位制をマネたという。『ウィキペディア』「柔道」)。■「段級制度」が、すぐれて 近代的な性格をもっているのであり、けっして 前近代に起源をもとめることができない点は、井上俊『武道の誕生』(吉川弘文館)。
■でもって、この 柔道、「練習・試合することで人格の完成をめざすこと」って 姿勢は、「段級制度」とならんで、「単なるスポーツじゃない」という、イメージを 維持させている、決定的な点だとおもう。■もちろん、外来の欧米型スポーツの典型である、「ベースボール」が、「一高式野球」とか「野球道」といった 変質をこうむったのと 並行して、西欧化に対する反動=国粋化志向は、柔道など 武道にかぎられない。井上先生、「外来スポーツ」に「和魂」を注入するといった、イデオロギー装置を みてとっている(『武道の誕生』pp.169-72)■そして、「伝統としての日本精神への回帰」といった、イデオロギーが、まとわりつくのは、「先生」から おしえをこう、お稽古事全般に あてはまる 現象だったろう。■しかし、「練習・試合することで人格の完成をめざすこと」って 理念は、あからさまに 教育イデオロギーであることが、重要だ。
■茶道/華道など、市井の 師匠が 「家元制度」で 維持されてきた 芸事も、「発表会」や「昇段制度」など さまざまな 目標を 設定することで、「教育」空間を 維持しようとし、そこに 精神性が強調されるのは、おなじみだろう。■しかし、学校体育やクラブ活動として 制度化されていった 「種目」は、あからさまに 対外的・対内的な対抗心・競争心をあおる制度を確保しつつ、それが「精神修養」「人格形成」に つながるのだ、という、教育イデオロギーを 特徴としている。■これらに ウソ/ゴマカシが あることは、すでに のべたので くりかえさないが
(「スポーツからみた日本社会6」)、「教育の一分野としての体育」といった 教化イデオロギー(一種の「パターナリズム(家父長主義的偽善)」だね)のなかで、「単なるスポーツじゃない」という、「武道」イメージの はたす やくわりは、ちいさく ないはずだ。
■以前、スポーツ評論家の 玉木正之さんの『スポーツ解体新書』の指摘を紹介した(p.49)
■近代スポーツという空間が「きわめて単純な実力主義」という意味で、「一般社会の長幼の序」原理と衝突するがゆえに、「反社会的要素」をふくんでおり、そのすりあわせとして、「体育会」文化という、異様に「厳格な長幼の序を築いた」なんて分析は、虚をつかれた感じで、アゼンとさせられる(「スポーツからみた日本社会5」)
■「単なるスポーツじゃない」という、「武道」イメージは、「体育会」文化や、教員文化に、ピッタリだっただね
(笑)。■「その子のためを おもって、きびしくしかる」とかいうけど、学校文化全般に、この種の「おためごかし」「サディズム」は、おびただしく くりかえされてきたし、偽善的で 精神主義をかくれみのにした、野望追求、児童生徒の 手段化は、高校野球などを ふくめ、無縁な空間をさがす方が、むずかしいかもしれない(笑)。■「武道」系サークルのばあい、儒教イデオロギーの近代版として「長幼の序」「師弟の別」が 強調され、しかも「日本精神の伝承空間としての 古武術の伝統をひきついでいる」という、集団催眠が かかっているから、腐敗すれば オウム真理教もどきの 支配構造に、容易に 転落する。
■ところで、嘉納治五郎先生は、IOCの委員になり、東京五輪招致(1940年)をとりつけた(戦争激化で、返上)。できれば柔道の種目参入と、ゆめみていたことだろう。■そして、先生が洋上で客死して、ほぼ4半世紀後に、東京五輪は現実に開催され、柔道は、Judoとして正式種目となるが、その象徴ともいうべき 無差別級決勝で、ヘーシンク選手に 優勝をさらわれるという、衝撃をうける。■体重制、ポイント制など、「国際化」「スポーツ化」が、とどめようもなく すすんでいく宿命を かかえこんだわけだ。なにしろ、柔道人気がたかいフランスでは、日本以上の柔道人口をかかえているそうだから、「本家本元」「講道館柔道の伝統」とかいっても、むなしいはな
(笑)
■もともと、柔道など「武道」が、「創られた伝統」にすぎず、少林寺拳法のように、創始されて60年にみたないようなものまで、ふくまれるわけだ。■また、武道の大半は、国際化戦略をもち、普及活動を展開しているのだから、普遍性・透明化・競技化などの要求を、「外圧」とうけとめるような姿勢は、まさに反動的で時代錯誤といえるだろう。
■その意味では、井上先生の
……初心にかえって「和魂」と「洋才」(あるいはローカルとグローバル)のバランスを現代にふさわしい形で回復していくことのなかにこそ、これらからの武道の課題があるのかもしれない。[p.188]
って、本文最後のセリフは、ものがなしい。「空手道」はともかく、原型の「唐手」は、「和魂」なんかじゃないよ。世界化した「ミーム(meme)」としての“Karate”は、「琉魂」「韓魂」でしょ。日本列島にもちこんだのは船越義珍[1868-1957]であり、世界化した立役者は、大山倍達[1923-94]なのだから。
■新田一郎先生も、アマチュア相撲の国際化と、大相撲の将来を案じていらした。やっぱり、「伝統」は、知性の きれあじを、にぶらせてしまうのだろうか? ま、新田先生は、大相撲はスポーツでなく興行と、理解されているようだが。
■いずれにせよ、スポーツを ほかの なにかの手段でなく、ただ たのしむためだけに 純化するためには、「体育会」文化という、広義の学校文化・教員文化から 解放し、同時に「武道」など「和魂洋才」「和魂和才」イデオロギーから すくいださないと。■それが はたされないかぎり、長老支配、サディズム等、病理を しめだすことなど できないだろう。


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