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■日記「ひび、いろいろ」(2005/08/25)でも ふれたが、森口豁[カツ]さん(1937-)の『だれも沖縄を知らない
27の島の物語(筑摩書房)が、先月でていた。■森口さんは、40年以上にわたって 琉球列島にかかわりつづけてきたジャーナリストだ。
■副題の「27の島の物語」は、いくえにも複雑な背景を象徴している。
 
■?まず、おおくの「日本人」が、「沖縄」ときいたときに おもいうかかべるだろう、沖縄島(いわゆる「沖縄本島」)が、はずれている。せまい意味での「沖縄」とは、「沖縄島」をさすのだから、かなりトリッキーな表題だということができる。つまり、ここでいう「沖縄」とは、「沖縄県」の略称とみてよい。■?さらに、日本列島の一般的住民で、「27の島」のなまえと特徴を具体的にあげられる人物が、どのくらいいるだろうか? ちなみに、ハラナには、できない「本州」「九州」 など 4つの おおきな島を除外すれば、佐渡島・淡路島・対馬・壱岐、種子島、…と、到底27までたどりつきそうにない(笑)。つまり、琉球列島から奄美群島を除外した、沖縄諸島以南にしぼっても、森口さんが かたるに あたいすると とらえる島々が、数十にも のぼるという事実。そして、そのひろがりは、北東から南西にかけて600キロ、本州なら東京から岩手県北に匹敵する[p.3]。観光旅行で「沖縄」に でむいたひとびとで、10以上の島をふんだ層は、ごくわずかだろう。ハラナも 実は、沖縄島しか、いったことがないが、東シナ海に点在する島々は、それぞれドラマ/物語としかいいようのない歴史的経緯がひそんでいる。■?逆説的ないいかただが、実は、沖縄県そだちの住民でも、10以上の島をふんだ層となると、かなりかぎられる。森口さんのように、30以上の島々に精通するような人物となると、例外的はなずだ。その意味では「沖縄県在住者」自身が、あまり「沖縄を知らない」で、日常をおくり死んでいくという、ごくあたりまえの現実と対比したときに、主題と副題は、呼応するかたちで、島民たちを挑発するかのようでさえある。

■「27の島の物語」は、いずれも衝撃的な読後感をひきおこすだろう。いずれも、味読すべきであり、わがこととして、ふりかえるべき含蓄がある。■ざっとみわたすだけでも、シリーズものになってしまうので、ここでは、ひとつだけ、転載させていただく(具体的に、事例をあげないのは、域内対立や歴史的経緯などについて、半可通の差別者が、よろこんで掲示板にとりあげそうな素材が、ありすぎるからでもある。それらを冷静に直視するなら、地元にせめをおわせるのは、酷であるばかりでなく、そうしむけることの理不尽さ、非情さ、卑劣さが、はっきりするのだが、「半可通の差別者」たちが、そういった自省的感覚をもちあわせるはずがない)
■となりの伊平屋島とならんで、沖縄県最北部にあたる伊是名島うまれの少年たち。1960年3月に森口さんが最初にわたったときの浜辺のスナップ写真にうつった10人のうち、シマにいまものこるのは、4人だけ。そこには、日本列島上の過疎地と同質の 人口流出の構造がある。■しかし、他地域出身者と 質的に断絶する体験が、そこにはからまる。

 彼らが島の中学を卒業したのは1965年から67年。東京オリンピックが終わってまもないころだ。日本は沖縄の行政権を米軍に委ねたまま発展への道をひた走っていた。全国の公立学校にはすでに体育館やプールが完備されていたというのに、沖縄での達成率は1割にも満たない。そればかりか教室や校庭の児童一人当たりの面積は全国水準の6割というありさまであった。広大な軍事基地と乏しい財政が子供たちの教育にも影を落としていたのである。
“笑顔の少年”たちはそんな悪条件下で義務教育を終えると、まるで申し合わせたように米軍政府発行の渡航証明書(パスポート)を手に、就職のため「祖国・ニッポン」を目指した。離島の人々にとって子供を沖縄島の高校に進学させるのは経済的に困難なことであった。
【中略】
……夜になるとネオンの明かりで道路に自分の影ができるじゃないですか。ビックリしたね、自分たちの島では電気もなく、夜はいつも真っ暗闇だったから……。
 彼らの率直な感想だ。“笑顔の少年”たち10人のうち、なんと7人までがそんな“落差の海”を渡り関西や関東に働きに出た。企業は求人担当者をこんな小さな島々にまで送り込み、労働力をかき集めた。
〈君たちの未来はバラ色に輝いている〉と。
 だが、そんな彼らを待っていたのはウチナーンチュへの差別と偏見、そして厳しい労働条件であった。いじめ、低賃金、職場への「封じ込め」や、深夜労働……。沖縄を出たティーンエイジャーたちの苦闘の始まりであった。

恨みのパスポート
 東京、神奈川、兵庫の町工場で都合4年働き、72年夏、日本復帰直後の沖縄に帰った名嘉重明さん……にとって、本土の生活は「思い出したくもない」日々であった。
 最初の会社は川崎市にあるカメラ部品製作会社だった。世界的にも評判の高級カメラの下請け工場。初任給が1万7000円と聞き「親に送金できる」と喜んだ。ところが給料からは食費や布団代・暖房費などが月々1万円余も天引きされ、手元に残るのは6000円ほど。給料袋を手にするたびに故郷で送金を待つ母親の顔が瞼に浮かんだ。
【中略】
 重明さんの気持ちを滅入らせたのは「送金不能の給与」だけではなかった。
――沖縄はアメリカなのに、お前はなぜ英語がしゃべれない。
――沖縄人は何をさせても要領が悪い。
 職場では、仕事が遅いといっては叱られ、少しでも口応えすると「沖縄人のくせに態度がでかい」と罵られた。標準語がうまくしゃべれないものハンディだった。それでいて、会社は沖縄出身者全員にパスポートの提出を命じ、ロッカーに仕舞い込み鍵をかけた。勝手に会社を逃げ出せないようにしたのだ。
 同様な体験は名嘉道夫さん……もしていた。彼は入学した高校を1年でやめて、友人を頼って上京した。いじめにあったのは東京都昭島市にある大手自動車会社の下請け工場で、旋盤工員として働いたときだった。
――沖縄人は日本人ではない。
――日本人なら東京に来るのになぜパスポートなんか持ってくるのか。
 沖縄に対する無知と偏見が、なにかにつけて彼らを傷つけ、仲間外れにした。会社はここでも彼らのパスポートを取り上げ、管理した。
【中略】
 家庭の貧困にあえいでた名嘉重明さんが、最初に働いていた会社を辞め、兵庫県尼崎市内の金型工作所に職場を変えたそうした差別に耐えられなかったためだ。親に電話すると聞き耳をたてられ、退職を促す電報が親から送られてきても会社はsれを隠しつづけた。
 尼崎の会社は従業員わずか3?4人で、他人の工場の一角を借りて操業する超零細企業。だから作業は夕方からしか始めることができず、勤務が終わるのはいつも翌朝であった。社会保険などいっさいなかったが月々3万円の給与は魅力だった。母親への送金もできた。
 だが無理がたたって事故を起こした。作業台からずれ落ちそうになった鉄製品を必死に支えようとしたそのとき、プレス機器が落ちてきて左親指を付け根のところから切断してしてしまったのだ。二十歳にもならない彼にとって徹夜の仕事は厳しすぎた。汗と屈辱にまみれた末の悲劇であった。【pp.91-4以下略】


■ときは、高度経済成長まっただなか。それこそ「ネコのてもかりたい」時期だっただろう。沖縄島に求人するだけではあきたらず、離島にまで進出したきたリクルーターたち。■「沖縄人は何をさせても要領が悪い」と、能力を不足をクチにしながら、パスポートをとりあげて、にげだすのはゆるさなかったし、電報の件もしらせない。仕送りできない程度まで、なんだかんだとピンハネする。■これで「渡航費用を前借した借金をかえすまでは、かえれない」などと、おどしていたら(さすがに、そのたぐいは、ないようだが)、まさに、現在の外国人労働者のでかせぎ状況とおなじだろう。日本人の、よわいものイジメ、丸山政男のいう「抑圧委譲」
(大企業の中小企業イジメ→中小企業の労働者搾取→労働者間のロコツな差別という、やりきれない連鎖)は、40年間、いや すくなくとも 京浜・京阪神地域に工業地帯/スラムが成立した戦間期以来、80年はあいもかわらず くりかえされているということだ。
■自分たち「日本人」に責任の一半がある、「米軍基地支配」「パスポート」の経緯についての無知は、まあ当然だろう。現在でさえも、自分たちに責任があるとおもっていない「日本人」が大多数をしめるのだから。■以前も指摘したと記憶しているが、「沖縄に対する米軍の占領は、ソ連の脅威に備えるとともに、日本国内の治安維持のためにも重要で、アメリカと日本双方の利益にもなる。琉球列島の軍事占領方法は、主権を日本に残し、25年から50年あるいはそれ以上の期間をアメリカが租借することが望ましい」などと、ヒロヒトが ひそかに米国につたえていたという「天皇メッセージ
(1947年)に象徴的に露呈しているのは、「第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」との、憲法第1条の文言の含意=戦争責任の徹底追求の放棄と自己正当化、「核の傘ものとの一国平和主義への、ひらきなおり」なのだから。
■それはともかく、“笑顔の少年”たちは、みんなハダシだった。■施政権返還が具体化するまえに、なんと左派政党と教職員組合が先頭となっておしすすめられた1960年代の「復帰運動」。そのうねりに抗するため、保守派イデオローグたちが、もちだしたのは、「いもハダシ」論だった。「日本に復帰したら、米軍が撤退する」「米軍が撤退した基地経済が消滅し、以前のように、イモをくい、ハダシであるく毎日になる」という、オドシだった。■基地経済に依存していた保守層は、反米感情をあらわにする左派を非現実的と冷笑し、そのあげく、「せっかく てにいれた米食とクツを てばなすのは、こわいだろう」と、島民の生活保守主義にうったえようとした。■しかし、すくなくとも、伊是名島をはじめとする離島では、1960年代、小学生たちがハダシというのは、ごくあたりまえだった。“笑顔の少年”たちから、「笑顔」をうばっていったのは、むしろ「施政権返還」が政治日程化し、実現していく1960年代末から70年代にかけてだったという皮肉を、保守層は、どうふりかえっているのか? ■沖縄島にかぎっていうなら、土木事業によって、自然破壊が急速にすすむのは、米軍だけが支配していた1960年代までではなく
(米軍支配下でも、基地建設/拡張工事のために、日本の大手ゼネコンと、地元建設企業が大活躍したのだが)、「復帰事業」として 巨大な公共工事が展開された1970年代以降といわれているし。

■この本の「タマにキズ」を ひとつだけあげるとしたら、それは、宮台真司氏による 「解題  沖縄を知ることは自分たちのパトリを知ること」
(pp.320-34)だ。この部分を きりはなしたなら、本書は 数十年間 よむにたえる 貴重なルポになったであろう。しかし、この蛇足によって、せっかくの珠玉のルポ集が台なしになった。■いや、ひょっとすると、この 宮台氏の駄文は、日本の良心的知識層といわれる部分の ダメさ加減を象徴する記念碑的文書として、不滅の価値をもつかもしれない。
■宮台氏は、森口さんのルポに「屋上屋」を架している。■島々のあいだ、島内部の各階級・階層・性別・年齢のあいだでの、利害対立・葛藤などがあることは、ずっとまえからしられていることだ。「外来者」とはいえ、森口さんのように長期にわたって ていねいにかかわってきた人物が、ルポというかたちで、沖縄県民自身直視をさけてきた 諸問題を提起するのは、意義ぶかい。また、目取真俊さんのような、地元出身者が、基地依存の病理、自縄自縛を批判することには、もっともな動機がある。■しかし、地元民よりも読者数がおおいだろう、「日本人」むけに、「沖縄問題の半分は沖縄人の責任である」
(pp.326-8)といった、大上段の「説教」を展開して、なんの意味がある?
■宮台氏の分析モデルのいくつかは、「本土知識人」の一部には、有意義だろう。しかし、あくまで、「本土知識人」の一部にだけ意味がある。「日本人」の大半には、モデルの細部がむずかしすぎるし、地元の識者にとっては、そういった、こむずかしい整理など不要だ。体系的な説明など不必要なことは、ルポに何人もでてくる識者の 含蓄あるセリフで充分立証されている。■宮台さん、アンタは、一体だれのために、この一文をかいたのか? 森口さん、あなたは、どうして こんな「蛇足」を つけたさせたのか。くだらない、おびコピーの推薦文で、うれゆきが、激増するとでもおもったのか(ま、たしかに、営業上 無意味とはおもえないが。笑)。■その意味では、21世紀初頭日本の社会学者の ダメぶりを証明する文書としても、半永久的に 保存されるべき刊行物かもしれない。


「天皇メッセージ」一次資料画像ほか