■ことしは、いろいろな ふしめに あたる としなのだが、まあ いちばん わかりやすい 10進数的 くぎりといえば、やっぱり「日露戦争終結100年」だろう(笑)。■ちなみに、きょうは 「日露両国、休戦議定書に調印(休戦)」から 100年めにあたる(Wikipedia「日露戦争」)。■ま、右派のみなさん、もりあがっているらしいが、究極的破綻の序曲、帝国主義的膨張の第1章終幕、といった、多義的な この戦役をふりかえり、整理する意味はすくなくないだろう。
■作家の司馬遼太郎の『坂の上の雲』などによって日露戦争を総括できてしまったと錯覚している読者層などにとっては、「日露戦争までは非常に冷静な戦略的発想が実践できていたのに、戦勝の要因分析が徹底されずに帝国陸海軍の慢心・増長をまねき、日米開戦という破局へとむかった」といった、史観が共有されているであろう。■あるいは、ロシアに接するトルコなど アジア諸国はもちろん、とおくモロッコまで「親日的」であるのは、「はじめて欧米列強の一角に まけなかった非欧米の小国」という、20世紀の画期的事件の主役だったからだ。→インドをはじめ、アジア諸国に反帝国主義の気迫を 点火したのは、日露戦争戦勝だった。→対日中戦争は まちがいがあったが、対英米戦争は、大義において、日露戦争と同列の世界史的意義がある。……といった、一連の史観の、骨格ともなっているだろう。
■しかし、まったく左派的とはいいがたい、Wikipedia「日露戦争」の記述のなかに、
この戦争の主役は日本とロシアだが、戦場であった満州(東三省・現在の中国東北部)はロシアの領土でも日本の領土でもなく、清朝の主権下にあった地域であることを忘れてはならない。
という記述があることは、特筆にあたいするだろう。これに 10年さきだつ 日清戦争時も、清国・日本の主戦場は朝鮮半島であった。■要は、たのまれもしないのに、近隣諸地域の主権領域にズカズカあがりこんで、ドンパチやるという、はなはだ野蛮な姿勢で、日本軍の行動原理は共通しているのである。あとでのべるとおり、この10年ほどあとにも、日英同盟を理由に、第一次世界大戦に参戦し、ドイツの支配地域に軍事展開してた(笑)
その後も主に欧米列強が満州への勢力扶植を画策し続け、日本は「満州国」という事実上の傀儡政権まで建設して利権の独占を行った。太平洋戦争後はソ連が満州侵攻に乗じて日本の残したインフラを持ち去り、旅順・大連の租借権を主張した。清朝の領域を引き継いだ次々代の政権に当たる中華人民共和国が中国東北部を完全に確保したのは1955年のことであり、日露戦争から実に50年後のことであった
という記述も世界史上重要だ。■清国から覇権をひきついだ中華人民共和国の「満州」に対する支配権の正当性については、ここではコメントをさける。しかし、漢族への同化傾向が急速にすすんだ満州族=清朝王族が、亡命政権を 広大な故地「満州」に復活させることは、イスラエル建国と通底するようなムリがあった。だからこそ、清朝皇帝だった愛新覚羅溥儀を「満州国皇帝」に かついだところで、「かいらい」政権という本質は、おおいかくせなかった
(もちろん、事務次官ら以下の人事は関東軍がしきっていた)
■また、日露戦争は、軍部と民衆双方に、誇大妄想的な大国意識をもたせた点で、こまった転換点といわれるが、冷静にかんがえれば、軍部/民衆ともに、大国アメリカとの国力・戦力が ケタちがいで、長期戦がムリであることぐらいは、わきまえていた。■当時の政府・国民に、世界史的状況の長期波動を冷静に計算せよというのは、ムリがあり、あとぢえである。しかし、1世紀をへて 冷静にふりかえるというのであれば、日露戦争戦勝は、第二次大戦という破局はもちろん、戦後の冷戦体制にまで深刻な影響をあたえたことこそ、総括に くみこまれねばなるまい。■たとえば、Wikipedia「日露戦争」では、
この戦争によりロシア帝国は極東への南下を断念し、その矛先を再びバルカンに向けることになる。そして、この戦争をきっかけに日露関係、英露関係が急速に改善、それぞれ日露協約、英露協商を締結する。このことが第一次世界大戦の引き金となった。更に、日英露三国により中国権益から締め出されてしまったアメリカは「機会均等」というスローガンを元に中国へ進出することを意図したが、結局上手くいかず、対日感情が悪化、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となった。

また、戦争による民衆の生活苦で血の日曜日事件戦艦ポチョムキンの叛乱等より始まるロシア第一革命を誘発、ロシア革命の原因となる。

ロシア帝国の南進を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができた。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに満洲(中国東北部)における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。

その一方、アジアの利権に関心のあったアメリカの警戒心を呼び起こし、日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりなどとともに後の太平洋戦争の遠因にもなっている。


としるされている。■世界史は、アミの目状に、あるいは複数の玉突き状態として、連鎖反応をひきおこしていくのだ。■そして、「満州」にさきだって、朝鮮半島は、その後急速に「保護国」化/植民地化されていく。朝鮮民族が、日本軍や総督府を「ロシアの南下から保護してくれた恩人」などと位置づけたはずがなかろう。■ちなみに、Wikipedia「日露戦争」は、「こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに満洲(中国東北部)における権益を得ることとなった。またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与した。」などと、得々と記述しているわけで、そこに朝鮮半島・中国大陸への配慮がかけていることは、あきらかだろう。■こういった、一見中立ぶった記述の筆者が無自覚なナショナリズムにとらわれていることなども、日露戦争100年をふりかえる意義といえよう。
■ついでいえば、日露戦争の10年後には、ヨーロッパでの第一次世界大戦の ドサクサまぎれに、中国/太平洋にロコツに ちょっかいをだす(1914年:ドイツの支配圏だった山東省南洋群島,1915年:Wikipedia「対華21ヶ条要求」=ハラナ注:「中国・国恥記念日5月9日」)。■第一次大戦後のベルサイユ会議にとどまらず、「日本あなどるべからず」という警戒心をよびおこし、つづく「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)、「ロンドン海軍軍縮会議」(1930年)というかたちで、海軍力の抑制・均衡をはかるほかなくなったことへと、つながる。■しかも、日本海軍にひきずられて「南進論」をえらび、対英米戦へとつきすすんでしまう原因は、「おなじ海洋=海軍国(いわゆる「地政学」的通説)である英米両国に、不当に 戦艦配備をおさえつけられた」という、海軍首脳部の屈辱感/トラウマぬjきには、説明不能だろう。■日露戦争戦勝、とりわけ日本海海戦戦勝という記憶ぬきに、これら アジア・太平洋への帝国主義的進出が、ぬけぬけと、くわだてられたはずがない。

■国内にかぎっても、ふりかえるべきことがらは、たくさんある。たとえば

ポーツマス条約の内容は、賠償金を取れないなど、多くの民衆にとって予想外に厳しい内容だったため、東京を中心に各地で暴動が起こり(いわゆる日比谷焼討事件)、戒厳令が敷かれるに至った。
というが、要は ムリな戦役で 膨大な国費をついやし、国民から税金をむしりとりながら、その補償など、当然できなかったわけだ。戦況のあぶなっかしさ、局地戦での失態や脚気・感染症をふくめた大量の戦病死を、客観的に国民にしらせたら、内閣倒壊どころではすまない、都市暴動の頻発をまねいたであろう。■つまりは、自軍の損害を過小報告しながら、国民に耐乏生活をしいる。明確な戦勝のみとおしなどないし、大義など当然ない、という、例の 反「失敗学」的な 日本政府のありよう、『1984年』的な 情報の かくしだて/ねじまげが、ここで もう構造化/体質化していたということだ。■唯一、第二次大戦と ちがうといえば、日露戦争には、「終戦のプラン」が一応あり、それをジャマだてする狂信的軍部や右翼が、体制化していなかったという点だ。■しかし、第一次世界大戦後の「戦間期」には、すでにかいたとおり、海軍首脳部の 慢心・増長に ねざした 不満・不全感が つのり、「ロンドン海軍軍縮会議」は まさに統帥権干犯問題という、天皇制ファシズムの暴走という、破局の序曲に直結していくのだ。
■日清戦争では、1人しか戦死者がでなかった沖縄県が、日露戦争では、200余名にのぼるようになった(又吉盛清【編著】『日露戦争百年 沖縄人と中国の戦場』同時代社)といった変化も、みのがせない。■日清戦争当時は、琉球国時代の旧貴族層中、親日派は多数とはいえなかった。「置県=琉球処分」後 わずか15年。いまだ ぶあつい親清派が、清国必勝を信じていたりした時代には、ロコツな徴兵忌避もあったし、動員自体が大規模におこなえる状況になかった。■しかし、さらに10年へることで、同化=日本化が劇的にすすんだ証拠のひとつといえるだろう。前年の1903年、大阪でひらかれた第五回内国勧業博覧会に、「学術人類館」というパビリオンが開設され、いきた人間が標本として展示された、「人類館事件」の際には、植民地化された旧蝦夷地/台湾の先住民(アイヌ民族ほか)と一緒にされたのは侮辱、といった、差別意識=日本人意識の内面化が、すでにみてとれたぐらいだから。

■たとえば、Wikipedia の つぎのような記述も、自画自賛的な評価でおわらせては、アジアの世界認識から、うきあがるばかりだ。

当時、欧米列強の支配下にあり、後に独立した国々の指導者達の回顧録に「有色人種の小国が白人の大国に勝ったという前例のない事実が、植民地になっていた地域(アジア・アフリカや当時ロシアの植民地であったフィンランド等)の独立の気概に弾みをつけたり人種差別下にあった人々を勇気付けた」と記されるなど、植民地時代に於けるの感慨の記録が散見される。

■1919年の 「3・1独立運動」や「5・4運動」が、ウィルソン大統領などの民族自決権思想の影響をうけたことは、よくしられているが、帝国日本の覇権主義がなかったら、たとえば、東アジア3国による 対欧米ブロックが 形成されていたら、大陸・半島の民族意識は、全然ちがっていただろう。■なにしろ、日本は、欧米列強にされそうになった苦境を、隣国に「よわいものイジメ」として、コピーしたんだからね。■親日的弱小国が、そろいもそろって、東アジアから とおくへだたっていることに注意!

この戦争で日本軍は、欧米諸国との不平等条約改善などを目的として戦争捕虜を人道的に扱った。日本赤十字社もロシア兵戦傷者の救済に尽力した。極東に動員されたロシア兵はロシア帝国の支配下にあったポーランド人やフィンランド人が多く、これらの国で良好な対日感情が醸成される原因となった。

■Wikipediaには、ナショナリスティックなものが かなりめだち、「日本軍の態度がよかった」式の戦争記述が 散見されるが、くれぐれも、「やっぱりロシア兵などより軍規がしっかりまもられていた」流の、自画自賛でおわらせてほしくない。■要は、欧米から野蛮視されると、不平等条約が正当化されそうなので、いつもより 「いいこちゃん」でいられた、ってことが、たまたま ロシア支配下の少数民族に、好印象をあたえただけだよね(笑)。■ほんとに 紳士的に うけとられたなら、日ソ不可侵条約を破棄したソ連のロシア兵士たちも、あれほど てあらな あつかいは しなかったかもしれないし。

当時のアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞した。

ノーベル平和賞が、創設から玉石混交、あたえるがわの「エエかっこしぃ」による、なまぐさい本質を かかえていたことが、たしかめられるね。■日露戦争は、欧米列強の帝国主義的利害/欲望の結果だし、ポーツマス条約ってのは、「帝国」間の妥協の産物にすぎないからね。■調停国アメリカの大統領が「ノーベル平和賞」受賞ってのは、まさに「パクス・アメリカーナ(Pax Americana)」の序曲ってことだし。



■ほか、日露戦争をめぐる、あじわいぶかい ツッコミを紹介ウインク
愛国心の鼓舞に潜む危険(←サヨクお得意の批判とは違った意味で)」『浦島太郎の日記2』