■先日の「スポーツからみた日本社会11」の続編とかく。■以前から、体育会的空間とか学校体育が はらんでいる 暴力的体質については、再三かいてきた。しかし前回は、武道系スポーツが 本質的にかかえこんでいる暴力性、というか、格闘技がもつ さけられない 野蛮さを あきらかにするものだった。■今回は、「体育会的空間とか体育教育が はらんでいる 暴力的体質」の、「起源」問題に ひとつの 仮説を 提供しようという、こころみである。その意味では、「スポーツからみた日本社会」や、の続編でもある。
■といっても、今回とりあげる素材は すべて 武道であって、スポーツに分類されないかもしれない分野も ふくまれるので、ホントは「教育イデオロギーとしての武道体系」といった表題の方がふさわしいのかもしれない。
■しかし、日本社会のスポーツ文化/体育教育とみるかぎり、欧米などとはあきらかに異質な側面が ついてまわるのは、どうみても、武道と その背後の儒教イデオロギーを ぬきに かたれそうにない(「」や、「」)。■その意味では、日本的スポーツ文化の イデオロギー性を 解明する ための作業として、武道の 分析は、いま一度くりかえす 意義があるとおもう。

■前回紹介した、武道家/身体運動論家 高岡英夫さん、剣道など 武道の教授システム=師弟間の指導/稽古のなかに、「潜在的擁護システム」が ひそんでいると指摘する。■「潜在的擁護システム」とは、高岡先生にいわせると、「当事者達にとって無意識の体系である」「“特定の人々の利益を擁護するシステム”」である
〔『光と闇 現代武道の言語・記号論序説』,p.135〕。■ここでいう、「当事者」とは、師弟双方であり、「特定の人々」とは、もちろん「師匠」をさしている(笑)。高岡先生、剣道の「懸り稽古」に ひそんだ 非対称性を 暴露して、「上位者に向って無理な体勢と間合、機会から打突を繰り返さねばならない」と指摘する。

「こんな無理な間合から打って出られる訳ないだろう」「という自己規制が働き、打突を繰り返すことを躊躇しようものなら、忽ち叱声が飛び、その意を込めた(真に「叱正」の記号である)打突が飛んでくる。剣道の主幹的なパフォーマンスが持つ“理合”」「とはおよそ矛盾する体勢や間合からの打突を強要される」「已むを得ず(嫌々)打って出る、すると更に忽ちいともたやすく躱〔かわ〕され赤子の如く捻〔ひね〕られる……と、延々とこれを繰り返させられるのである。そして、こうした稽古状況そのものを放棄することは、もとよりできない……」
〔p.138〕

■なるほど、それで 高段者=指導者がわは、無敵なのだね(笑)。■ともかく、こういった 非対称的な 必勝/必敗構造は、「出藍〔シュツラン〕のほまれ」を 道場内では 現出させない カラクリ、いつまでたっても、「師を のりこえられない」魔術を演出する。■高岡さんは、心身の資質すべてをそろえた わかものが 弟子いりを のぞんできたばあい、武術家が、最高のものを伝授しようとはしないという、ズルさ=保身を、わるくはいえないという。職業的な武術家には、生活・家族があり、面目があり、それを 維持するためにも、そして、師匠に てとりあしとり、ていねいに おそわったわけでもなく、自力で つかみとった技法を、おしげもなく わけあたえ、「出藍のほまれ」を 美徳とするはずがなかろうというのだ〔pp.133-4〕。■ま、それは 当然だろう。先代が ほどこしてくれなかった こと、ときに 数十年の試行錯誤をへて やっと たどりついた地平に、やすやすと わかものが たどりつくのを、なんの こだわりもなく、「ホントに よかった」と 心底よろこべる師匠は、理念上しか、ありえないかもしれない。■「職人は、おしえない。おそわらない。ただ、ひたすら、ぬすみ、つかみとる」といわれるが(そうでない うるわしい空間も あるようだが)、タネあかし してしまえば「コロンブスの タマゴ」といった秘訣のばあい、かくしたくなるのは、当然だろう。■逆にいえば、「マニュアル化」が可能であるとか、やすやす おしえてしまうとは、師弟関係が あまりに 距離をもっていて、ミゾを うめることが ほとんど不可能だという、上位者のユトリが歴然とあるということだろう。
■こういった、「追走者による、おいこしの可能性=危険性」があるからこそ、それを 巧妙に はばむシステムが発達するのは、当然だ。「潜在的擁護システム」として。
■高岡さんは、こういった観点から、合気道や少林寺拳法に なぜ 試合形式がないのか、大山空手といわれた極真会が、「上段・金的禁じ手付の直撃方式〔p.148〕」を 維持している意味を、あばいていく〔pp.141-52〕
■合気道や少林寺拳法に なぜ 試合形式がないのか? 指導者がわが、つよさを反証されてしまうリスクをなくすためだ。■かわりに どういった形式が かんがえだされたかといえば、攻/防を 分業して、たとえば 弟子が攻撃し、師匠が防御するといった、役割の固定化の 反復、ないしは 交代である。ときには、攻撃方法や目標を限定したり、防具をつけたりする
(ボクシング・トレーナーらによる、スパーリングなどに、ちかい)。■これによって、なにが もたらされるかといえば、?予測困難な 攻防が 不規則かつ不意に くりかえされ、攻守の選択肢の予期が困難なのが、試合形式である。それとちがい、かぎりなく 時代劇の 「たて(殺陣)」に にた性格になる。■高岡さんからいわせると、試合や実戦で もっとも 重要なはずの、攻防の応酬にまつわる、機敏な情報処理能力が とわれなくなってしまう。■?上位者が、下位者の攻撃をうけそこなっても、下位者への攻撃をしそこなっても、どちらも 「それで よし!」といった、教育的意味を付与されてしまい、上位者の「失敗」「無能」が、かくされてしまう。■これらの反復練習が、師弟間での 上下関係=指導/師事構造を 正当化=強化する。
■「大山空手」の 「潜在的擁護システム」は、天才的に巧妙だという。■いわゆる「フルコンタクト」形式で、防具/グラブ等ぬきで を実際に「どつきあう」わけから、真剣勝負に もっとも ちかそうに みえるから、神格化されてしまっているが、実は、実戦では当然選択肢としてえらばれうる、頭部への 打突と、股間へのケリが 封印されている。■死亡者がでかねないなど、「危険すぎる」という、当然の配慮にみえるが、頭部にはケリしか とんでこない(こぶしなどの 攻撃は、クビよりしかしか、こない)、股間にはケリがこない、という 安心感が、大山館長をはじめとして、上位者の 圧倒的な優位をくみたてる。■しかも、高岡さんにいわせれば、「上段・金的禁じ手」という ルールで 訓練された弟子たちは、かりに それを 解禁されても 実質的に 駆使できない心身へと かいならされてしまっている。■大山館長ら一部は、「禁じ手」なしの、心身システムを内面化しているが、弟子たちは、最初から「禁じ手」ありの心身がすりこまれてしまっている。「実戦空手」として完成した師に対して、ボクシングのように 攻防の全体系を縮小されてしまっている弟子は、大山館長に上段づきを ゆるされても、やったことがないのだから
(サンドバッグあいてなど以外)、たやすく ひねられてしまうのも当然だと。

■このように、「潜在的擁護システム」の洗練度は、武道それぞれだが、どれもが なんらかの ゴマカシを かかえこんでいると ふんで、まちがいなかろう。■そして、それらは すべて、「先生は ちがう」「まったく かなわない」という、弟子たちの 心身の服従を ひきだし、「ケンカ」などになったら、実際にはどう決着するか わからない 程度の差までも、こえがたい ミゾとして意識させ、萎縮させ、上下関係を 実体的に証明=確認してしまうわけだ。■しかも、そこには、「師弟愛」に ねざした「教育的配慮」が くまれているという、てのこんだ「コーティング」が ほどこされているので、当事者双方が、自己欺瞞の共犯関係を強化しつづける。
■高岡さんが するどいのは、こういった 支配関係の強化装置=「潜在的擁護システム」が、教育学的/社会学的な政治性分析にもつ意味を自覚している点だ〔p.139-40〕。とりわけ、「懸り稽古」に象徴される剣道部出身者の心身の従順さと、民間企業の上司/部下関係の親和性を指摘する。そして、「先生は ちがう」「まったく かなわない」という、弟子たちの 心服ぶり、支配構造の強化は、大学の研究室などにも みてとれると。■要は、上下関係をともなった、教授/師事関係がある空間では、ほぼ共通して、「潜在的擁護システム」がはたらくと、うたがってよさそうである。

■こういった、教育学的/社会学的な卓見については、ろう学校の 聴覚口話法教育の「名人」が、どのように「潜在的擁護システム」で 神格化されてきたかを 痛撃する 社会学者の 金澤貴之さんが、同形の カラクリを みてとっている
(「聾教育における「障碍」の構築」『障害学への招待』明石書店,pp.185-218)。■ろう児教育の「名人」は、絶対に 失敗しない。なぜなら、「あの先生がやったから、ここまで伸ばすことができた。他の人がやったら、目も当てられなかっただろう」と、みなされるから〔p.201〕。■「結局、口話法という理念自体は傷つかない」。もともと 適用困難だったのではないかと、うたがわれる 児童でも、「「それほどまでに難しい子どもだった」と原因が子どもや子どもを取り巻く環境の問題に帰因され」てしまうから〔同上〕。■「名人」の権威に疑問をかぎとることは、巧妙に全否定される。「若手の教員が上手くいかないのは、「指導技術が未熟であるからだ」とされ、疑問を口に出そうものなら、「自分の指導の足りなさを棚に上げて、何をいうか!」と叱られる。結局、一生懸命口話法に習熟するしか道はない(しかしその「習熟」に果てはない)。〔p.200〕
■ハハハ。これは、たしかに 無敵だ。「名人芸」は、成功すれば「功」として 一層の神格化の素材に、失敗しても 「芸」の「奥義〔オーギ〕」の ふかさの 証拠にされる。「疑念」は、「修行不足」の証拠なのだから
(笑)
■この、ことの成功/失敗の 原因を、つねに 上位者の技法/選択の ただしさと、いいくるめる カラクリは、こと 技法伝授系の 教育的関係性に とどまらず、「上司の決断」や「大本営発表」などにも ひろく通底する、日本型「タテ社会」の論理として 一般化/普遍化が 可能だろう。朝鮮半島など 東アジア諸地域や、カトリシズム/イスラム世界にも、同質の権威主義は、ありそうな気もするので、過度の「一般化」「特殊化」は 本質主義として 危険だが。■いや、日本近現代に猛威をふるい、現にふるいつづけている、こうした権威主義的「潜在的擁護システム」は、「タテ社会」全体の 秩序維持のために、あらゆる領域を支配しているとも、いえそうだ。■つまり、近代日本とは 「年功序列を基盤とした、武道/儒教的な 指導/修行イデオロギーで つらぬかれた 時空である」と、いいかえることができるのではないか? 木村正司先生もくりかえし 指摘してきたように、「競争原理」が 巧妙に回避され、後続世代の 努力/能力が 無限に吸収されてしまう 「ブラックホール」のような 時空であると。
■このように みてくると、武道や日本の学校/企業スポーツに 遍在しているらしい 教育イデオロギーに着目することは、「教育的関係という 一種の逆説」をとくカギになるだけでなく、「実現されて当然の時空にも つらぬかれない、近代合理主義の 不可解」という 現代日本という時空の異様さを ときあかす かっこうの材料だとおもうわけ。


【シリーズ記事】
スポーツからみた日本社会1」「」「」「」「」「」「」「」「」「10」「11