■いわゆる「課題集中校」などと 密接にかかわる 経済階層と 公教育の関連性とを 先日論じたが、今回は 一転して、エリート層近辺の 文化資本を、ひさしぶりに かたってみよう。■東大文学部ドイツ文学科周辺の 前史と戦後史を いじわるく、しかし愛情あふれる 皮肉でもって、するどくスケッチした『文学部をめぐる病――教養主義・ナチス・旧制高校』(松籟社)で 衝撃をあたえた 高田理惠子さんが、初夏に刊行した『グロテスクな教養(ちくま新書)をとりあげる。■きのう、「大学教授は虚業家か」でもとりあげたが、エリート層にも、かなりの屈折がある(笑),
■高田先生が のべている 中心的論点の第一。それは、「教養」論の大半が、基本的に「いまどきの若者は……」という論理を延々とくりかえしているというものだ。■もちろん、それは、「自分たちのわかいころと、くらべて……」ということ(笑)。「自分たちのわかいころ」の記憶なんて あいまいだし、基準となる座標軸が もっともなのか、そんな保証、どこにもない。■「いまどきの若者は……」という ボヤキは、なんと 古代エジプトでも 確認できるそうだが、「教養がたりない」という 日本での指摘は、漱石大先生も、もらしておられるとか(笑。pp.72-3)。■それはともかく、「我が国最初の教養崩壊論議」が1930年代なかごろに「大合唱」されていることへの着目は、重要だ。なにしろ、1930年代「教養崩壊」現象として、問題視されているのは、なんと、エリート中のエリートであった旧制高校/帝国大学の学生さんの 哲学/文学的素養の欠如だったんだから〔pp.76-99〕。■かれらがこだわりつづけた(そして批判者たちも同様だった)単なる受験勉強の勝者、というイメージをぬぐいさるための「教養」概念は、いまも有効だろう。
■ただ、こういった 奇妙な既視感に まどわされてはならない、というのが、高田先生の眼目だ。■中心的論点の第二。「青春の終焉」「教養主義の没落」とかいわれる、1970年以降、つまり大学紛争以降が、それ以前と、どこで本質的断絶がおきたのか。「青春や教養の終わりを取り沙汰する言葉は、エリートと呼ばれる少数の若い男性たちのための自己形成の方法が、その特権性を失った」点にあると
〔pp.24-5〕
■ここで みのがしてならないのは、これら「教養」の衰退論が、基本的にエリート主義で、階級問題をかかえていたという事実だけではない。女性も、当然のように排除されていた、ってことだ。これが、第三の論点。■もちろん、日本女子大とその前身をはじめとする、女子大/高等女学校などの系譜でも、「良妻賢母」主義教育から、教養をとくものはあったが、それは あくまで「育児」「家事」の ための 基礎学力といった次元でしかなかった。「教養主義」といった議論とは、全然からまない領域として自明視されていたわけね。■しかし、帝国大学卒を前提とするような男性の妻子としての女性たちを頂点とした、「教養」のピラミッド構造は、結婚戦略は自己実現としての職業生活という次元で、ロコツに女性たちを規定してきた。■女性たちは、そういった「ピラミッド構造」から、男性たちの社会的地位や趣味(教養/文化資本)を しなさだめしてきたし、男性たちも恋愛や結婚の対象として、そういった軸から、しなさだめをくりかえしてきたと。■男性たちの出世主義や、みえ=階級問題も、なまぐさいが、こういった異性愛の制度化が からまると、一層 なまぐさくなる
〔(笑)。「第四章 女、教養と階級が交わる場所」pp.175-228〕。*

* 漱石の小説をはじめとして、世の「男流文学」の ほとんどは、男性中心的な視点でつらぬかれている「ホモ・ソーシャル」な空間(女性は、主体としては登場しない)に終始してきたという指摘は、文芸評論では 常識化しているが、それは フェミニズムの「洗礼」をちゃんとうけた層にかぎってのこと。男性筆者と登場人物と男性読者にとってだけ つごうのよい 女性キャラは、漱石大先生のえがく女性像はもちろん、かの「唯野教授」の マドンナ「榎本奈美子」とて、例外ではない。■フェミニズムが大キライというか、ちゃんと洗礼をうけつつも 逃避してしまった 小谷野敦(笑)のような人物はともかく、筒井先生の分身である「唯野教授」の文学講義=理論には、フェミニズムは単なる「ポスト構造主義」の思潮の一種にすぎない。ま、わかる。そういった 矮小化〔ワイショーカ〕した かたちでしか「受容」できないところに、あの世代の男性知識人の 致命的な限界があり、フェミニズム文学理論の代表的急先鋒である、斎藤美奈子さんだったら、『文学部唯野教授』を「FC(フェミ・コード)」で最低に分類なさるだろう〔笑。 斎藤美奈子『物は言いよう』平凡社〕。

■高田先生の真骨頂は、何重にもエリート臭が ただよう 「教養論」を 徹底的に脱神話化した点。■1970年ごろの『赤頭巾ちゃん気をつけて』や、80年代の「ニュー・アカデミズム」あたりさえも 冷徹に論じられる視座からみたとき、日本の知識層の 貧相くさい西欧コンプレクスが うきぼりになるし、それは とりもなおさず、近現代の日本人男女の さもしい 上昇志向を さらけだしてしまうことを、克明に立証した点。■とりわけ、文学では斎藤美奈子氏が 徹底して脱神話化した文学系男性エリートの権威を、大学/アカデミズム/硬派出版社をふくめて、総括=ナデぎりにしたところか(笑)? ■前作『文学部をめぐる病』の くりかえしではあるが、「教養」のメッカにほかならない 東京帝国大学文学部や岩波書店をはじめとする 人文系知識が、基本的に実学指向の帝国大学の傍流にありつづけたこと、戦後も基本構造に 変化はなかったことなどの指摘も、「教養科目は、いらない」式の議論や、「教養は、やっぱり必要だ」と 姿勢をひるがえした 文部科学省/大学人の 無節操ぶりを検討するときに、かかせない論点だろう。■実学主義の米国だって、専門職養成大学院の入学資格は、事実上 すべて教養学部といってさしつかえない4年制大学だからね。

■高田先生の 歴史分析をよむと、大衆社会の進行とは こんなふうにすすむのか? アカデミズムや「思想」なもとより、「活字」といったものの 「地盤沈下」が ひきおこされる必然性が、てにとるようにわかるし、欧米の 追従=拙劣なコピーでしかなかった近現代日本が、無残な惨状を呈するのは、さけられなかったことが しみじみ理解できる
(笑)。■東大や岩波書店などはもちろん、『グロテスクな教養』(ちくま新書)を刊行した 筑摩書房までもが、わらいのめされるというのは、一服の清涼剤になることだろう(笑)。■ま、有名な自伝小説を、「小説としての価値より、日本の教育社会学研究への貢献度のほうが大きいくらいなのだ」などと、評価された〔p.199〕のでは、中野孝次の遺族やファンは、たまらんだろうが(笑)
■異論を ひとこと はさむなら、「すこし長いあとがき」にある、「一冊ぐらいは、読んで「いやーな気持ち」になるような新書があってもいいでしょう、と励ましてもらった」と、編集者に礼をいっている点だ
(p.235,笑)。この企画が、ひとの劣等感とか卑小さを えぐりだすような、正直、「「品のいい」ものでないことは、よくわかる。しかし、たとえば 教育社会学などであれば、当然 同様の視座をとり、同様の分析手法を とるほかなかろう。その意味では、教育社会学者の 業績が たくさん引用されているとはいえ、基本的には ドイツ文学者の「余業」に さきをこされたという事態を、「失態」と うけとめるべきだろう。