■リンク集にもあげてある、うえしんさんの『考えるための断想集』 は、なかなかかんがえさせられる書評日記だ。■ひとつき以上まえに、「高尚と低俗」という、趣味論というか、「オタク論」が展開された(2005/8/27)。■先日、「高級文化」の領域とみなされてきただろう「教養主義」について、高田理惠子『グロテスクな教養』をあつかったが、本日分の更新は、この「高尚と低俗」をうけての続編でもある。
文学や哲学を高尚と尊び、マンガやオタクを低俗と軽蔑する考えを私たちはもっているわけだが、この基準がいっているのは、性欲や自己満足、利己主義を好きなだけ追究するか、あるいはどれだけ離れるかということなのだと思う。

低俗なものがおとしめられるのは、性欲や自己満足がとことん追究されるからだ。自分の利益ばかりを追求する人は嫌悪されたり、非難されたりする。オタクは自己の性欲や愛着をあまりにも忠実に執着しすぎるから、ほかの人に嫌悪されるのである。

ぎゃくに高尚なものが誉められるのは、自己利益から遠くへだたった行為や趣味をおこなうからだと思われる。政治や哲学、社会について考えるのはこの共同社会の利益に貢献すると思われるだろうし、難解で深遠なことを考えておれば、われわれの社会に利益がいずれはもたらされるだろうと思われるのだろう。

高尚なものは自己利益から離れ、共同社会に益するものだと思われており、性欲も覆い隠されているがゆえに非難からまぬがれる。自己利益を追求していないように見える。自己利益の倫理が、高尚と低俗という基準にもりこまれているわけである。

■非常に、明快な解釈におもえる。■たしかに、「低俗」とみなされるほど、たのしい、ゾクゾクするものがおおく、欲望/興奮などと直結しているという直感がはたらく。
■しかし、「高尚なもの」として「誉められるのは、自己利益から遠くへだたった行為や趣味」なのであろうか? また「政治や哲学、社会について考えるのはこの共同社会の利益に貢献すると思われ」、「難解で深遠なことを考えておれば、われわれの社会に利益がいずれはもたらされるだろうと思われ」ているだろうか? ■実は、ひとびとが「高尚」とみなすことを、「自己満足」としかよびようのない「追究」としてくりかす研究者がすくなくないし、そういった「追求」が、名利をともなっていることも、よくあるはなしだ。■直接、私利私欲とは直結しないまでも、名誉欲/権力欲と直結した、業績/予算/地位獲得競争は、充分なまぐさい。かりに エゲつなさ、あるいは ズルさなどが 全然からまなくてもである。
■また、「われわれの社会に利益がいずれはもたらされるだろう」とかいわれても、「難解で深遠」そうにみせているだけで、冷静にみれば、いつ利益が社会にもたらされるのか、さっぱりわからない研究は、ゴマンとある。■科学技術に 長期的には多大な貢献をするらしいが、理論物理学や宇宙物理学、純粋数学とやらは、どこに「ご利益」があるのか、見当もつかない(笑)。すくなくとも、中村哲医師らが毎日つきあっているアフガニスタンの農民たちには、直接の「ご利益」などなかろう。■「高尚」とは「高遠」であり、それは民衆の日常生活とは無縁といった含意もあるのではないか? いいかえれば、「自己利益から遠くへだたった」ものに、一見みえるというにとどまらず、社会の当座の利益からも、とおくへだたったものとしかおもえない。
■してみると、大学組織/学界/文学団体等々、権威化した組織がおこなう「おすみつき」こそが、「高尚」さを保証してみせるだけなのではないか? うえしんさんが「性欲も覆い隠され……自己利益を追求していないように見える」と指摘する 一種のカムフラージュは、実は、社会の当座の利害/欲望を とおく超越しているかのように、権威化された組織が演出したものの産物というべきだろう。■「現世の利害を超越しているのだから、個人的利害/自己利益などは、当然超越しているはずだ」→「性欲/物欲をはじめとした、なまぐさい次元にあるはずがない」→「けだかく、よごれていない、高嶺のハナだ」という、連想が構築されると(笑)。
■以前とりあげた、『大学教授は虚業家か』といった、舞台ウラの暴露が、典型的なスキャンダルになるのは、以上のような、過剰な美化=理想化の産物ということを、うらがきしている。■「どんな組織であろうと、ドロドロぶりに大差などない」「それは、組織内の個人が、みな聖人君子でないという普遍的現実の当然の帰結」といった、冷静な判断さえあれば、スキャンダル化など、おきようがないのだ。
■もちろん、岸田秀さんが「日常性とスキャンダル」という文章のなかで、そういった「聖化」されてしまう領域として、中世の宗教教団と、近代におけるその後継者としての大学組織をあげているとおり、「組織内の個人が、みな聖人君子でないという普遍的現実」などと、いくらといたところで、大衆心理として、それがやむことはないのだが(『ものぐさ精神分析』中公文庫)。■やむとしたら、『大学教授は虚業家か』といった、舞台ウラの暴露が、陳腐化しすぎて、なんら興味をひかないぐらい、大学空間が俗物の集中した空間とみかぎられたばあいだろう。■それが、近未来的にくるとはおもえない。なにしろ、小中学校教員を美化する「聖職」意識は完全には崩壊していないし、キリスト教関係の団体などや利他的なNGOなどは、やはり高潔な集団とみなされつづけているだろう。■これらの諸集団に対する評価が、美化=過大評価なのかどうかは、それぞれだろう。しかし、特定の集団が、きまって「聖化」されてしまうという構造を、人間が「卒業」することはないのかもしれない。


オタクというのは自己の性や愛に忠実でありつづける強さをもっている。性欲を中心に執着するということは、この社会ではいっぱんに嫌悪され、隠蔽されるのである。オタクはそのうえに幻想によって自己の性満足を追究するがゆえに、異性の利益ももたらさないので、この共同社会の風当たりは強くなるのだろう。非難にも耐えて自分の好きなことを追求できることはかなりの強さや技術、あるいは無神経さをもっているのだと思う。

私は自分の弱さゆえに低俗なものにふみとどまれずに高尚なものへと向かう求心力をもっている。低俗を非難する声にすぐに屈するのである。高尚なものに興味が向かうというのは、自己利益を放棄するということでもあり、低俗への非難に弱いということである。他人の言動に左右されやすい弱さをもっていることになる。

社会は共同体の利益のために性欲や利己主義を断ち切らせようとする。われわれは低俗という非難によって自己利益を放棄するように訓育されるわけである。

低俗なものを非難する心をもつことによって、われわれは自分の好きだったことをどんどん放棄させられて成長してゆくことになる。高尚なものが絶対的に善であり、正義や優越だとは私は思わない。それは社会的体面をとりつくろう技術でしかないと思う。

そういういつわりのペルソナにむしばまれてゆく人生は、かつて反抗した世間体を気にする親たちとなんら変わりはしない。低俗を非難し、高尚という仮面を身につける人生には警戒したいものである。他者の利益に奉仕するだけの人生は他者のあやつり人形でしかないのである。

■これは、「高尚」さへの劣等感を意識しつつも、決然と「低俗」を選択しようという、「やせがまん」ともいえる、「高潔」な哲学がある。完全な逆説ともいえる。むかしなら「露悪趣味」とか「偽悪者」などといわれたかもしれない。■「俗っぽい」表現なら、「わるぶる」という感じか
(笑)
■しかし、これら「低俗」な趣味を周囲に おしかくすとは、「偽善」とか「抑圧」、「自己規制」などとよばれたきた、「よわたり」戦術ともいえる。■「周囲」「世間」に妥協して、「低俗」さを おえこむ姿勢は、ある意味、「オトナになる」という、不可避の社会化過程とも いいかえられるはずだ。そして、こういった「世間への妥協」を いっさい しない/できない/する必要のないのは、天才をふくめた異常者だけだろう。
■また、うえしんさんは、「低俗という非難によって自己利益を放棄するように訓育される」「低俗なものを非難する心をもつことによって、われわれは自分の好きだったことをどんどん放棄」させらるというが、社会が、「自己利益を放棄するよう」、つねに みはっているかどうかも、あやしい。■なぜなら、民間企業や官庁で正当化される行為の相当部分は、自己正当化であり、構成員に「滅私奉公」は しいることがあっても、組織防衛という次元では、法人=擬人論的に、完全に利己主義的なことがおおい。「低俗」な組織原理というより、「下劣」ともいうべき、原則をくりかえすことが すくなくない。
■ちなみに、旧制高校の特徴であったはず「教養主義」の理念は、「高踏主義」だったはずだ。旧制一高の寮歌のひとつ「嗚呼玉杯に花うけて」の一節に「治安の夢に耽りたる 栄華の巷低く見て」とあるように。■しかし、先日紹介した高田理惠子『グロテスクな教養』が、教養主義の ある種の典型として、ナベツネをあげているのは、まさに「グロテスクな教養」以外のなにものでもあるまい。「高尚な」ドイツ哲学を大量に読書しようと、あの俗物性の権化が、その「なれのはて」では、禁欲主義的青年のモデルには到底なりえまいし
(笑)。■ナベツネの どこに羞恥心があり、あるいは「教養が邪魔をする」瞬間があるのだろう? そして、どこに 「低俗という非難によって自己利益を放棄するように訓育され」た、こんせきが みとめられるのだろうか? ご教示いただけるかたがいれば、おおしえねがいたい。皮肉でもなんでもなく。