石原千秋『国語教科書の思想』〔ちくま新書〕は、優等生的な、あるいは常識的な発想で ずっといきてきたひとにとっては、すごく刺激的な啓発書だろう。■カバーに引用されている、つぎのような指摘が刺激的に感じられるなら、「おかいどく」だ。しかし、これで、さきが よめてしまうのなら、資料集として必要かもしれない層だけかえばよい。

……国語がすべての教科の基礎になるような読解力を身に付ける教科だと考えている人がいるとしたら、それは「誤解」である。現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである。したがって読解力が身に付いたということは、道徳的な枠組みから読む技術が身に付いたということを意味するのだ。………
〔表紙カバー/pp.25-6〕
■「あとがき」が、また正直というか、よむ必要のない層を ちゃんとわかりやすく特定してくれる 絶好の でだしで はじまっていて、実に便利だ。

「天に唾する」という言葉があるが、この本は文字通り「天に唾する」思いで書いた。理由は、本の中でも明かしているように、私が長年高校国語の編集委員を務めているからである。この本で行った小学国語、中学国語への「批評」は、形を変えて私自身にも降りかかってくるだろう。と言うよりも、すでにほとんど私自身への「批評」に近かったかもしれない。
 それでもあえてこの本を書いたのは、世界に通用する日本人を育てるために、いまはもう国語という教科を根本的に変えなければならない時期に来ていると考えたからである。私がこの本で主張したことはたった二つしかない。一つは、いまの国語教育は道徳教育に傾きすぎているいるということだ。もう一つは、国語教育に「批評」という高度な精神活動を導入すべきだということである。道徳教育で押さえ込むのをやめて、「批評」活動を通して「個性」を育てる方向へシフト・チェンジしなければ、日本はもう世界で生き残れないのではないだろうか。ただそれだけの思いが、この本を書かせたのである。
〔p.200〕

■「日本はもう世界で生き残れない」うんぬんは、OECD(経済協力開発機構)2003年におこなった、PISA(生徒の国際学習到達度調査)の結果で、「読解力」がひくいのは、日本の国語教育の構造的産物だという認識を、著者がもっているからだ〔pp.33-57〕。■著者は、国際社会で日本人がいきのびていくためには、文章を批判的に検討することなく、結局は 編集者が 設定した、ひとつの道徳的解釈を 「正答」とみなして、パズルときをくりかえすような、国語教育/入試をやめねばならない、ととくのである。■文学は「聖典」をありがたがって、「正答」をさがすものではなくて、各人が論理と感性でもって複数の解釈にたどりつくのが当然だという、文芸批評というイミでの「文学」、批評家や大学の研究者がおこなっている ような次元での 「文学」をカリキュラム化せよというのだ〔pp.58-71〕
■総論的には賛同する。■解釈をあらかじめ「正答」を設定しておいて、それ以外の解釈を異端/不謹慎とみなすような 装置は、筆者がいうとおり、「「善意」に支えられたソフトな装いを保っている国語に隠されたイデオロギー
〔p.11〕といってさしつかえないだろう。暴力/セックス/新興宗教/天皇制/差別問題など、ヤバそうなテーマが慎重に排除されているといった、「編集会議」の暴露も〔p.12,pp.29-32〕。■それをあばく作業は必要だし、そういった次元で 市民を啓発し、また、編集者=大学人や高校教員の 無自覚なイデオロギー性を批判して、そういった「かくれたカリキュラム」を 実践させることの つみぶかさを 自覚させることも、だいじなことだとおもう。■そういった観点からすれば、つぎような著者の指摘は、もっともだ。

 古典や漢文を教えるのとはまた違った意味で、小説を読む技術ももはや教えなければならないものとなっているのである。問題は、現在そういった局面に立ち至っているにもかかわらず、文学理論をないがしろにしてきた日本の近代文学研究と国語教育研究に、小説を読む技術を自覚的に教えるような方法が用意されていないところにある。
 したがって、そうした技術の開発は急務だと言えるが、ひどく保守的な様相を呈してきた日本の近代文学研究にそれを期待することは難しいかもしれない.
〔p.64〕

■しかし、著者の認識は、相当ふるいとも感じる。■たとえば、

逆に、現在流行のカルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムは、国民国家批判に躍起で、そのポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)で雁字搦めになっていて、まるで「道徳教育」の学会版の様相を呈している。
〔同上〕

■ハラナは文学系の学会というのは、でかけたことがないので、しらんが、カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズムをうけとめた、文学理論は、そんなに仰天するような あたらしい議論に終始しているわけではないし「国民国家批判」の象徴的存在である、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」論など、ごく まっとうというか、保守派が「だから、国家には物語が不可欠だ」といった、防戦にまわっている始末だ(笑)。「躍起」もなにも、学界ではごく「常識」でしょ? ■「想像の共同体」論とか、フェミニズムあたりからの、既存の文献/研究への批判的検討が、ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)で雁字搦めになっていて、まるで「道徳教育」の学会版の様相を呈している」などと感じるってことは、単なる保守オヤジとしかおもえない(笑)。そんな感覚で、生徒/学生の思考の柔軟性をはぐくむといった教育は不可能だとおもうよ。
■それと、複数の解釈をゆるさない方針は 異様である。大学の文学教育のマネごと未満で 有害無益だ、といった批判は、石原さんのオリジナルなんかじゃない。■たとえば、国語教育の「外野」ではあるが、ましこ・ひでのり『イデオロギーとしての「日本」』は、日本語教育関係者(畠弘巳)からの痛烈な国語科批判(石原さんと通底する、中途半端な文学教育モドキ論)を引用しているが、その文献は1989年のものだ。石原さん、ご専攻は「漱石研究」だとおもうが、大学院生のころから、国語科批判を展開していたのだろうか? ■『秘伝 中学入試国語読解法』は、ご子息の中学受験で入試問題の問題性にきづいたとかで、1999年の発行でしたよね。ましこ氏の初版
〔1997年〕より、あとじゃん(笑)。■あと、ましこ氏、国語科の「かくれたカリキュラム」=道徳くささは、対象にしていないが、国語科は漢字表記とか古典と現代日本語の連続性を自明視させる「イデオロギー装置」だって、立証している。このヘンは、「現在流行のカルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアリズム」で、「国民国家批判に躍起で、そのポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)で雁字搦めになっていて、まるで「道徳教育」」っぽいから、黙殺ですか?(笑)。ただ、日本文学と国語科教育の世界しか めくばりしていないだけじゃない?
■あと、「イデオロギー装置」とかで、アルチュセールとか、もちだすんで、もひとつツッコミをいれておくと、教育社会学あたりを中心にした「かくれたカリキュラム」って概念装置は、ごく一般的ですよ。「テクスト論」なんて、こむずかしい 理論装置なんて不要だよ
(笑)。■ましこ氏の教科書批判だって、国語科/歴史科の教科書編集者=研究者/教育者の無自覚にささえられた「かくれたカリキュラム」を えぐりだす作業だからね。

■また、既存の国語教育の実態にイラだっての運動ではあるけれども、「おそわる国語 2」で紹介した、広島大学の難波博孝さんたちの『国語科 解体/再構築』という、ちょっとおっかないサイトの「国語科解体/再構築の必要性と方向性」という文章とか、しらないのかねぇ。■つぎのような宣言とか、壮大で すごいとおもうけどな。■これは、石原先生が、暗黙のうちに(おそらく無自覚に)、「大学人や批評家みたいに、『文学』をちゃんとやりさえすれば、知性がみがかれる」みたいな幻想には まどろんでいない、実践理論だよ。

(1) 国語科が6つの領域*に解体する際、他の教科の内容も改変されるだろう。
(2) 6つの領域の学習目標は、必ず活動の中で達成されていく。
(3) 国語科のセンター試験から、「小説」「古文」「漢文」の問題を廃止し、「論説文」だけにし、「思考」「思想」「メディア」領域の設問で構成する。「イメージ」「表出」「コミュニケーション」各領域の評定には、ペーパーテストでは限界がある。
(4) 国語科の解体/再構築に全ての教科教育関係者が入ることで、他の教科の再編は促されるだろう。
* (A) コミュニケーション領域
話す・聞く・読む・書くを行うモジュールである。スピーチの仕方、説明文の情報読みの仕方、説明書の書き方、などを学ぶ。(他者に向けたコミュニケーション)
(B) 表出領域
さまざまな感情の表出について知ったり、実際に行ったりする。詩、演劇だけでなく、絵や音楽とのコラボレーションなどについても学ぶ。(自己を表出させるコミュニケーション)
(C) 思考(あるいは論理)領域
ここでは、論理的思考の方法、批判的思考の方法などを学ぶ。説明文や評論文だけでなく、あらゆる言語事象を使って、思考を鍛えていく。また説得の方法についても学ぶ。
(D) イメージ領域
ここでは、私たちの心の中にうごめく、さまざまなイメージ/イマジネーションについて学び、実践する。例えば、詩を読んでイマジネーションをふくらませる、地域を歩いて、その地域を覆っている民俗学的なイマジネーションを知る、などの実践が考えられる。
(E) 思想領域
私たちの言語行為を裏からコントロールしている、私たちの「心の構え」、それを人によっては、信念とも、イデオロギーとも、素朴理論とも呼ぶだろうが、その「心の構え」について学ぶものである。
(F) メディア領域
メディアリテラシーを身につけるモジュールである。私たちが生涯にわたって出会うであろう、さまざまなメディアについて、どのように受け止めていけばいいか、どのように批判していけばいいかを学ぶ。メディアには、文字言語のものも含まれていると考えたい。また従来の読書指導はここに吸収される。

■教科書改革、国語教育改革では、どんどん石原先生にがんばってもらおう。有名人でないと、世間はうごかないから。■ただ、ハラナは、「国語教科書の思想」と 表題をつけてしまえる 感覚には、ついていけない。「思想」じゃなくて、無自覚なイデオロギーじゃない? あるいは、「国語教科書:無自覚なイデオロギー装置とかくれたカリキュラム」あたりかねぇ。
■でもね。石原先生は かなりカンちがいしてるとおもう。■コドモはバカじゃないから、ちゃんとした文学教育やれるんだ、っていうけど、いまだって コドモたち、充分かしこいとおもうよ。
読解力が身に付いたということは、道徳的な枠組みから読む技術が身に付いたということを意味するのだ」って、あたりで、石原先生が、コドモのホンネを まったくわかってないことが、すけてみえる。■「読解力が身に付いたということは、道徳的な枠組みから読む技術が身に付いたということを意味するのだ」という 分析自体は ただしい。でも、コドモたちは、それを 戦略的に「面従腹背」しているだけだよ。「こうこたえときゃ、先生がよろこんで、点数もよくなる」って、ナメきっているんだよ
(笑)。石原先生、コドオたちが、オトナの偽善性を ちゃんとみすかして、ウラをかいていることを、みおとしている。■もし、国語科の現状の「かくれたカリキュラム」「イデオロギー装置」とかを、問題化するんなら、それは、国語科という教科教育の空間で、批評的討論がかわされないこととか、複数の解釈が対立/共存しないことなんかじゃない。■「こういった話題には、ふれちゃいけないんだ」「こういうふうに、なみかぜたてないように、公式見解に おもてむきあわせておく、処世術=偽善をみにつけることが、オトナになるってことだ」っていう、「かくれたカリキュラム」をくりかえしているという構造だ。■こういったことに ふれないで、学力問題としてしか、認識できない点で、なんにも教育現場の実態をごぞんじないんだとおもう。だいじょうぶですか? 大学のゼミとか(笑)

■この本は、以上のような意味で、国語科教育が、実に悲惨な空間であることを、うきぼりにしてくれている点で、貴重な資料集だ。分析者=批判者、編集者の 視野のせまさもふくめて。