■きのう、Amazonの読者評を紹介したとおり、竹内一郎『人は見た目が9割』は「本の中身はヴァーガス『非言語コミュニケーション』、芳賀綏『日本人の表現心理』、モリス『ボディ・ウォッチング』などをマンガの手法と対比させながら解説する、という中身で新鮮味はない」が、マンガ家の技法や演劇の配役などの 「解読」をしてもらえるという点では、ひごろ感じていることの整理ができて、とても便利だ。
■第1章「人は見た目で判断する」では、演劇のキャスティングの原則が、「「見た目」で「どんな人か決定していく」ことが紹介される。マンガのキャラの「法則」と、同形なのだ。■たとえば、「丸顔」が「明るい」「愛情に富んで、包容力がある」「決断力・行動力がない」「情に流され易い」「短気ではない」とか、「角顔」:「決断力・行動力がある」「情に流されない」「短気である」「積極的で意志が強い」「先頭に立って仕事をするタイプである」「上司に仕えて、出世するタイプではない」、「逆三角形」:「消極的だが、いざ仕事を始めると、最後までやり遂げるのは早い」「情に流されない」「学者タイプである」「物事をてきぱきと片付ける」「明るくない」「愛情に富んでいず、包容力に欠ける」「先頭に立って仕事をするタイプではない」、……等々だと(笑)。■たしかに、登場人物に複雑な陰影をもたせた映画であるとか、特殊な表現をのぞいては、われわれは、外見、とりわけ かおのカタチで 第一印象をいだき、大体 その先入観にそった キャラの展開を予定してしまっている。■「水戸黄門」など定番時代劇や、ホームコメディであるとか、大衆むけにくまれたドラマでは、「いかにも」という、印象重視のキャスティングがおこなわれている。「いかにも、いいひと」「いかにも たのもしい」「いかに、ずるがしこそう」……とか、カンの にぶい視聴者でも、誤解しようがない キャラが 配置され、シナリオも それを オーケストラのように たばねて 「物語」が展開していくだろう。■それは、まさに「マンガ」チック=視覚的印象至上主義にもとづく 配役だ。
「我々演出家が、経験則に基づいて行っているキャスティングは、「多くの人がそういう風に見ている」という先入観に基づいている。何故そういう「先入観」を持つのか。それは「そういう人が多い」という「事実」に基づいているのである。
ここでいう「事実」は必ずしも現実生活でのことのみを指すのではない。映画やテレビでそういうキャスティングが行われているから、受け手はそういう傾向を常識、「事実」として学習していくのである。〔pp.24-5〕
■これは、意外に重要な指摘だ。要は、ドラマづくりのスタッフと、大衆は、「外見の印象=内面」という共同幻想を強化しあう、「一種の悪循環」をくりかえしているということを、意味している。■筆者は、「テレビや映画の演技術を通じて、現代人はノンバーバル・コミュニケーションを学習している」〔p.25〕というが、あさはかな偏見にもとづいた外見差別を、ただ無批判に助長する、一種の「イデオロギー装置」として、視覚劇が機能しているという、おそろしい構図が うきぼりになっているということだ。
■もちろん、中高年以降の現実の人物が、その内面や半生を「表情」「顔形」として 表現している、という経験則が デタラメというわけではない。 根性がイヤラシイ人物は、すでに「第一印象」だけでも、直感的に ピンとくるような 「人物情報」を 発している。■しかし、ホロコーストによる ユダヤ人虐殺や、関東大震災での、自警団による 朝鮮人ほか虐殺の事例をみても、そして、現在もつづく 北米でのアフリカ系市民への偏見・暴力をみても、「類型どおりの本質」という偏見にもとづく知的野蛮・暴力が、おびただしくくりかされてたきた。■詐欺師、たとえば、「かのじょ」になったフリをして、高額の商品をうりつけるとか、結婚詐欺など、すべて 「みため」に まどわされた、われわれの あさはかさを うまく ついた犯罪だろう。■「血液型うらない」のような、無責任な エセ科学でさえ、しばしば 有害な先入観をはびこらせているのに、「こういう かおの人物は、こういった性格」といった、より説得力がありそうにみえる、エセ・ノンバーバル・コミュニケーションを学習するという 大衆教化の 影響力は ぞっとさせられる。
■動物行動学とも通底する、感情の表出としての表情の問題は、たしかに マンガ家が直感的に つかみとったとおり、かなりの普遍性があるだろう〔pp.173-7〕。そして、こういった表情が、瞬間瞬間の 判断材料として、生得的/文化的に 最大限に活用されてきたことも、事実である。■そして、そういった「感情の表出としての表情」の統計的頻度が、ある人物の 固定化した「顔形」を形成するという経験則は、まったく デタラメではなかろう。■あるいは、女性らしさとか男性らしさなど、性ホルモンの作用によって、顔つきの類型をかたちづくる、諸特徴が分類可能なことも事実だ。眉のこさや まつげのながさ、鼻やあご、かたはば/くびすじなどの発達度など、コドモや動物も利用しているだろう、人物の属性の本質が、ないわけではない
■しかし、筆者がデズモンド・モリスの『マン・ウォッチング』を引用して、「表情」が「言語」につづいて、信用ならないという分析をなぞっているとおり〔pp.20-1〕、「表情」は、うけての偏見を利用して、女性が男性を、オトナが コドモを、詐欺師が被害者を ダマす、もっとも 典型的な「装置」だ。■「ダマす」行為が、全体のなかの ごく例外的な一部にすぎず、だからこそ、「ダマされる」のだという人間観が、はたして ただしいだろうか? そうではなかろう。経験のたりない人物、警戒心がたりない層を ねらいうちにして、「ウソつき」たちが 横行するのである。■もちろん、権力者〔上司やオトナや、オトコなど〕に、つぶされないように、防衛行動として充分正当化できる 「表情戦略」もある。しかし、ドラマやマンガなど、大衆娯楽の大半が、「いかにもキャラ」という視覚上の偏見を拡大再生産しているらしい構造は、わらって みすごせるものではなかろう。■いじわるな いいかたをするなら、「いかにも あやしげな人物が、実はいいひとで、もっとも意外な人物が真犯人だった」という、定番が基本にあるミステリー小説以外は、巨大な「イデオロギー装置」といっても、過言ではなかろう。
■このほかにも、文脈の共有化という次元で、地域差があるとか、表出の戦略も、それぞれであるとか、そこそこ興味ぶかい指摘はあるが、そのおおくは 常識的であり、むしろ、「俗流日本(文化)論」として批判的に検討する素材として、ツッコミ・ネタ満載だと、つけくわえておこう。■ネタ・バレにならないよう、具体的なことは、すべて割愛する(笑)。
■あと、外在的なツッコミをいれておくなら、本書が、全11話で構成されているのは、大学での半期=セメスターの 回数分に、ものすごく ちかい。この前後を、「ガイダンス/イントロ」、「まとめ/期末試験」などで、はさむと、ちょうど半年分の大学の授業に ぴったり 対応するような 分量・構成なんだよね(笑)。■いや、こういった 「いかにも」バナシをきかせる授業は、さぞや もりあがるし、人気があるだろう。マンガの図像とか、プリントや パワーポイントなどで 提示されたら、学生さんも きっと よろこぶし(笑)。■しかしだよ。最初にのべたとおり、本書のネタは、業界の常識か、エセ科学なのだ。こんなものを あてがわれて、「わかったつもり」になって、単位をとって卒業させられる学生さんは、「研修屋が教えることの55%はウソで、38%はハッタリで、真実は7%だけです(マッツァリーノの法則)」と、同質の環境におかれているとはいえまいか? ■もっとも、 「コミュニケーション」論とやらの 俗流版が、大学の文科系科目(おもに「一般教養」とか)には、おびただしく ひそんでいるような 予感もある(笑)。■その意味では、本書は、大学が、「55%はウソで、38%はハッタリ」っぽい空間で、かなり うめつくされている 空間じゃないか、と きづかせてくれる点でも、よいテキストだ(笑)。■大学受験生は、こういった ウラよみを できる空間として、希望に むねふくらませて 進学されることをいのる。これは、全然 皮肉なんかじゃない。
「我々演出家が、経験則に基づいて行っているキャスティングは、「多くの人がそういう風に見ている」という先入観に基づいている。何故そういう「先入観」を持つのか。それは「そういう人が多い」という「事実」に基づいているのである。
ここでいう「事実」は必ずしも現実生活でのことのみを指すのではない。映画やテレビでそういうキャスティングが行われているから、受け手はそういう傾向を常識、「事実」として学習していくのである。〔pp.24-5〕
■これは、意外に重要な指摘だ。要は、ドラマづくりのスタッフと、大衆は、「外見の印象=内面」という共同幻想を強化しあう、「一種の悪循環」をくりかえしているということを、意味している。■筆者は、「テレビや映画の演技術を通じて、現代人はノンバーバル・コミュニケーションを学習している」〔p.25〕というが、あさはかな偏見にもとづいた外見差別を、ただ無批判に助長する、一種の「イデオロギー装置」として、視覚劇が機能しているという、おそろしい構図が うきぼりになっているということだ。
■もちろん、中高年以降の現実の人物が、その内面や半生を「表情」「顔形」として 表現している、という経験則が デタラメというわけではない。 根性がイヤラシイ人物は、すでに「第一印象」だけでも、直感的に ピンとくるような 「人物情報」を 発している。■しかし、ホロコーストによる ユダヤ人虐殺や、関東大震災での、自警団による 朝鮮人ほか虐殺の事例をみても、そして、現在もつづく 北米でのアフリカ系市民への偏見・暴力をみても、「類型どおりの本質」という偏見にもとづく知的野蛮・暴力が、おびただしくくりかされてたきた。■詐欺師、たとえば、「かのじょ」になったフリをして、高額の商品をうりつけるとか、結婚詐欺など、すべて 「みため」に まどわされた、われわれの あさはかさを うまく ついた犯罪だろう。■「血液型うらない」のような、無責任な エセ科学でさえ、しばしば 有害な先入観をはびこらせているのに、「こういう かおの人物は、こういった性格」といった、より説得力がありそうにみえる、エセ・ノンバーバル・コミュニケーションを学習するという 大衆教化の 影響力は ぞっとさせられる。
■動物行動学とも通底する、感情の表出としての表情の問題は、たしかに マンガ家が直感的に つかみとったとおり、かなりの普遍性があるだろう〔pp.173-7〕。そして、こういった表情が、瞬間瞬間の 判断材料として、生得的/文化的に 最大限に活用されてきたことも、事実である。■そして、そういった「感情の表出としての表情」の統計的頻度が、ある人物の 固定化した「顔形」を形成するという経験則は、まったく デタラメではなかろう。■あるいは、女性らしさとか男性らしさなど、性ホルモンの作用によって、顔つきの類型をかたちづくる、諸特徴が分類可能なことも事実だ。眉のこさや まつげのながさ、鼻やあご、かたはば/くびすじなどの発達度など、コドモや動物も利用しているだろう、人物の属性の本質が、ないわけではない
■しかし、筆者がデズモンド・モリスの『マン・ウォッチング』を引用して、「表情」が「言語」につづいて、信用ならないという分析をなぞっているとおり〔pp.20-1〕、「表情」は、うけての偏見を利用して、女性が男性を、オトナが コドモを、詐欺師が被害者を ダマす、もっとも 典型的な「装置」だ。■「ダマす」行為が、全体のなかの ごく例外的な一部にすぎず、だからこそ、「ダマされる」のだという人間観が、はたして ただしいだろうか? そうではなかろう。経験のたりない人物、警戒心がたりない層を ねらいうちにして、「ウソつき」たちが 横行するのである。■もちろん、権力者〔上司やオトナや、オトコなど〕に、つぶされないように、防衛行動として充分正当化できる 「表情戦略」もある。しかし、ドラマやマンガなど、大衆娯楽の大半が、「いかにもキャラ」という視覚上の偏見を拡大再生産しているらしい構造は、わらって みすごせるものではなかろう。■いじわるな いいかたをするなら、「いかにも あやしげな人物が、実はいいひとで、もっとも意外な人物が真犯人だった」という、定番が基本にあるミステリー小説以外は、巨大な「イデオロギー装置」といっても、過言ではなかろう。
■このほかにも、文脈の共有化という次元で、地域差があるとか、表出の戦略も、それぞれであるとか、そこそこ興味ぶかい指摘はあるが、そのおおくは 常識的であり、むしろ、「俗流日本(文化)論」として批判的に検討する素材として、ツッコミ・ネタ満載だと、つけくわえておこう。■ネタ・バレにならないよう、具体的なことは、すべて割愛する(笑)。
■あと、外在的なツッコミをいれておくなら、本書が、全11話で構成されているのは、大学での半期=セメスターの 回数分に、ものすごく ちかい。この前後を、「ガイダンス/イントロ」、「まとめ/期末試験」などで、はさむと、ちょうど半年分の大学の授業に ぴったり 対応するような 分量・構成なんだよね(笑)。■いや、こういった 「いかにも」バナシをきかせる授業は、さぞや もりあがるし、人気があるだろう。マンガの図像とか、プリントや パワーポイントなどで 提示されたら、学生さんも きっと よろこぶし(笑)。■しかしだよ。最初にのべたとおり、本書のネタは、業界の常識か、エセ科学なのだ。こんなものを あてがわれて、「わかったつもり」になって、単位をとって卒業させられる学生さんは、「研修屋が教えることの55%はウソで、38%はハッタリで、真実は7%だけです(マッツァリーノの法則)」と、同質の環境におかれているとはいえまいか? ■もっとも、 「コミュニケーション」論とやらの 俗流版が、大学の文科系科目(おもに「一般教養」とか)には、おびただしく ひそんでいるような 予感もある(笑)。■その意味では、本書は、大学が、「55%はウソで、38%はハッタリ」っぽい空間で、かなり うめつくされている 空間じゃないか、と きづかせてくれる点でも、よいテキストだ(笑)。■大学受験生は、こういった ウラよみを できる空間として、希望に むねふくらませて 進学されることをいのる。これは、全然 皮肉なんかじゃない。

玄田先生は、現在の若者を取り巻く状況について、過剰に即戦力を求める傾向、過剰に長時間働く傾向、過剰に働くことに絶望する傾向といった、様々な働くことに関する「過剰」があることを論じます。このような働く「過剰」に対して、どのように対抗していけば良いのか、玄田先生は論じていきます。
私は『働く過剰』のポイントは、「働く若者を育成する自信」「希望」「ニート」の三つだと考えます。
第一に「働く若者を育成する自信」について玄田先生は、まず、「「失われた10年」は若者を育てるということに社会を失っていった10年だった」(5ページ)と述べます。しかし、現在成長している企業は、人材育成に手を抜いておらず、ベテラン・中堅・若手がバランス良く構成され、その人らしさが尊重されることが、強く安定した組織をつくることにつながると論じます。次に、働く希望・自信を失っている若者に対して、放っておかず、適切な関与をしていく必要があることを論じます。