■きのう、ひさしぶりにテレビをちょっとだけみた。■ホッキョクグマの人工飼育をとりあげたドキュメンタリーだった。舞台は「愛媛県立とべ動物園」。■動物園の『飼育日誌ホッキョクグマ「ピース」成長の様子』には、「1999年12月2日、とべ動物園でホッキョクグマの赤ちゃんが生まれました。国内でのホッキョクグマの出生は、それまでに122頭報告されていましたが、半年以上育ったのはわずかに16頭と極めて生存率が低く、また、人工哺育の成功例は全くありませんでした。今回、当園で出生した2頭のうち、1頭は発見時には既に母親にかみきずよる咬傷を負っており、救命処置を施しましたが、2時間後に死亡し、残る1頭を人工哺育に切り替えた結果、現在でも順調に成長しています」とある。■6歳をむかえた「ピース」というなまえの、ホッキョクグマ〔普通は「シロクマ」とよばれているけど〕は、体長2メートル超、体重300キロ弱と、琴欧州を だいぶ ほねぶと〔体重は2倍だけど〕にしたような巨体で、かわいいのは、もはや かおつきだけだったが、いわゆる コグマ時代の映像は、モジどおり 「ぬいぐるみ」みたい、という性格のものだった。
■イルカショーのときとは、また別の感情がかきたてられた。
■世界で人工飼育にほとんど成功していないように、ほとんど 飼育データが蓄積していない。最初のころは、母乳がわりに、なにをのませるのかから、試行錯誤だったようだ。なにしろ、乳牛とかじゃないんだから、授乳期にあたる シロクマの 母乳を採取するなんてことはできないわけだ。最初は、アザラシだったかの母乳をあたえたが、脂肪分がおおすぎて 下痢させてしまうとか、それはタイヘンだったようだ。
■コグマのころから、専任で担当してきた飼育係の男性
〔といっても、もちろんシロクマ専属ではなくて、ほかの大型獣も並行して担当しているけど〕は、4か月弱、夜間や休日は自宅につれかえって、自分のコドモとおなじように〔実際、並行して〕育児をこころみた。■これだけでもすごいが、3か月めにはいるころは、15キロぐらいまで 成長して〔最初は680グラムとかで、未熟児っぽかったのに〕、座椅子のぬのをくいちぎるとか、野獣としての はげしさを発揮していた。■飼育係の男性ご本人は、「苦労とはいいたくない」とおっしゃっていたが、客観的には、すごい献身ぶりというほかない。私生活が存在しないって感じだったはず。
■それはともかく、飼育係の男性は、職歴17年ということだから、理学部や農学部獣医学科などの経歴をへないで高卒採用なのだとおもう。地域の動物園だから、そういった経歴が可能だったのだろう。■この事実は、けっこう意味がおもたい。要は、動物学や獣医学の専門家が世界中で失敗してきた人工飼育を、体系的な専門知識とは無縁な人物が、支援体制ありとはいえ、事実上独力でなしとげてしまったということだ。■「学術調査など、最初期は みな おなじようなもの」といった 解釈ですむのか?

■それと、動物園や水族館をみていつも感じることだが、希少生物の保護・研究といった理由をかかげて、動物をかこいこむことの問題を、やっぱり念頭からけせないよね。■岸田秀さんが、「なぜヒトは動物園をつくったか」〔『続ものぐさ精神分析』〕などで、指摘ずみのとおり、動物園ってのは、帝国主義や国民国家成立とともに制度化された施設で、動物愛護なんかじゃない。近代国家がかかえこんだ、集団神経症的な「かこいこみ=実質的軟禁」だよね。「希少生物の保護・研究といった理由」は、あとからの こじつけ=合理化/正当化にすぎないとおもう。■ホッキョクグマが絶滅危惧種なのか どうかはしらないが、母親が育児放棄してしまった「ピース」の ばあいはともかく、人工飼育しなければならない理由なんてないだろう。いや、動物園にかこいこんだからこそ、「育児放棄」がうまれたとうたがうほうが自然だし、「マッチポンプ」って、感じがぬぐえない。■アメリカやアフリカなどの「自然公園」はともかく、動物園/水族館はもちろん、サファリパークでさえも、動物収容所という性格は、なんらかわらないとおもう。■先日とりあげた「イルカ・ショー」の違和感も、こういった背景ぬきには、説明がつかない。

■そして、ヒトの エサにしてしまう食用動物の肥育や、動物実験用の飼育はともかくとして、かわいがる、ないしは、ヒトと共生するというタテマエで利用してきた 動物などを、どう位置づけるか?
■基本的には、機能面から、?「生産物(乳、肉、卵、毛、皮、毛皮、労働力など)を人が利用するために馴致・飼育している動物」としての、家畜。?「愛玩を目的として日常生活で飼育される動物」としての ペット、?「生活して行く上での伴侶などとする、より密接な関係を人間と持っている動物」としての、コンパニオン・アニマル などに、分類されるようだが、?動物園や水族館などで、飼育・公開される動物は、よびながないようだ。
■分類はともかく、これらの ほとんどが、ヒトという存在の 自己中心的な 欲望、つまりは、種としての生得的な欲求とは全然別次元な 論理で、利用/搾取されてきたという、本質が通底しているといえるだろう。■沼正三『家畜人ヤプー』は、石ノ森章太郎などによってマンガ化されたりもした、SF小説であるが、そこでは、「日本人」の子孫とおもわれるアジア系の人間が、ヨーロッパ系の集団に家畜として、徹底的に「品種改良」されるという、優生主義的なおぞましい未来社会がえがかれる。■しかし、これは、手塚作品など、さまざまなSF作家がとりあげてきたとおり、人間が家畜化されるという、虚をつく設定によって、身分制社会など人間社会のかなり普遍的な現象、資本制経済など かなり特殊な現象であっても 猛威をふるっている体制に対して、批判的視点をあたえるものであると同時に、人間中心主義をも 逆転の発想で再検討をせまるものだ。
■このような 観点で、ヒトをとりまく動物のあつかわれかた、位置づけを再検討すると、問題は、かなり複雑だ。■ペットをうしなうことで、深刻な ウツ状態におちいるなど、家族に準ずる喪失体験は「ペット・ロス」として、真剣にとりあげるべき話題に浮上した。■「コンパニオン・アニマル」の典型とおもわれる、盲導犬は、ほとんどが美談でかたられる領域だが、盲導犬そのものの 心身の疲労は、みるからに いたいたしい。身分制社会の臣下の自己犠牲を投影して、イヌという種の生得的性格・能力など、諸資質を徹底的に搾取する人類史の一種といったら、いいすぎだろうか?地雷を発見させるためのイヌを退役させてロボットにかえるといった改善が必要ではないか?
■このようにかんがえてくると、動物園や水族館で公開することで、動物学的な研究の経費がかせげるという、いわゆる「ひとよせパンダ」的な利用がなされること、そして さきにのべたとおり、調査目的で 希少種が「保護」「飼育」される営為さえも、問題なしとは、いえなないだろう。■実験の犠牲にされる動物の権利が重視されるなら、福祉用の動物利用も再検討すべきだし、大量にすてられ、結局は のたれじに、ないし ころされる動物の権利こそ、最初に問題化されなければならないし、「外来種」などとして問題となるのも、ペットの「野生化」であることを、きもに銘ずるべきだろう。