■普通、こういったばでは、「ことしの私的10大事件」といった備忘録的な 文章をかくものなのかもしれない。■しかし、それでは マスメディアの年末特集の 芸のないマネになりかねない。
■幸か不幸か、当 日記は、時評としての性格だけでなく、書評群としても それなりの読者層はいるとかんがえられるので、おもいきって書評的総括とすることにした。■ただ この総括は、この日記で1年弱にわたって とりあげた本にかぎって、再度紹介するという かたちにした。というのも、当 日記は、「カテゴリー」のなかの 「書評」という分類項目には、たった8件しかなく、そこで複数の本を紹介していても、たかだか十数冊にすぎない。■一方で、「批評」という分類項目はもちろん、ほぼ あらゆる分類項目に、数百の本/論文などが とりあげられている。むしろ なにも 文献に依拠しない 随想や評論は、少数とさえいえる。■同時に、当 日記には、検索機能がついておらず、各分類に 蓄積された 文献紹介の ありかが、全然みとおせない。■したがって、この 総括は、はなはだ不充分ながらも、案内図的な性格も もたせることにした。
■無造作に、「ことしの20冊」をえらんでいくと、ある時期から日記に定番化した Amazon の バナーで、「固定客」として蓄積してきた、一連のオキナワ関係の書物がある。■これら6冊は いずれも、衝撃力は もちろん、記憶にのこる力作であり、これをふくめてしまうと、20冊の3わりもしめてしまう。■したがって、これは あえて はずして、当 日記でとりあげた文章を列挙するだけにとどめる。
吉田健正『戦争はペテンだ』
高文研=編『沖縄は基地を拒絶する』
森口豁『だれも沖縄を知らない』
目取真俊 『沖縄「戦後」ゼロ年』
黒澤亜里子編『沖国大がアメリカに占領された日』
野村浩也『無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人』
■いまは、バナーから はずれていたが、しばらく 表紙をかざっていたものとして、
力作 藤澤健一『沖縄/教育権力の現代史』、そして バナーには はりつけなかったが
衝撃的な 『人類館―封印された扉』
も、ぬかすことはできまい。
■以上は、力作として、ことしとりあげた本、上位20点とは、別個のあつかいとする。


■ことし いまだに衝撃がぬぐえないのは、JR西日本福知山線の脱線事故。その遠因ともいうべき、神経症的に芸術的な鉄道の運行システムを 歴史的にデッサンしたのが、三戸祐子『定刻発車―日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか? 』。■また、ことし東海地域では、フェロシルトという あらたな産廃公害が浮上したが、政官財のユチャクはともかく、アウトローの暗躍に政治経済学的、法社会学的な 普遍的構造があると指摘したのは、石渡正佳『産廃ビジネスの経営学』。■国民保護法といった、ネコをかぶったファシズム法制が成立したことし、そとからの軍事的脅威などより、真剣な対策が急務であるのは、巨大震災。東海地域などが依存する、地震「予知」の非科学性、原発震災などのリスクを指摘した島村英紀『公認「地震予知」を疑う』。■そして、新自由主義のもと、経済格差が健康格差として、巨大なリスク要因となりそうな問題性を、社会疫学のたちばから警告を発するイチロー・カワチ/ブルース・P. ケネディ 『不平等が健康を損なう』。■健康をむしばむ 最大の要因は、労働環境である。はたらきすぎが、どういった状況をもたらすか、労働負荷のムリ/ムラが、いかなる構造をもっているのか批判する森岡孝二『働きすぎの時代』。■個人的な自衛策として、なかなか含蓄のある「減速主義」を提示してくれるのは、小柳晴生『大人が立ちどまらなければ』。■しかし、こういった 「ファスト・ライフ」の加速化を かんがえるうえでは、少々以前の本だが、黒崎政男『デジタルを哲学する 時代のテンポに翻弄される〈私〉』が、はずせない。

■労働負荷のムリ/ムラが もっとも ロコツに 徹底している収奪領域は、アルバイト/パート/派遣。■これらの 階級的な不公正を はげしく 痛撃するのは、平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』と、杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』。■また、まったく ふざけた税制を 根底から再検討するためには、基礎的だけど暉峻淑子『格差社会をこえて』が、便利。「ひろく、うすい税負担」論に まるめこまて、消費税への依存を、これ以上ふやしてはならない。■そして、こういった格差拡大に対して、微温的ではあっても、既存の学歴社会の実態を直視しない変革プランは無力だし、不利なたちばにある被差別集団へのリスク軽減にならない。その意味では、教育格差に まじめにとりくむ教育学者の 実践理論が有効なのか、まやかしなのか、そのヘンを つめなければならない。議論の土台となる必読書は、鍋島祥郎『効果のある学校』と、おなじ著者のシリーズ。
■階層格差の問題については、三浦展『下流社会』をことのよしあしは別にして、とりあげるべきだろうが、『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』『フリーターにとって「自由」とは何か』のまえでは、いろあせる。社会学者や経済学者の検証すべき魅力的な仮説群としては、意義がちいさくないにしてもね。■しかし、おなじ三浦氏の『ファスト風土化する日本―郊外化とその病理』は、地域格差の問題性を、かなりするどく えぐっているので、一読の価値あり。■ただし、少年犯罪の発生うんぬんとか、統計上のトンデモばなし=強引な結論が、満載なので、くれぐれも注意が必要(笑)。■経済的中間層の問題は、平井/杉田 両氏の力作で 概観をつかむとして、そこに ジェンダーの視点をいれるなら、酒井順子 『負け犬の遠吠え』高田理惠子『グロテスクな教養』が、おすすめ。ただし、双方とも、三浦氏と同様、中間層だけの おはなし。

■ところで、国外からの脅威うよりも、国内のリスク軽減こそ急務とはいえ、沖縄をくるしめつづける安保体制といい、リスク要因は外部=北米から もたらされていることは、事実。なにも、北米原産のリスクは「輸入牛肉」や「遺伝子くみかえ農産物」だけではない。■戦後日本を一貫して 文化的植民地として、マクドナルド化への 地ならしをしてきた某国の てぐちは、鈴木猛夫『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』。■そして、食糧戦略のみならず、政治経済的な準植民地状況の象徴的な やりとりについては、「年次改革要望書」であり、その深刻な意義を指摘した関岡英之『拒否できない日本』は、必読書。

■戦後60年をふりかえるためには、琉球列島だけでなく、被爆や無差別爆撃や、特攻など、住民/兵士の悲劇はもちろん、アジアにとっての第二次大戦の意義が再検討されねばならない。国内外の犠牲者を、「犬死」にしないためには、どうしてアジア太平洋戦争がひきおこされたのか、なぜ 沖縄戦や特攻や無差別爆撃といった 悲劇がひきおこされたのか、いかなる「てちがい」で、アジア住民の大量飢餓死がもたらされたのかが、あきらかにされねばならない。■そのためには、保坂正康『あの戦争は何だったのか大人のための歴史教科書』は、必読書だろう。あたらしいことなど かかれていない、といた酷評もあるようだが、大東亜共栄圏構想という「大義」自体、開戦理由とは無関係だったとか、特攻を「外道」と自覚しつつ決断したとか、軍部や関係者の無責任ぶりが、公教育でとりあげられたことなどないはずだ。

■さて、ことしも 必要以上に美化された偽善的聖地として、甲子園はわきあがったが、スポーツ・クラブにつきものと うわさされてきた 暴力が、またスキャンダルとして ふきだした。■しかし、スポーツに付随する暴力ではなく、暴力の制度化というか、暴力そのものとしてのスポーツ/武道を、するどくえぐった作品としては、高岡英夫『光と闇 現代武道の言語・記号論序説』。少々ふるいが、不滅の秀作だ。

■また、ことしも 少年犯罪が深刻ぶって 論じられたが、宮崎 学/大谷昭宏『殺人率?日本人は殺人ができない!?』などが あきらかにするのは、1980年代以降、四半世紀にわたる、日本人男性の「おとなしさ」。殺人やレイプなどの凶悪犯罪の発生率のひくさだった。それは、とりわけ、「普遍的に」危険なはずの 20歳前後の わかい男性に、もっともあてはまる、戦後日本の特異性だった。■こういった巨視的/歴史的な変動を直視せずに、うらんかなで、無責任に不安をあおるメディアと、それを放置し、管理社会強化に 利用したいらしい当局の 策動にこそ、監視と批判をあびせねば。

■日本の哲学者(森岡正博さんや立岩真也さんらなどを例外として)の 不徹底さと対照的に、ヨーロッパの知的先鋭さ、教育界の健全さをうかがわせるのは、オンフレ『〈反〉哲学教科書』。■『ソフィー…』といった、つまらん哲学入門もあったが、これはすごかった。もとリセ教員がかき、実際にリセでつかわれてきたという実態に、彼我の差を痛感する。


【特別わく】
立岩真也 『ALS 不動の身体と息する機械』
■本書は、地味である。しかし、人間存在とはなにか、という根源的な問題をかんがえるうえでは、巨大な1冊。ぶあついし、情報量もすごいが、おなじ立岩さんの『私的所有論』や、森岡正博さんの『無痛文明論』などとならんで不滅の名作、偉業というしかない作品。■沖縄シリーズと別の意味で、特別わくとした。


■このようにして ふりかえると、不完全ではあるが、ハラナの一年間の コヤシの全体像が、ぼんやりと うかびあがる。■ニホンゴ論をはじめとした 言語論や、「日本文化論」論の 本が紹介できていないなぁ、という感想はのこるが、それだと「ベスト20」では、おさまらなくなる。
■いずれにせよ、いろいろ かいたなぁという感慨はある。■少数とはいえ、反応をおよせくださった一部の読者は もちろんのこと、1週間に1度程度でも、おこしいただいた 「ご常連」のみなさまに、あつく御礼もうしあげる。みなさま、よいおとしを。■そして、来年こそ、本当に よいとしが きますように。無神論者の ハラナも、年に1度ぐらいは、いのりたくなる。