■「ムダ」をきらう 日本列島の伝統的価値観をしめる代表とされる表現は「もったいない」。ハラナ自身、戦中派ジュニア世代に属するので、この「もったいない」という 意識、つねに ついてまわる。■てにいれた本や、うけとったメールの大半を すてきれないので、「すてる技術」系は、ほとんど やくだたない。それこそ「ムダ」だ(笑)

■それはともかく、「もったいない」とされる 対象には、金銭/時間/人材/資源などがあるが、当然のことながら、いずれの文脈でも 希少性が前提となっている。 
■たとえば「湯水のごとく……」という表現はあるが、「水争い」とか、「上水道」完備による 女性たちの家事負担の激減、鴎外のエッセイなどにのこる節水理念をみても、水が希少性と無関係な空間は、ごくかぎられていたとかんがえられる。■21世紀においてさえ、世界中では、水は希少材というほかない(「ことしの20冊:2005年」コメント欄参照)。パキスタン/アフガニスタン国境付近で医療活動をつづけている ペシャワール会が、「水」確保を活動の中核的部分にすえているのも、「湯水」を ためらうことなく つかえる空間はかぎられていることの象徴的な事例だろう。■近年では、「水と安全はタダだと タカをくくっている、平和ボケ日本人」といった酷評=右派系のリスク論的「あおり」があるが、実際、生活排水の処理がうまくいっていない地域では、塩素消毒をきつめにしても、異臭をけせないといった状況もでて、「ミネラル・ウォーター」を かってのむ層が急増した。■「木曽三河」ちかくにくらす ハラナは、水道水で充分とおもうので、「みずをかう」のは、災害用備蓄分以外、まさに「ムダ」にしかおもえないが、富裕層が警備会社をふくめて、「安全」を「購入」するようになったことは、「水と安全」が「希少材」であることをしめしているのだろう。上水道施設の維持・管理にかたむけられる税金はもちろんのこと、侵略戦争を否定したはずの戦後日本が、膨大な「防衛費」は、軍事用施設装備以外に、官僚組織の維持費だけでも、「日本最大の公務員組織であり、防衛庁職員への給与は、国家公務員給与の4割を占める」という現実は、それを象徴しているといえよう。■ハラナには、上水道よりも、下水処理設備の充実がたいせつにおもえるし、広義の防衛費は、「ムダ」に感じるが。■ただ、世界中の大半で、「水と安全」が、希少材であるという現実は否定できないし、むしろ「普遍的」な現象というのも、社会学的事実といえるだろう。■もちろん、1980年代以降の日本の男性が、わかもの世代もふくめて、世界の平均水準にくらべて暴力性が非常にひくく、たとえば凶悪犯罪が極端に すくないという、統計調査をみれば、「水と安全はタダだ」という認識が 「世界の非常識」だなという、おどしに屈するのは、おかしいだろう*。
* もちろん、男女間、コドモへの暴力が、伏在したままで、周囲の関心も 充分とはいえず、大量に「暗数」が ひそんでいることは、わすれるべきでないが。

■さて、冒頭にものべたが、「日本人は、『もったいない』という、希少性に対する倫理がつよく、ものごとをたいせつにしてきた」「『ありがたい』という表現が、『ありがとう』といった、あいさつの定型となっているのも、日本人のこころの あらわれ」といった、日本人論は、かずかぎりない。外国人から、「日本人は、『もったいない』という、伝統的な すぐれた価値観をわすれているのではないか?」と、説教される始末である(笑)
■しかし、実際には、こういった日本人論日本文化論は、ありがちな 本質化=一種のステレオタイプであり、日本人の自己陶酔ではないかと、おもわれる。■たとえば、いきがった 「せのび」だとおもわれるが、「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ 」といった美学は、大火事などによる 被災経験などを基盤とした、職人の日雇い労働者文化の反映だろう。■そして、日本の 近現代は、すくなくとも 首都圏に かぎれば、百年以上にわたる築年数で、3?4世代がくらしつづける住宅や、200?300年単位でつかいつづけようという公共建築物は、ないといってよかろう。基本的に数十年で「スクラップ・アンド・ビルド」であって、欧米のように不動産物件が 建造物こみで、うりにでる市場はおおきくないといえる。基本は「さら地」にして、うるというという思想が濃厚で、建造物をひきついで、改装・改築しながら つかいつづけようといった 姿勢に、かけるのだ。■それは、「欧米は石造り、日本は木造」といった ありがちな文化論では、説明できない。欧米では、木造建築物が、修繕されながら売買されるし、ていれによって 購入価格よりも たかくうる もちぬしさえも、いるからだ。■投機的な対象としてバブル経済的に、中古物件がたかくなるといった例外をのぞき、日本のばあいは、新築直後を頂点として、下降する一方なのが、建造物の資産価値なのだ。
■自家用車をふくめた自動車の売却/廃車までの期間のみじかさも 通底する。■日本国内で売却/廃車にまわされた自家用車やバス/トラックが、世界中でさらに10?20年と、のりつづけられる。日本の「中古車」が、特別なブランドとして、世界で重宝されているという事実は、おもたい。■要は、「まだまだ充分のれるクルマが、簡単にてばなされる」ということなのだ。

■このようにみてくると、「日本人は、もったいないを基本にいきてきた」「最近は、モノを粗末にあつかうようになった」といった論調は、俗論としかおもえない。■ある意味、高度成長期以降の日本人の大半は、生産力が過剰でなかった戦前、極端な欠乏状態にあった戦中・戦争直後をいきた世代以外、「もったいない」といった理念とは、異質な生活実態にあった。いや「戦中・戦争直後」世代自身も、高度経済成長期以降は、本人たちが主観的に「もったいない教」の信徒のつもりでも、生活感覚は 相当あたらしいものずき、消費実態も かなり軽薄だったという印象がぬぐえない。■1950年代の全盛期アメリカの幻影を テレビドラマ/ハリウッド映画などで注入された、経済史至上主義。「みぎかたあがり」を前提にした拡大志向。「発展段階論」をまにうけた日本人の大半は、中ソなど社会主義を精神的宗主国にしていても、消費者意識の実態としては、10年おくれの対米追従者の集合体だった。■だから、ひとびとの大半は、経済力さえゆるさないばあい以外、使用ずみの住宅や乗用車をいやがったし、「共用」からの「卒業」を 「出世」のあかしと とらえた。「中古」や「賃貸」は、まずしさの象徴だった。
■つまり、業者ではない、一市民がおこなっているらしい 膨大な違法投棄も、一部のふこころえものの しわざなのではなく、戦後日本の 象徴的な縮図なのだ。■まだ つかえる家電製品や家財道具が、大量におしげもなくすてられるのは、「かいかえ」志向の日本人の行動原理の当然の帰結だったし、ひっこし時の 輸送にみあわない家財の大量処分などにも、一貫していた。■先日、とりあげたペットも そうだ。流行にあおられて かったあと、てにおえなくなるなどの あさぢえは もちろん、あきて 山野や路上に放置する、「もと かいぬし」は、単に薄情モノと、非難すればすむものではなく、軽薄な日本人を代表する層なのだ。■もちろん、外食産業や食堂/給食、そして家庭からも 大量に廃棄される残飯は、農業の軽視と 農業の工業化/化学化の 必然的産物だった。日本人の大半は 「たべすぎ」であり、すくなくとも やすくなった食材を ムダづかいし、大量廃棄するようになった。冷蔵庫内の死蔵もふくめて。
■これらすべては、「経済大国」となったあとの、日本列島の常態だし、海外から ひたすら消費物資を輸入し、廃棄物を「輸出」するという、「資源の国際収支」としてみても、完全な「入超」で、日本列島はおもたくなっていると皮肉をいわれるゆえんだ。■巨視的な市場原理をみたときに、日本列島のなかで、「もったいない」が支配的だったのは、業界間の資源流通ぐらいだったろう。しかし、「カネになるモノは、すべて回収・再利用する」という業界人のうごきは、経済倫理ゆえではなくて、産業構造/市場原理が要請した、利潤極大化運動の一部にすぎなかった。だから、最下層への しわよせさえも不可能になれば、当然 うちすてられ、みるも無残な「あとは、野となれ、山となれ」の惨状だった。■「カネになるモノは、すべて回収・再利用する」という業界人の論理は、うらがえせば、「カネになりそうにないモノは、すべて廃棄する/ごまかす」ということであり、産廃の不法投棄の 源流は、「地域生活の維持・保守のために必要不可欠な環境倫理とはなにか?」という意識が、完全に ふきとんだ、「あとは、野となれ、山となれ」式行動様式にある。当局の認識・態度のあまさや、価格の二重構造があれば、すぐさま はびこる 潜在構造だったのだ。■で、実際に、自分たちで処理しきれない 廃棄物を後生大事に収集しつづければ、「ゴミおばさん」「ゴミ御殿」の誕生だったわけだ。■要は、大量の残飯同様、処理しきれない商品を生産/販売/消費するという、愚者の王国こそ、高度成長期以降の日本列島の現実だったのだ。
■『パパラギ』の かたりて、ツイアビなら、「パパラギは、際限なくモノをほしがる。いれるところが みつからないのに、たくさん てにいれる。つかいきれないのに、まだ かかえこむ。たべきれないぐらいの食材をてにいれては、はらに つめこめないぐらいまで 料理をつくって、ひたすら つめこみ、たくさん のこす。のこりを、動物たちに すべて たべさせるなら、マシな方だ。そして、いえの なかで かわれている動物たちは、うえたひとびとが よろこんでたべるだろう、粗末とはいいがたい料理だ。
 パパラギの まわりは、ムダなもの、永遠につかいきれないもので、うもれてしまう。パパラギの一生とは、ありすぎるムダを、どうしたらいいのか 途方にくれる時間だ
」と、皮肉をいうだろう。■実際そうだ。「もったいないから、すてられない」も、全然なくはないが、基本は「もっともっと ほしい」の蓄積の産物にすぎない。

■トヨタやホンダ、松下やSONYなど、ものづくりをモットーとした 新興メーカーの企業倫理が、えらくもちあがられ、とりわけ、その意欲的な技術革新へのとりくみが、賞賛されてきた。■しかし、技術革新というのは、「光」ばかりでなく「影」もともなっている。?「技術革新」のうちで、真に生活を改善する要素は、ごくマレで、ほとんどは、より大量に消費させるための 新製品開発であり、しかも その大半が、まだつかえる製品を陳腐化し、すてさせ、のりかえさせる手段にすぎなかった。■?「技術革新」のためには、ほとんどが商品化されない、膨大な失敗作が誕生した。食品メーカーや調理器具メーカーの試作品以外は、基本的に廃棄されるしかない シロモノだった。おびただしいかずの 零細企業の失敗作から、大企業の研究途上の失敗まで、その総計は、膨大なもののはずだ。■?なかには、軍事技術のうちの 殺傷用兵器のように、どうみても民生品に技術転用できない性格のもののすくなくない。これらの試作段階からの廃棄物や、配備期間をおえての廃棄にいたるまで、これまた膨大なゴミが「生産/廃棄」がくりかえされたにちがいない。

■かくして、戦後日本は世界でも有数の繁栄をしめしたといわれてきたが、こと モノの生産/消費/廃棄という側面でみるかぎり、「膨大な金銭/時間/人材/資源上のムダを、日々くりかえし、おそらく 世界の諸資源の相当部分を浪費した」といえるような気がする。■特に経済規模が世界有数の段階に達した1970年代以降は、その影響力は はかりしれないとおもわれる。なぜなら、韓国・台湾・シンガポールなどはもちろん、近年の中国も、戦後の日本型経済発展モデルを無視したはずがないからだ。■戦前の軍事・警察の諸制度が、東アジアに深刻な影響を戦後もおよぼしたように、戦後日本型の生産/消費/廃棄システムは、よくもわるくも、みな東アジア各国に甚大な刻印をきざんだであろう。かれらが、それを完全に「卒業」できるのは、おそらく数十年後だ。■日本の経済規模は、早晩おいこされるが、日本型経済システムの改良版は まだ数十年は「耐用年数」を たもちつづけ、おそるべき環境負荷をおよぼすであろう。■とりわけ、十数億の中国の人口は、潜在的に破壊的な作用をおよぼしかねない。そして、日本は、ヨーロッパ以上に、中国に「やめとけ」とは、くちが まがっても いえない たちばにある。
■日本が、工業先進国・技術立国といいはり、自負をいだくなら、環境負荷を最小限にへらした生産・消費・廃棄システムを実践したうえで、提案をしなければならないし、やたらに 美化だけ ひとりあるきした 「もったいない」思想を 具体的に実践しなければ、わらいものだ。
【つづく】