■以前 三輪裕範『四○歳からの勉強法』〔ちくま新書〕を紹介したときに、三輪さんが推薦した本に同意しておいたが、その続編がでた。■大城信哉 (著), 小野功生(監修)『図解雑学 ポスト構造主義』〔なつめ社〕だ。期待にたがわぬ キレあじ。たとえば、高校の倫理/現代社会を担当する先生方にとっては、前作『図解雑学 構造主義』とあわせて 必携なのではないか?
* 小阪修平『図解雑学 現代思想』や、貫 成人『図解雑学 哲学』もわるくないとおもうが。
■オンフレ『〈反〉哲学教科書』は、日本の高校現場にもちこむのは、ヤバすぎかもしれないが、本書は、充分 日本の先生方/生徒さんたちにも 消化不良をおこさないだけの マイルドさをたもっている。ま、じっくり よみこめば、実は ヤバいんだけど(笑)。
* 小阪修平『図解雑学 現代思想』や、貫 成人『図解雑学 哲学』もわるくないとおもうが。
■オンフレ『〈反〉哲学教科書』は、日本の高校現場にもちこむのは、ヤバすぎかもしれないが、本書は、充分 日本の先生方/生徒さんたちにも 消化不良をおこさないだけの マイルドさをたもっている。ま、じっくり よみこめば、実は ヤバいんだけど(笑)。
■本書が、前作とかぶるかたちで スケッチしている 「物語」とは、?近代思想/社会(進歩主義/理性信仰/西欧中心主義/人間中心主義)への批判として、構造主義など現代思想が展開された。?しかし、構造主義を代表とする現代思想は 自己矛盾や限界をかかえていたので、自己否定的に 諸派分裂状況をきたした。?すくなくとも俗流化した現代思想が 軽視した 歴史変動や微視的な政治性に 再度焦点をあてる 諸思潮として、「ポスト構造主義」というべき 思想家の一群がうまれた。?しかし、ポスト構造主義は、批判対象としての構造主義はもちろん、構造主義の批判対象であったはずの近代思想と、同一の課題にとりくんでいるともいえる。?その意味では、ポスト構造主義とは 近代の否定ではなくて、超近代思想という 運動総体(「未完の近代」への半永久運動)とみなすことが可能である。?これらの経緯と構造ゆえに、ポスト構造主義は、近代思想と前近代思想の双方向から 攻撃にさらされている。?しかし、ポスト構造主義は、それに応ずるかたちで、「未完の近代」への半永久運動をつづけている。……と、いったぐあいである。
■このように まとめてもらうと、毎日かいている この日記の基本的視座というのは、構造主義と その批判的のりこえ運動としての ポスト構造主義との、オンパレードだ(笑)。
■たとえば、?近代社会は 自然の搾取を徹底化した異常な状況にあり、環境破壊や 自然としての身体をいためつける構造を 疑問視する視点がよわかった。それらの 根源には、西欧のブルジョアジーの男性を基準とした、ゆがんだ人間中心主義があった。■?近代社会は、個人の尊厳と主体性/自由をうたいあげたはずだが、実際には、うえにあげたような エセ人間主義=イデオロギーに 無自覚にとらわれた大衆(自称エリートたちも ふくめて)が 大量につくりあげられただけだった。■?その際、大衆社会が自己正当化をおこなうためにもちだす論理とは、「由緒ある歴史的伝統」であるとか、「生物学的本質」だとかいった、もっともらしげな理由が ほとんどだったが、実際には、近代社会にはいってから「制度化」された「発明品」であることが大半だった(性別役割分業/国民国家/官僚制/……)。■?近現代が、前近代とちがった 理性的/合理的空間であるというのは、一面的な総括にすぎず、神話的思考が そこかしこに はびこっているし、ナチズムや ABC兵器のように、一面的な「合理主義」による野蛮、マッカーシズムや個人崇拝など 集団ヒステリーとしかいいようがない 事例には ことかかない。■?学問や技術開発が 人類全体を幸福にみちびくというのは、宗教的信念にほかならず、ナチズムや ABC兵器のような 醜悪な「作品」、水俣病ほか 完全な「失敗作」もすくなくないし、環境保全や安全対策などまで充分にみたした技術体系は例外的である。おおかたは、地域的/階級・階層的な格差/搾取関係を前提にした、資源の浪費/局在と大量廃棄が基本でありつづけている。■?ムダを極小化し、効用を極大化することで「最大多数の最大幸福」を実現するはずの 市場原理/科学技術は、軍需/民需にかかわらず 巨大な浪費システムであり、資本流通がとどこおらないような 景気維持のためには、浪費は前提でさえある。それが自然循環や諸個人の生活リズムの適正水準と衝突しようが、基本的には頓着されない。■?ジャーナリズムはもちろん、文学/映画/マンガ/学問/スポーツ/各種パフォーマンスなど 諸表現が、真空状態のもとで 非政治的に生産/流通/消費されるはずがないし、広義の巨視的/微視的政治力学が かならず作用する。作用しないような「政治的真空」など、現代社会に存在しない。それは、モノ/人材の生産/流通/消費についても、同様だ。■?ヒトの認識は、ひろい意味での「言語」のよって構築されているのであって、自然現象や社会現象に 言語が対応するかたちで「なづけ=分割」しているのではない。むしろ逆に、各言語が、自然/社会の 意味のある分割を成立させている。つまり、いずれかの言語体系によらなければ、自然/社会に 有意義な分割をくだせず、思考も不可能になる。■?社会分業は、スポーツ選手を天性/適性でリクルートするような 厳密に能力主義的な適材適所のシステムでなどなく、事実上の世襲制や偶然など、かなりいい加減にリクルートしつつ、「シナリオ」にそった「配役」どおりの人材をそだてることに「成功」している。その意味では、現代人は、前近代同様、「配役」どおりに演じる「役者」と同質だ。……
■これらの 現代文明論は、すべて 本書の ポスト構造主義的 現代批判から直接/間接的に みちびける「結論」群である〔もちろん、本書は、もっとずっとおおくの重要な論点を提示しているが〕。■そして、これら現代文明批判を おこなっている 両者が、まさに「いま・ここ」を問題化し、けっして 自分を「局外者=傍観者」あつかいして、冷笑的に かたっているのではなく、自己批判をかかえこんでいることを共有化していることはもちろん、近代主義や前近代主義の双方から批判・非難をあびて、それに反応しようとしている点も共通している。■まるで、ふたごが ウェブ版と 出版市場版とで、分業しているようだ(笑)。決定的なちがいといえば、大城さんという筆者の ものすごい博識と、ハラナの「一点突破、全面展開」的姿勢の ちがい(爆)。
■きのう おととい かなり批判的に検討した「ミーム」概念に ほぼかぶるような議論も、本書では 論じられている。■たとえば、「近代人は自分が考えていると思っているだけだ」という節〔p.50〕では、「思考とは何らかの意味を持つ記号の運動にほかなりませんが、記号は自らの法則を持ち、自力で動いています。しかし、私たちは、それを自分が考えているのだと誤解しているのです。このような構造主義の考えは、まるで、ロボットが自分はロボットだと気づいたときのような衝撃を、西洋の知識人に与えることになりました」。■ここでいう「記号」などは、ミームと、ほぼ同義といってさしつかえない。■また、「主体と言語表現:ヒトは自由に語っているか」という節〔p.88〕も同様。「…ヒトは、自分の意見を語っているつもりでも、実際には時代の習慣を繰り返しているにすぎません。フーコーは言葉使いの些細な癖などの違いに注目することで、時代ごとの特徴を見抜き、自由に考えて語るという人間観が神話にすぎないことをも見破っていったのでした」。■ここでいう「時代の習慣」も、ミームとほぼ同義だろう。■ハラナは、「ミーム」の実体視には反対だが、機能面での「記号」「時代の習慣」が、われわれの思考を支配している、というか、思考の素材であって、全然自由でなどないこと、それら情報が大脳を媒介=記憶=継承装置として「利用」されているという擬人化が、かなり有効であることは、否定しない。
■さて、いつもどおりだが、本書の「タマに キズ」を 2点 あげておく。
■?本文イラストの水準。担当の Oさんの 技術には なにも問題ない。いかにも男性イラストレターだなって感じはあっても、ハラナ自身は むしろ このみの部類。■しかし、いかんせん 現代思想を かたるうえでの 解説部分の水準に、イラストが対応しきれていない。
■いや、本書の読者層の大多数をしめるだろう、「はやわかりしたい」という ひとびとにとっては、O氏のイラストは最適といえる。その意味では、実に編集方針を的確にくんだ職人わざともいえるんだが、こと徹底的な脱常識をこころみる現代思想にとって、いかにも常識的なイメージ図解は、筆者たちの意図をうらぎる危険性がすくなくないとおもう。■たとえば、第1部とびらの ウラ〔p.12〕のイラストは、ひどい。■前者では、いかにも西欧の都市部の中産階級という男女のイメージと、第3世界の住民とが対比されているが、スーツすがたと こしミノだよ。あまりに 時代錯誤だろう。■その ページむかい〔p.13〕のイラストでは、「自由の女神」=近代主義の象徴を ひきずりたおそうとする「構造主義」陣営と、くずれかかった「女神」像に とびかかっていく「ポスト構造主義」陣営といったイメージ化が するどくなされているので、非常に残念。
■筆者の水準がちがいすぎるので、比較するのは 分がわるい気もするが、『続弾! 問題な日本語』などのいのうえさきこさんみたいに、筆者の意図をのりこえた シュールな イラストだって、不可能じゃないはず。■実際、小阪修平さんの『イラスト西洋哲学史』 (JICC出版局, 1984) の、ひさうちみちお氏の、イラストは、キレていた。本文に まけてなかったもんね。
■ただ、シルエットもふくめて、われわれが すりこまれた 俗っぽいイメージのねづよさ〔これを、例のひとびとは「ミーム」とよびだろうが〕を、痛感させられたことも事実。「「人は見た目が9割」? ?」でも とりあげたが、マンガ家というのは、社会が共有する「すりこみ」を みごとに すくいあげていることに、驚嘆。■しかし、それが「ポスト構造主義」という、多義性/ユラギといった 微妙な議論をくりかえす領域のイラストだけに、やはり危険だよね。イラストに あしをすくわれて、筆者の真意をとりそこねる読解を「生産的誤読」なんて、合理化はできない(笑)。
■?「ポストコロニアリズム」とのからみで、「カルチュラル・スタディーズ」の分析わくぐみを図解した箇所と、そのすぐしたのイラスト〔p.175〕。■まず 図解では、国家単位の「ひとつの文化」を「上位文化/下位文化」として、「分割」してみせている。が、「下位文化」ってのは、「大衆文化」「労働者文化」なども ふくむけど、ホントは「高級文化」とか「主流派文化」との対ではない。■「下位文化」ってのいうは、本来価値序列の上下関係とは一応別次元で、「下位」というのは、あくまで 「下位分類」ってことのはず。複数の下位文化が よりあつまって「国民文化」を形成するって、ことだよね。■日本語のなかでの「サブカルチャー」っていうのが、一般的な意味では「下位文化」と対応しそうにみえるけど、「カルチュラル・スタディーズ」の分析わくぐみをかたる文脈では、そういった俗流イメージを一応相対化する必要があるとおもう。■ここを ていねいに のべないのなら、価値序列のなかで 劣位/優位という 格差を追認することになるし。
■それと、その すぐしたのイラストだけど、植民地主義を批判的に検討するポストコロニアリズム/カルチュラル・スタディーズの解説で、「内なる植民地主義」の実例として、東北地域や九州地域の「独立」が問題として浮上したらどうなるかといった、といかけを図示している。■しかし、それをとりまく キャプションが、意味不明なのだね。「東北の人も吸収の人も同じ日本人だ、という意識はやはり植民地主義なのでは?」と「カルチュラル・スタディーズが批判的に検討しているのは、あくまで「現在の」国家単位で文化を見る見方なのである」とは、どうからむのか? 前者は「日本列島の内部にも、別国家を形成しうる異質な民族が地域ごとに わかれてくらしている」という意味か? また後者は「そういった、EUなみの小国分立の水準が のぞましいという理念は、おおきすぎる既存の国家体制を批判はできるが、小国内部の さらなる地域差/民族差については、充分カバーしきれる理論を完成できていない」という意味か? ■いずれにせよ、イラストもキャプションも、不親切すぎる。■また、
「ポストコロニアリズム
コロニアリズムは植民地主義だが、ポストがどこにかかるのかは曖昧。植民地後という状況についての思想なのか、植民地主義の後ということなのか、どちらにもとれる。……」という解説部分も、疑問。■論者によって、バラつきがあって、合意がとれていないのかもしれないが、「ポストコロニアリズム」の論者たちが、「植民地主義」という「なづけ」をするとき、「宗主国からの入植」「宗主国からの軍隊/官僚の派遣」「宗主国による政治的・経済的搾取」といった、古典的支配の次元で問題にしているはずがない。まだ入植者がいすわりつづけている「南アフリカ共和国」のようなかたちではなく、インドやカリブ海などのように、宗主国からの政治的独立が成立したあとも、経済的/文化的に 支配/搾取がつづくような、資本/情報による「遠隔操作」の実在こそ、批判の基盤にあるはずだ。■旧植民地出身者=移民が、旧宗主国で、平等な市民としての権利を行使できずにいるといった問題もふくめてね。
■このように まとめてもらうと、毎日かいている この日記の基本的視座というのは、構造主義と その批判的のりこえ運動としての ポスト構造主義との、オンパレードだ(笑)。
■たとえば、?近代社会は 自然の搾取を徹底化した異常な状況にあり、環境破壊や 自然としての身体をいためつける構造を 疑問視する視点がよわかった。それらの 根源には、西欧のブルジョアジーの男性を基準とした、ゆがんだ人間中心主義があった。■?近代社会は、個人の尊厳と主体性/自由をうたいあげたはずだが、実際には、うえにあげたような エセ人間主義=イデオロギーに 無自覚にとらわれた大衆(自称エリートたちも ふくめて)が 大量につくりあげられただけだった。■?その際、大衆社会が自己正当化をおこなうためにもちだす論理とは、「由緒ある歴史的伝統」であるとか、「生物学的本質」だとかいった、もっともらしげな理由が ほとんどだったが、実際には、近代社会にはいってから「制度化」された「発明品」であることが大半だった(性別役割分業/国民国家/官僚制/……)。■?近現代が、前近代とちがった 理性的/合理的空間であるというのは、一面的な総括にすぎず、神話的思考が そこかしこに はびこっているし、ナチズムや ABC兵器のように、一面的な「合理主義」による野蛮、マッカーシズムや個人崇拝など 集団ヒステリーとしかいいようがない 事例には ことかかない。■?学問や技術開発が 人類全体を幸福にみちびくというのは、宗教的信念にほかならず、ナチズムや ABC兵器のような 醜悪な「作品」、水俣病ほか 完全な「失敗作」もすくなくないし、環境保全や安全対策などまで充分にみたした技術体系は例外的である。おおかたは、地域的/階級・階層的な格差/搾取関係を前提にした、資源の浪費/局在と大量廃棄が基本でありつづけている。■?ムダを極小化し、効用を極大化することで「最大多数の最大幸福」を実現するはずの 市場原理/科学技術は、軍需/民需にかかわらず 巨大な浪費システムであり、資本流通がとどこおらないような 景気維持のためには、浪費は前提でさえある。それが自然循環や諸個人の生活リズムの適正水準と衝突しようが、基本的には頓着されない。■?ジャーナリズムはもちろん、文学/映画/マンガ/学問/スポーツ/各種パフォーマンスなど 諸表現が、真空状態のもとで 非政治的に生産/流通/消費されるはずがないし、広義の巨視的/微視的政治力学が かならず作用する。作用しないような「政治的真空」など、現代社会に存在しない。それは、モノ/人材の生産/流通/消費についても、同様だ。■?ヒトの認識は、ひろい意味での「言語」のよって構築されているのであって、自然現象や社会現象に 言語が対応するかたちで「なづけ=分割」しているのではない。むしろ逆に、各言語が、自然/社会の 意味のある分割を成立させている。つまり、いずれかの言語体系によらなければ、自然/社会に 有意義な分割をくだせず、思考も不可能になる。■?社会分業は、スポーツ選手を天性/適性でリクルートするような 厳密に能力主義的な適材適所のシステムでなどなく、事実上の世襲制や偶然など、かなりいい加減にリクルートしつつ、「シナリオ」にそった「配役」どおりの人材をそだてることに「成功」している。その意味では、現代人は、前近代同様、「配役」どおりに演じる「役者」と同質だ。……
■これらの 現代文明論は、すべて 本書の ポスト構造主義的 現代批判から直接/間接的に みちびける「結論」群である〔もちろん、本書は、もっとずっとおおくの重要な論点を提示しているが〕。■そして、これら現代文明批判を おこなっている 両者が、まさに「いま・ここ」を問題化し、けっして 自分を「局外者=傍観者」あつかいして、冷笑的に かたっているのではなく、自己批判をかかえこんでいることを共有化していることはもちろん、近代主義や前近代主義の双方から批判・非難をあびて、それに反応しようとしている点も共通している。■まるで、ふたごが ウェブ版と 出版市場版とで、分業しているようだ(笑)。決定的なちがいといえば、大城さんという筆者の ものすごい博識と、ハラナの「一点突破、全面展開」的姿勢の ちがい(爆)。
■きのう おととい かなり批判的に検討した「ミーム」概念に ほぼかぶるような議論も、本書では 論じられている。■たとえば、「近代人は自分が考えていると思っているだけだ」という節〔p.50〕では、「思考とは何らかの意味を持つ記号の運動にほかなりませんが、記号は自らの法則を持ち、自力で動いています。しかし、私たちは、それを自分が考えているのだと誤解しているのです。このような構造主義の考えは、まるで、ロボットが自分はロボットだと気づいたときのような衝撃を、西洋の知識人に与えることになりました」。■ここでいう「記号」などは、ミームと、ほぼ同義といってさしつかえない。■また、「主体と言語表現:ヒトは自由に語っているか」という節〔p.88〕も同様。「…ヒトは、自分の意見を語っているつもりでも、実際には時代の習慣を繰り返しているにすぎません。フーコーは言葉使いの些細な癖などの違いに注目することで、時代ごとの特徴を見抜き、自由に考えて語るという人間観が神話にすぎないことをも見破っていったのでした」。■ここでいう「時代の習慣」も、ミームとほぼ同義だろう。■ハラナは、「ミーム」の実体視には反対だが、機能面での「記号」「時代の習慣」が、われわれの思考を支配している、というか、思考の素材であって、全然自由でなどないこと、それら情報が大脳を媒介=記憶=継承装置として「利用」されているという擬人化が、かなり有効であることは、否定しない。
■さて、いつもどおりだが、本書の「タマに キズ」を 2点 あげておく。
■?本文イラストの水準。担当の Oさんの 技術には なにも問題ない。いかにも男性イラストレターだなって感じはあっても、ハラナ自身は むしろ このみの部類。■しかし、いかんせん 現代思想を かたるうえでの 解説部分の水準に、イラストが対応しきれていない。
■いや、本書の読者層の大多数をしめるだろう、「はやわかりしたい」という ひとびとにとっては、O氏のイラストは最適といえる。その意味では、実に編集方針を的確にくんだ職人わざともいえるんだが、こと徹底的な脱常識をこころみる現代思想にとって、いかにも常識的なイメージ図解は、筆者たちの意図をうらぎる危険性がすくなくないとおもう。■たとえば、第1部とびらの ウラ〔p.12〕のイラストは、ひどい。■前者では、いかにも西欧の都市部の中産階級という男女のイメージと、第3世界の住民とが対比されているが、スーツすがたと こしミノだよ。あまりに 時代錯誤だろう。■その ページむかい〔p.13〕のイラストでは、「自由の女神」=近代主義の象徴を ひきずりたおそうとする「構造主義」陣営と、くずれかかった「女神」像に とびかかっていく「ポスト構造主義」陣営といったイメージ化が するどくなされているので、非常に残念。
■筆者の水準がちがいすぎるので、比較するのは 分がわるい気もするが、『続弾! 問題な日本語』などのいのうえさきこさんみたいに、筆者の意図をのりこえた シュールな イラストだって、不可能じゃないはず。■実際、小阪修平さんの『イラスト西洋哲学史』 (JICC出版局, 1984) の、ひさうちみちお氏の、イラストは、キレていた。本文に まけてなかったもんね。
■ただ、シルエットもふくめて、われわれが すりこまれた 俗っぽいイメージのねづよさ〔これを、例のひとびとは「ミーム」とよびだろうが〕を、痛感させられたことも事実。「「人は見た目が9割」? ?」でも とりあげたが、マンガ家というのは、社会が共有する「すりこみ」を みごとに すくいあげていることに、驚嘆。■しかし、それが「ポスト構造主義」という、多義性/ユラギといった 微妙な議論をくりかえす領域のイラストだけに、やはり危険だよね。イラストに あしをすくわれて、筆者の真意をとりそこねる読解を「生産的誤読」なんて、合理化はできない(笑)。
■?「ポストコロニアリズム」とのからみで、「カルチュラル・スタディーズ」の分析わくぐみを図解した箇所と、そのすぐしたのイラスト〔p.175〕。■まず 図解では、国家単位の「ひとつの文化」を「上位文化/下位文化」として、「分割」してみせている。が、「下位文化」ってのは、「大衆文化」「労働者文化」なども ふくむけど、ホントは「高級文化」とか「主流派文化」との対ではない。■「下位文化」ってのいうは、本来価値序列の上下関係とは一応別次元で、「下位」というのは、あくまで 「下位分類」ってことのはず。複数の下位文化が よりあつまって「国民文化」を形成するって、ことだよね。■日本語のなかでの「サブカルチャー」っていうのが、一般的な意味では「下位文化」と対応しそうにみえるけど、「カルチュラル・スタディーズ」の分析わくぐみをかたる文脈では、そういった俗流イメージを一応相対化する必要があるとおもう。■ここを ていねいに のべないのなら、価値序列のなかで 劣位/優位という 格差を追認することになるし。
■それと、その すぐしたのイラストだけど、植民地主義を批判的に検討するポストコロニアリズム/カルチュラル・スタディーズの解説で、「内なる植民地主義」の実例として、東北地域や九州地域の「独立」が問題として浮上したらどうなるかといった、といかけを図示している。■しかし、それをとりまく キャプションが、意味不明なのだね。「東北の人も吸収の人も同じ日本人だ、という意識はやはり植民地主義なのでは?」と「カルチュラル・スタディーズが批判的に検討しているのは、あくまで「現在の」国家単位で文化を見る見方なのである」とは、どうからむのか? 前者は「日本列島の内部にも、別国家を形成しうる異質な民族が地域ごとに わかれてくらしている」という意味か? また後者は「そういった、EUなみの小国分立の水準が のぞましいという理念は、おおきすぎる既存の国家体制を批判はできるが、小国内部の さらなる地域差/民族差については、充分カバーしきれる理論を完成できていない」という意味か? ■いずれにせよ、イラストもキャプションも、不親切すぎる。■また、
「ポストコロニアリズム
コロニアリズムは植民地主義だが、ポストがどこにかかるのかは曖昧。植民地後という状況についての思想なのか、植民地主義の後ということなのか、どちらにもとれる。……」という解説部分も、疑問。■論者によって、バラつきがあって、合意がとれていないのかもしれないが、「ポストコロニアリズム」の論者たちが、「植民地主義」という「なづけ」をするとき、「宗主国からの入植」「宗主国からの軍隊/官僚の派遣」「宗主国による政治的・経済的搾取」といった、古典的支配の次元で問題にしているはずがない。まだ入植者がいすわりつづけている「南アフリカ共和国」のようなかたちではなく、インドやカリブ海などのように、宗主国からの政治的独立が成立したあとも、経済的/文化的に 支配/搾取がつづくような、資本/情報による「遠隔操作」の実在こそ、批判の基盤にあるはずだ。■旧植民地出身者=移民が、旧宗主国で、平等な市民としての権利を行使できずにいるといった問題もふくめてね。