■愛知教育大の先生のサイト『子安 潤のインターネット圏』を発見。■先日とりあげた志水宏吉さんの『学力を育てる』の書評「Magazine247:学力を育てる」がある。以下全文転載【強調部:ハラナ】
2005年12月3日 (土)
Magazine247:学力を育てる
 志水宏吉、岩波書店、700円と税金。

 この本には、いくつか賛同できる主張もある。例えば、金子らのコミュニティ・スクール批判。その新自由主義的性格の批判となっている点などは明晰だ。また、単純な学力低下論批判を批判している所などにも共感する。

 本書では、学力を、意欲と思考力と知識の三つだという。それを学力の樹などと表現している。しかし、この学力構造論は特別深まりのある議論ではない。本文にあったように広岡亮蔵以来の学力モデルに依拠してそのまま取ってきているだけのように見える。だから、知識の注入的な学力観に対しては批判的と言えるが、しかし、ある種の常識論であるように思える。

 志水のポイントは、学力論にはないと思われる。
 中心は、知識としての学力が階層的下位において低下しているということが一つ。
 家庭学習離れと家庭環境がそれに影響しているというのが二つめ。
 これに挑んでいる学校があるというのが三つ目
の主張だ。

 私は、知識としての学力は低下傾向にあるとみている。また、階層的下位が増加し、その層が低下傾向にあるとみる。この点ではそんなに違わないかもしれない。
 ただ、低下というのをいつからなぜ変わったとみるかについては、一致しないかもしれない。日本は、階層的格差が西洋諸国よりは小さい国とされてきた。しかし、格差はあった。本の中にあるようにバーンステインとブルデューの理論は、昔から知られているように、いわゆる学力が階層によって差があることを主張してきた。だから、日本も階層格差は小さいとは言え格差があった。だから、その理論を肯定する限り、ずっと前から学力格差はあったことになる。したがって、階層格差が西洋より低いとは言え、格差があったとすれば、学力格差は以前からあったことになる。すると、学力低下を十数年前と比較して低下したと志水は主張しているのだが、その理由はどこにあることになるのか?
 また、PISAを持ち出して3年前と比較して低下と言っているが、3年で低下と言えるのかどうか?そんなことに疑義がある。

 二つめの疑義は、家庭環境の強調と家庭学習の強調を志水はしていることに関わる。階層格差が学力格差に影響するという理論を志水は採用しているが、本文の中に、親が子どもの家庭学習をみてやったり、本好きにすれば成績が上がると言う話しをしている。しかし、これは、階層格差もしくは文化資本の理論と整合しない。というのは、そういうことができないのがイギリスでいえば労働者階級だからである。日本の場合も、従来以上に階層化されてきているから、それはできないことを個人責任でやりましょうといっているに等しい主張のように思われる。

 三つ目の疑義は、大阪の二つの小学校と中学校を持ち上げている部分だ。実像をみていないので、実際の教育がどのように行われているかが不明なので断定できないが、その方針にいくつかの疑義がある。一つは、小学校では遊ぶことが重要だといい、中学校では遊ばない方針が持ち上げられている。中学校文化になじんでいくのだとあっさり記しているが、矛盾しているように思われる。あるいは基礎学力の徹底だというが、それはやはりドリル論に見える。さらに、学力を徹底してその上に総合学習だという二段階論となっているのだが、そのような掴み方は、一般の効力のない学校でも基本的方針としてはそうなっている。だいたい、学習指導要領の基本方針のこのところ説明は、だいたいそんなところだ。とするとこの学校の特徴は、教師集団のチームワークということだけが残るように思われるのだ(その実像は不明だが)。
 そうすると、やはり、現在の学力イメージの中での底辺に注目した実践に留まるのではないかと思われてくる。本質的には、クリティカルと言えない実践のように思われるのだが。
(2005.11.29)


■11月29日というのは読了日で、12月3日は、公開日のようだ。■ちなみに、本書のおくづけは、2005年11月18日発行。
■志水さんの (1) 死角をするどくついている部分と、(2) ハズシている部分と、(3) 不徹底な批判が混在しているとおもう。

(1) 死角をするどくついている部分
?小学校では遊ぶことが重要だといい、中学校では遊ばない方針が持ち上げられている。中学校文化になじんでいくのだとあっさり記しているが、矛盾している」■前回は、より本質的な問題をとりあげる必要性を感じたので はぶいたが、ハラナも感じた問題点。「初等教育と中等教育では、児童・生徒の発達段階がことなるために、おのずと 『あそび』の位置づけは、ことなってくる」と、教育関係者も保護者もいうだろうが、これは、「オトナの公的時間の心身の姿勢を『自動車教習所』的に、身体化する装置としての中等教育機関」という、既存の教育イデオロギーに対する無批判/無抵抗を意味する。■「あそび/余暇としての時間と、真剣にとりくむべき「公的時間」の区別=メリハリを つける」という、心身/姿勢さえも、資本主義的労働観の 具現化であり、「よき労働者」像を かぎりなく 正当化しかねない。まして、「遊ばない」ことをよしとする指導方針にいたっては、「ときは カネなり」という 資本主義的時間論=イデオロギーの注入にほなからない。

?「階層格差が学力格差に影響するという理論を志水は採用しているが、本文の中に、親が子どもの家庭学習をみてやったり、本好きにすれば成績が上がると言う話しをしている。しかし、これは、階層格差もしくは文化資本の理論と整合しない。というのは、そういうことができないのがイギリスでいえば労働者階級だからである。日本の場合も、従来以上に階層化されてきているから、それはできないことを個人責任でやりましょうといっているに等しい」■これは、「『効果のある学校』は、普遍的には実在しない」という 仮説とかかわるので、慎重にならなくてはいけないが、すくなくとも バーンステインらの階級文化=無自覚な再生産戦略モデルを批判的にのりこえないかぎり、子安さんの「判定がち」。かれらのモデルは基本的に、経済な階級分化が「宿命的」に「悪循環」=構造化しているって議論なんだから。この点は、三浦展氏の「下流社会」論とも からむが。■次項=?と、密接にかかわるが、「家庭での自助努力がたりない」とか「悪循環におちいっている」といった指摘をするつもりであれば、「自己責任」=「自業自得」論に あしをすくわれる。

?「基礎学力の徹底だというが、それはやはりドリル論に見える」「学力を徹底してその上に総合学習だという二段階論となっているのだが、そのような掴み方は、一般の効力のない学校でも基本的方針としてはそうなっている。だいたい、学習指導要領の基本方針のこのところ説明は、だいたいそんなところだ。とするとこの学校の特徴は、教師集団のチームワークということだけが残るように思われる。」■これも重要な論点。志水さんの議論の基本線は、「教師の やる気と戦略」「それをささえる地域の保護者」という、いってはわるいが、同和教育版『ドラゴン桜』なのだ
(笑)。しかし、子安さんがツッコミをいれているとおり、本書や『公立学校の挑戦 「力のある学校」とななにか〔岩波ブックレット〕のえがく具体例は、他校の現場にとって参考にはなっても、ちがいは「教師集団のチームワークということだけ」になりかねない。■「なぜ うまくいかないか?」について、志水さんはこたえきっていなのではないか?

(2) ハズシている部分
PISAを持ち出して3年前と比較して低下と言っているが、3年で低下と言えるのかどうか?」■すくなくとも 志水さんが着目する「読解力」については、他国/過去双方との比較で 統計学的な有意で おちこんでいるとみるべきだろう。したがって、「3年で低下と言えるのかどうか?」というのは、「学力低下」論に反論したい論者にありがちな、にげである。■もし 「低下」していないとするなら、調査対象が、なんらかの理由で 以前とかわってしまったという点だけだ。■ただ、低所得者層児童の学力低下が「実在」するなら、仮説検証できるような 時期の特定と要因分析が必要なことは、たしか。■もちろん、ハラナは、この調査結果で さわぎたてるのは 賛成しない。もう少々ようすをみるべきだし、国際比較で浮上しない面での 「学力」格差とか、問題が伏在しないか、こまかくみるべきだとおもう。■ただ、佐藤学さんの『学力を問い直す―学びのカリキュラムへ―』〔岩波ブックレット〕みたいな教育学者の 洗練された教育擁護にも、くみしないが〔佐藤さんも、所詮は「学び」教の信者〕



(3) 不徹底な批判
?「学力の樹などと表現している。しかし、この学力構造論は特別深まりのある議論ではない。本文にあったように広岡亮蔵以来の学力モデルに依拠してそのまま取ってきているだけのように見える。だから、知識の注入的な学力観に対しては批判的と言えるが、しかし、ある種の常識論」■前回のべたとおり、志水さんの「学力の樹」モデルは、「学力」イメージの混乱を整理するうえで、それなりに諸概念間の関係性を視覚化できているので、この批判は「いさみあし」。■むしろ問題は、うえで問題にされているような「基礎学力」概念が、既存の学校文化、優等生=教員文化を、なんら のりこえるものでなく、「基礎学力がたかまることで、わるいことがおきるはずがない」という、教育イデオロギーを相対化できていない点。既存の政治経済体制を 善意かつ無自覚に補完するやくわりをはたしてしまうという、潜在機能の面だろう。

?「現在の学力イメージの中での底辺に注目した実践に留まるのではないかと思われてくる。本質的には、クリティカルと言えない実践のように思われる」■おそらく 子安さんなりの、「ドリル」式でない「基礎学力」イメージがあって 批判しているのだろうが、具体的でない以上、無責任な抽象論。■第1に、「ブラックボックス=学力概念のなかみを、あきらかにせよ」という、ツッコミは、実践論的に不毛。それは、教育学関係者だけの利害かもしれない。■なぜなら、同和地区周辺の学力格差が是正されて、階層移動など、選択肢/可能性がふえるという とりくみが、「対症療法」的に、なにもやらないより ずっと良心的なことは、あきらかだから。
■第2に、何回もくりかえしたとおり、「ブラックボックス」の放置が、既存の体制強化=リスク低減作用しかもたらさないのではないか? といった、根源的な批判をくわえるのなら、別だが。■志水さんは、無意識的にか「ブラックボックスのなかみ」を、とわないことを、ひらきなおっている。「対症療法」的な社会正義=「機会均等という、近代/ブルジョア社会の公式理念」からすれば、なにもまちがっていない。■志水さんに「ブラックボックスのなかみ」をとうという、「ないものねだり」をするなら、「なかみ」を透視すべく モデルを自分から提示すべき。
■ちなみに、「クリティカルと言えない実践」という表現は、ご自分にもふりかかってくる、おそろしいコトバであるという自覚をおもちなんだろうかねぇ。子安先生の実践例をしらべずにいうのは、なんだけど。■だって、ハラナの しろうとかんがえでは、「ブラックボックスのなかみ」をとうような、「クリティカル」な「実践」をおこなうってことは、「愛知教育大の教員養成課程に進学してくるような、基本的に地味できまじめな 地方出身の優等生の『学力』の質/量の形成過程までも、既存の政治経済体制の正当性のいかんという文脈のなかで位置づけて、『クリティカル』に再検討する」ってイミ。■しかも、教育学者が フィールド・ワーカーにむかって、「クリティカル」な「実践」ってせまるということは、それ以上の「クリティカル」な教育「実践」をおこなう/参与観察するか、おそろしく画期的な「哲学的実践」によって、「ブラックボックス」内部を ガラスばりにしてくれるってことだよね。


【つけたし】後日、きょうとりあげた 志水/佐藤 両先生
〔東大教育学部系〕の 岩波ブックレットを検討する予定。