■だいぶまえの記事になるが、当 日記にもリンクしてある renqing氏の 『本に溺れたい』に、「知っていること、知らないこと」という文章がある。■以下全文転載【ただし図解を少々くみかえさせていただいている】
知識とはなんでしょうか。また、「知っている」とか「知らない」という状態は何を指していっているのでしょうか。以下では、それを考える際のきっかけとして試験的な議論を試みます。
完全なる「無知」とは、「知らないこと・を知らない」状態であると規定します。すると、「知、もしくは、知っている」という状態は「知っていることを知っている」状態と考えられます。そうすると、「無知」の状態から「知」の状態への移行には、二つの経路(path)があり得ます。

「知らないこと・を知らない」(a:完全な無知)
↓ 
「知らないこと・を知っている」(b:問題の発見、設定)
「知っていること・を知らない」(c:暗黙知、身体知)

「知っていること・を知っている」(d:有知)

西欧出自の Science は、これまで、a→b→d、という経路をもっぱら扱ってきておりその面では目覚しい成果をあげてきましたが、a→c→dという経路にはあまり注目してこなかった、のであろうと思います。数少ない例外が M.Polany でしょう。仏教の「悟り」はa→cという過程を表象したものと思われますし、「創発」という現象もc→d という過程に関わるものではないか、と今のところ考えています。


■原文では「a/b/c/d」は、長方形の4頂点として図式化されているので、少々、イメージとズレるのだが、おゆるしいただこう。■そして、renqing氏自身、「知識とはなんで」あり、「また、「知っている」とか「知らない」という状態は何を指していっているの」のか、「それを考える際のきっかけとして試験的な議論を試み」をなさったと、おっしゃっているので、こちらも強引に、当方の理解の整理の素材として、きりきざませていただく(笑)


■まず renqing氏のいう「知らないこと・を知っている」とは、ソクラテスの「無知の知」に対応しているとかんがえられる。■「産婆術」とよばれてきた、原初的な対話法は、「無知の知」への学習過程、いいかえれば「無知の自覚」過程といいかえることができよう。■だいぶまえ、たしか、学生運動のさなか、学生から「専門バカ」よばわりされた東大教授だったかが、「専門バカでさえない存在は、ただのバカ/無知」とか、きりかえしたとか、きいた記憶があるが、知識人や専門家集団のような層以外、「ただのバカ/無知」なのかどうか、一度真剣にかんがえてみる必要があるだろう。■そして、御用学者となりはてた大学教授たちが、おぞましいばかりの「専門バカ」ぶりをくりかえしてきたことは、あきらかだ。してみると、一学生が、知識の総量では到底かなわなかっただろう教授たちに「専門バカ」といいはなったのは、失礼で「無知の無知」かもしれないが、一片の真理をついていた可能性がある。■すくなくとも、ソクラテスが この世にまいもどってきたなら、専門家が 自分のせまい責任領域をちょっとでもはずれると、非常にあやふやな知識しかないこと、しかも自分を過大評価していて、しろうとからの批判など うけつけようとことが、いかに おろかで「無知の無知」であるかを、赤裸々に立証してくれるにちがいないから(笑)。■それはともかく、科学や その基盤となる 広義の哲学/学問とは、?なんらかの契機をもとに「無知の自覚」がおとずれたのち、?「既知」情報の蓄積/整理がすすめられると同時に、「未知=未解決」な問題を「課題」として設定していくことであり、?それは逆説的に 人間の認識している「世界」が、ナゾだらけであり、「未知の領域」だらけであることの自覚が すすむということにちがいない。■つまり、「世界が ナゾだらけである」という現実に無知である、「しろうと」(万人が、専門外では「しろうと」にすぎない大衆なのだが)が、いかに「無知な自分に無知」であるか、という相対的比較という意味では、「専門家はエラい」ということになる。■その意味で、「専門バカでさえない存在は、ただのバカ/無知」といいはなった某教授は、ソクラテスの 哲学教師としてのサディズムの 直接の継承者という 皮肉もなりたつのである。かの教授が、せまい意味での業界のこと以外には、絶対に公的発言を禁欲していたのならば。■いいかたをかえれば、自分のせまい意味での専攻領域=守備範囲以外でコメントをもとめられても、いっさい くちをつぐむものだけが、「無知を自覚する知者」であり、「はじをしる人格者」ということになろう。たとえば、テレビなどで「コメンテーター」などと紹介をうけて、せまい守備範囲以外の話題にまで 「コメント」とやらを発している層は、ハレンチであるばかりでなく、非常に有害な機能をはたしているとさえいえよう(笑)
■してみると、「知っていること・を知っている」(d:有知) という状態とは、いかなる次元においてかということである。■ハラナが みるかぎり、ソクラテスの ひそみに ならうなら、「誇大妄想」とか「カンちがい」である。なぜなら、相対的に 専門外の、あるいは ライバルたちよりも さきんじて 「知っている」ことがかりに事実にせよ、「知を愛する(φιλοσοφια/philosophia)」姿勢からすれば、そういった「相対的優位」など、どうでも いいはなしのはずだからだ。■もちろん、「しろうとが どう カンちがいしていようと、自分の研究生活に支障さえなければ、しったことではない」とする、研究者の大半の無関心ぶり/虚無主義は、別個の知識社会学的な問題ではあるが(笑)

■もうひとつ 確実にいえることは、 「知らないこと・を知らない」「知らないこと・を知っている」「知っていること・を知らない」 「知っていること・を知っている」という、実に単純な 2×2の 図式は、論理階梯(水準)のことなる状態の対象化が 図解されているということだ。■「…こと・を…」をはさむ 「知らない」「知っている」は、対象化の水準が 全然別個なので、まさに 2次元的な4現象なのだ。
■そして、実際上の問題として、「…こと・を…」の後者の「知らない」「知っている」は、つねに 重要なちがいかどうか、微妙な気がする。
■①「知っていること・を知っている」(d:有知)については、基本的に不要な状態である。■第一に、前述したこととかさなるが、せまい領域での 最先端=トップランナーは、相対的優位を ほこるのは、単なる名誉心や予算獲得、特許ねらいなどにすぎない。そんなヒマなどあるなら、いまだ未解決である課題の山積が気になってしかたがないはずだ。■第二に、教育・指導といった たちばにある人物にとって、「知っていること・を知っている」(d:有知)は、一見よさそうにみえるが、むしろ 指導者としては、「知らないこと・を知っている」(b:問題の発見、設定)こそ 重要のはずだ。自分が すっきり整理できていないこと、自分が指導上 すっきり整理して つたえられそうにない領域の明確化こそ、責任ある指導を可能とする。

■②「知っていること・を知らない」(c:暗黙知、身体知)は、言語学者/人類学者、社会学者/経済学者など、外来の社会現象の記述・分析者にとってだけ、有意義である。たとえば、レヴィ=ストロースの研究などが典型だろう。■内部の実践者にとっては、基本的に 「あたりまえ」なわけで、実践的に この現象の自覚が ともなうのは、日本語教師など第一言語話者である語学教員や同時通訳や翻訳家、スパイなど、言語学/人類学/社会学者等の研究と同質の分析過程を要求される特殊な職務にかぎられる。■もちろん、「知っていること・を知らない」(c:暗黙知、身体知)という現象について 公教育のスタッフが もうすこし自覚的であれば、教育実践が、相当マシになることは いうまでもないが、これとて、「知っていること・を知らない」(c:暗黙知、身体知)の当事者自身の課題ではない。C状態からD状態への移行は、当事者にとっては不要な過程にほかならない。■日本語話者が、日本語教師的な やくまわりを つとめる ハメになったときだけ、C状態の自覚を整理することになるが、それとて D状態への移行ではない。■前述したとおり、指導者としては、「自分が すっきり整理できていないこと、自分が指導上 すっきり整理して つたえられそうにない領域の明確化」という意味で、逆説的に「知らないこと・を知っている」(b:問題の発見、設定)こそ 重要となるだろう。

■③「知らないこと・を知らない」(a:完全な無知)は、専門領域以外での 「自然状態」であり、通常は なにも 問題が「おきない」。■もちろん、心療内科とか精神科歯科学、整体の領域のように、本人が自覚しづらい 心身のヒズミ、発声法/呼吸法/運歩の矯正といった 課題(たとえば「顎関節症」とか「腰痛」など)は よくあるのだが。
■ホントは、戦争/飢餓/貧困/抑圧/環境破壊など、さまざまな 無自覚的暴力は かずかぎりなく、そういった意味で、世界システムの住民の過半数は、おそらく「原罪」をおっている(笑)。しかし、自覚がない以上、かれらの眼前に 問題は「おきない」。つまり、「問題ない」と事実上同義である。■一例をあげるなら、東アジアでの植民地支配や戦争責任を絶対にみとめたくない層にとっては、日本軍がうめて放置した毒ガス処理など、「眼中にない」から、指摘されただけで、だまりこむか、逆ギレするだけだろうし、「はずかしい」という感情をもてない層にとっては、指摘されたことについて、「あいてかたが、不愉快そうだった」という、「不愉快な記憶」が わずかにのこり、いずれ、それさえも きえさる運命にある。
■そして、ここまで 醜悪で こまりものの次元をのぞけば、「知らないこと・を知らない」(a:完全な無知)とは、「自然状態」にほかならない以上 当然だし、それを 「B状態に ひきあげねば」とか しゃかりきになるのは、教育関係者の経済的利害ないし自尊感情、国家利益などを基盤としたイデオロギーである。■教育関係者は、環境負荷、人権侵害などの おそれがないかどうか、つねに 自己批判的に ムリ/ムダ/ムラを はぶくべく努力義務があるし、くだらない自尊感情やイデオロギーに ひきずられて、ひとの人生の邪魔だて、「時間どろぼう」になりはてていないか、不断の検証が かかせない。授業準備など、段どり整理などよりも、むしろ この面での 努力義務をおこたるべきでないし、サイレント・マジョリティ=犠牲者である受講生にかわって、講義室をガラスばり、参観自由にすべきだろう(笑)

■④ついでいうと、せまい意味での教育学/心理学/社会学、なかでも 幼児教育学、教育哲学教育人間学臨床教育学教育心理学/発達心理学、教育人類学、教育社会学/家族社会学家族心理学/理論社会学などの課題の中心は、?A状態→C状態への移行過程が、いかに構造化され、通常失敗しないですんでいるのか、?A状態→C状態への移行過程が、機能不全をひきおこす要因/状況とはなにか、ということになりそうだ。■もし、この過程の解明ができないのなら、在来の育児/社会化システムの 批判的検討にならないし、在来の育児/社会化システムが かりに機能不全をきたしているらしいことが明白でも、なんら 有効な提言など不可能なはずだからだ。
■ちなみに、この次元での分析に有用なモデルとしては 生成文法学派とそれへの批判者たち(LAD=Language Aquisition Device ではなくて、LASS = Language Aquisition Sapport System を提案する論者たちマイケル・トマセロ(Michael Tomasello)ら,レイコフ認知言語学者,社会言語学者たち)の 論争過程に あるとおもわれる。

■⑤技術史家の 中岡哲郎さんは、『人間と労働の未来』(中公新書,1970年)で、工場/工房の 職人ことばは 技能習得と きりはなすことができないこと、抽象的ではなく 具体的に その業界/業種の 現場の 表現を理解した団塊とは、技能が体得できた時点であることを、指摘していた。たとえば「ねかす/たてる/ころす/いかす」といった 職人ことばが 「腑におちて」いくとは、特殊具体的な文脈を 技能とともに体得していく成長過程であると。■?「知っていること・を知らない」(c:暗黙知、身体知)との からみでいえば、職人は、みずからの技術の細部における「暗黙知、身体知」を 充分には言語化できないし、する必要もない。原理的に 言語化できない領域なので、みようみまね、やりながら体得するものなのだ。■もちろん、中岡さんが指摘したとおり、ヒトが体得すべき技術も、機械が等価機能をはたせるよう、労働過程を 物理化学的に 完全に分析し、分解・統合することさえできれば、複製技術としてソフト化し、「一品注文生産専門の名人芸」以外を完全解体できる。■それこそ、資本主義の「合理化」「大量生産」「非熟練化」の本質だ。しかし、それと A状態→C状態という、移行=成長過程の解明とは、別次元だ。

■⑥要は、「しってる」とは B状態とC状態双方をさしているのであり、論理的にはありえるはずのD状態は、考慮からはずしてよい。■また、「わかる」とは、A→B と、A→C の移行過程であり、「わからん」とは、その過程の失敗状況といえる。