■『入試過去問と著作権を考えるblog』という、問題提起を展開する日記から 去年かいた文章に リンクこみのトラックバックをいただいたので、よみなおしてみた。■そして、大学入試の時期でもあるから、入試問題という観点から、補足をしてみたくなった。それは、著作権問題という、知的所有権の問題の根幹にかかわる、かなりねぶかい次元にねざしているとかんがえたからである。
■「入試過去問と著作権を考えるblog」の 作者 phenotex 氏の主張は、明快である。■?日本人が気あいをいれて勉強するのは入試なのだから、現代文の出題とその対策としての過去問題集は、主要な教育装置である(「過去問や問題集による学習」「塾・予備校は学校教育の補完として機能してきた」「小論文の出題、哲学を高校の必修科目に」)。■?したがって、入試問題集/予備校教材などが著作権保護などの理由から 自由につくれないような 知的所有権保護の風潮がつよまったら、現代文を教材とする受験勉強が とどこおることになりかねない(「入試過去問と著作権」「評論の載っていない赤本?」)。■?存命で当然著作権をもつ筆者の作品が出題・転載しづらいということであれば、著作権保護がきれた「古典」からだすのが得策ではないか(「没後五十年の作家を中心とした出題を」「明治・大正・昭和初期の小説を出題せよ」)。■?いや、いっそのこと「各大学において、入試のために文章を書き下ろす」のがいいし、「入試終了後は、それを各大学が受験生にむけてインターネット上に載せたり、または入試文章集として製本して販売すればよい。これならば大学が、どのような知識や問題意識を受験生に期待しているのかが解るし、受験生も真剣にそれらの著作物を読むだろう」(「書きおろしの文章集は作れないのか?」)。■?きりきざまれたり、ヘンな設問に流用されるのは ぼうとくだ、というが、作品が 市中にでまわった瞬間から どう料理されようと しかたがないという宿命をおびているのが、出版物/刊行物であって、筆者が容認する解釈以外は まちがいだというのは、テキストと 読者の相互作用、生産的誤読といった、テキスト論の基本がわかっていないだけじゃないか?「もし解釈を拒否するなら、ひっそりと自費出版するか、日記にでも書いておけばいいではないか」「もし解釈自体が嫌ならば、書評や書店のコメントや帯に貼られたキャッチコピーや文芸評論家様による解釈も拒絶してはどうか」〔「勝手な解釈をするな!というなら…」〕

■でもって、いわゆる『赤本』とか、Z会とかをうったえている団体/作家たちの いきごみは、少々異様。phenotex 氏が「正直言って、「そんなところからも金取りたいのかよ?」というのが、僕の「感想」だ。あんまりケチなこと言わないで、使わせてやればいいじゃないのかなと思う。入試問題で作品と出会ったことによって、実際に本を買うという動きをする者は多いが、それによって本来売れるべき本が売れないという事態は想定しづらい。宣伝にこそなるが、著書の販売を妨げる要素はないと思われる」と なげくのは、よくわかる。■phenotex 氏は、自分の文章を入試に出題されたことへの 反応も、ちゃんと ふまえて議論している〔「過去問の著作権について様々な視点」〕。■phenotex 氏にかぎらず、たくさんの ひとびとが、入試がらみの 著作権問題を論じていることがわかって、なにやら複雑な気分になってきた。
■問題は、いくつかに 整理できるとおもう。

■?「勝手な解釈をするな!というなら…」とphenotex 氏がのべるとおり、入試で加工するなというのは、ナンセンス。そういった「御真影」的文章観は、表現者として時代おくれ、というより、失格だとおもう。
■?さわいでいる文筆業者の先生方は、みな著名なかたがたで、印税を いくらかでももらわないと、たべていけないといった ひとびとではないので、おそらく、作家業という業界/業種の地位向上、権利獲得のために 代表としてたちあがったんだとおもう。■したがって、「純真なる食えない人々」で、phenotex 氏が展開している推定は憶測でしかなさそうだ。むしろ、そういった運動をやっているばあいじゃない、「売文」生活の渡世人ライターの権利保護を かってでたと。
■?しかし、何万部もうれる本を続々と出版するような うれっこはともかく、作家の先生方は、「売文」=印税だけでは到底たべてゆけず、付随する講演料/出演料とか さまざまな雑収入の合計でおくらしのはず
日垣隆売文生活』ちくま新書〕。■早稲田などをはじめとした、ブランド私大で 何問も出題されるといった 「入試の超うれっこ」に かりになったとして、『赤本』やZ会の『青本』の印税収入が、くらしのタシになったりするひとは、まずいないはず(笑)
■?同時に、ここで問題となるのは、大学自体〔入試検定料収入〕もふくめて、受験産業が ちゃんと 産業化している〔=おおくのスタッフが生活できている〕という現実。■入試担当者の出題手当とかもふくめて、出題者/解答者(解説者)の みなさんは、給与とか現金を手にするなり、なんらかの経済的対価がしはらわれているんだよね。■予備校の先生や受験雑誌、過去問題集出版社の編集スタッフ、そして大学の入試問題作成者の先生方は、「原典」の加工をおこなうときに、学術論文の引用みたいな、フリーハンドの権利をもっていると、おもっているのかね? ■その際、原典はタダで、加工賃/編集工賃は当然対価ありっていう 感覚=「二重の基準」が 適用されているようにおもえる。学術論文かいても、対価はしはらわれないし、むしろ「学会誌掲載のために カネを要求されるようなばあいもある」ときくけど、 受験業界の利用は利益をだしていいわけ?
■?つまり、そこには 「入試問題に転載されて(解説文まで問題集ではつけてもらって)、売名してもらった恩義を自覚していますよね(だから、タダが順当でしょ?)」という、ホンネも すけてみえる。■ここには、NHKをはじめとした、大型媒体が、「出演させてやって(≒有名にしてやって)いるんだから、薄謝でガマンは当然だよな?」という、ごうまん そのものの姿勢と、あい通ずるものを感じる。■「表現者にスポットがあたる『ハレ舞台』を提供してやっている」。「受験という、公的性格がつよい国民的行事の 動員なんだから、もともと 執筆料/版権とか、ぐだぐだ ぬかすな」という、かなり さもしい根性が、うきあがってくるのだ。■「入試につかった(過去問題集に採録した)なら、カネだせ」と、さわぐ執筆者も、ケチで ものがなしいが、「つべこべいわず、公的な動員に奉仕しろ」とばかりの 利用も、かなり えげつない気がする。


■しかし、もともとといえばだよ、日垣隆さんみたいに、たたかう執筆者として、<原稿料ねぎられても、おくゆかしく やりすごす姿勢の悪習のくりかえしでは、業界全体のためにならない>と 堂々と執筆料を明確化させようとする 姿勢が よわいんだよね。■じゃ、その 根源的基盤はなにかといったら、ベストセラー作家や、公務員・資格試験テキスト執筆者みたいな層以外、「こしかけ=二束わらじ作家」が大半で、原稿料でくっていく必要がない 層が、おもな原稿供給源になっている構造だとおもう。■大学生協書籍部と大学町の古本屋以外 店頭にならばない大学テキスト、執筆者が相当部分「かいとり」とか出資してでる 「半自費出版」なんてのは、その典型だ(笑)。小説の読者数と執筆者数は大差ないとか、学界の刊行物は同業者同士が 相互交換しているだけの市場であるとか、詩人/俳人/歌人は、プロボクサーなみに 別個の主たる生業をかかえているとか……(笑)
■要は、主たる定期収入をかかえている層が、売名か責任感か、どちらかで かいていること=執筆コストが極限までおさえられていることで、ベストセラー以外の、おびただしい刊行物が出版可能になっているってことだ。しかも、その相当量が、自費出版的に現物支給/配本されることで、同業者間の「交換」が 擬似市場として、出版関係者の生活を維持していると(笑)。■その書物の質/意義はともかく、数百部?数千部刊行で、数年後に品切(になれば、まだマシか? 笑)……といった、資本主義市場と「売文」家業という 巨大な経済構造のなかでは 単なる「ゴミ」でしかない、おびただしい 「作家」が「生息」し、その「作品」群が 「流通=交換」されていると(笑)。■こういった 巨視的構図のなかでは、取材費用/執筆労力/生活費用といった「原価計算」にそった 執筆代など、でるはずがなかろう。

■こういった 「商品としての入試問題」という観点でみると、印刷/消費される おびただしい文章は、「受験産業」という業界=大学/予備校/高校/出版社の生活費をささえる装置の素材として、かぎりなく 無料にちかいかたちで動員されている。■もしそれが、わかものを知的に練磨するための素材/媒体となっているとしたら、その崇高な「公務」のために 表現者が御奉仕するのは当然か? そこから利潤をあげている層、生活している層の 正当性が はなはだ疑問ではあるが(笑)。■それと、「自分は研究者であって、入試なんて雑務に精力をつぎこむ人材なんかじゃない」と 信じているんではと、うたがわれるような 大学の先生方に、原典の執筆者が なっとく/感動するような 転載/利用ができるととは、おもえないし、そういった 「おざなり入試問題」をとかされる受験生が、知的刺激をうけて めざめ、かしこくなるとは、到底おもえないんだが(笑)。■大学/予備校/高校の先生方、いかがでしょう?

■結局、ハラナの同意できる対案は、「小論文の出題、哲学を高校の必修科目に」と、「書きおろしの文章集は作れないのか?」だけかな? ■あ、前者はともかく、後者はダメか? 研究重視の先生方は、そんな「文章」かきたくないよね(笑)。いままで、ああいった問題で お茶にごしてきた先生方が、「書きおろしの文章」なんて、かくはずない。東大教養学部の先生みたいに 入試に気あいいれる集団は例外だった。■普通の大学の先生が、「どうせ 入試上位者は よそに にげていくのに、なんで入試の出題に 時間/精力さかなきゃいかんの?」という 疑念も もっともだよね。東大なら、まず にげないからねぇ(笑)。もっとも、あくまで 「おとなり韓国みたいに米国留学がはやって、頭脳流出が一般化しないうちは」って、期限つきだけど……。
■前者も、公民科の木村先生みたいな人材を大量に養成しないと、ダメ。オンフレの哲学テキストみたいな水準にも対応できなきゃ、いけないわけで、フランスのリセの哲学教師は、日本でいえば大学の思想史、哲学の担当者に対応するとおもう。くやしいけど(笑)。■その養成には、4年制大学の文学部/法学部/経済学部あたりで、教職科目を履修する程度では、全然たりないわけで、最低でも修士課程=博士課程前期修了、できれば博士課程満期退学
(=3年在籍して必要単位とって博士論文パスだけぬけている状態)ぐらいの人材でないと。前者にも、ちゃんと人材は いるけど、それで平均水準が維持できるなんて ムシのいい楽観主義は到底通用しないだろう。■そして、こういった人材養成のための人材確保(養成される人材だけでなく、養成する人材もね)に、この国の政官財エリートや選挙民が同意するとはおもえない。浪費癖のひどい用心棒をかかえこむために「おもいやり予算」をだしつづけたり、過疎地対策と称して無意味な公共工事くりかえしている状況で、財政赤字においうちかけている「国柄」だから。


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