■原田和明さんの連載記事「沖縄の化学兵器」が、第16回で完結した。■ようやく、現時点に直結した。以前の記事もふくめて、リンク等の充実をはかる予定。

■maxi さんらも再三指摘してきた「日本政府が米軍を説得したという今回の合意案は何のことはない、40年も前に米軍が計画していた基地構想そのものであり、国民を納得させるために日本政府が米軍を説得したという形にしただけ」という指摘がある点に注目。

■第15回までをリンクすると、「転載「沖縄の化学兵器」1-4」「5,6,7」「8,9,10」「11,12,13」「14-15」のとおり。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 563号 
05年02月12日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿
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沖縄の化学兵器(第16回)        
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沖縄の化学兵器                      原田 和明

第16回(最終回) 古城

沖縄・読谷村にある古城・座喜味(ざきみ)城跡は、美しい沖縄の海を眺めるには素晴らしい所にあります。丘陵にがっしりと石組みされた城壁が浮かび上がり、切石で組んだアーチ型の石門が美しい。石垣の上からは通称「ゾウの檻」と呼ばれる米軍通信施設も間近に見えます。

化学兵器と沖縄の海・・。昭和20年4月1日、米軍はここ読谷村の海岸を一斉に艦砲射撃して上陸しました。座喜味城の石垣にも当時の艦砲射撃の跡を留めています。読谷村が上陸ポイントに選ばれた理由は沖縄本島の最もくびれた部分を占拠して南北を分断することの他に、城の後方にある日本軍の地下弾薬庫が目的だったとも言われています。その弾薬庫は嘉手納基地に隣接する目の前の森のように見える一帯、羽田空港の6倍ある嘉手納基地のさらに1.5倍もの広さがあり、今でも米軍が弾薬庫として利用しています。この丘陵こそが毒ガス兵器を貯蔵していた知花弾薬庫でした。国道を挟んで住宅密集地に取り囲まれるというよりも、基地と弾薬庫が民家を押しのけて広がっているように見えます。一見のどかに見える里山に膨大な量の化学兵器が密かに配備され、撤去後も残っていたのか新たに配備されたのか今でも民家に隣接して置かれていることには違和感を感じずにはいられません。

座喜味城から嘉手納基地と知花弾薬庫の間の国道を抜け、コザ事件があった繁華街を通り、普天間基地の移転先として候補にあがった辺野古崎に向かいました。この美しい海岸を普天間基地の代替として埋め立てようというのです。美しいといっても背後の丘にはキャンプ・シュワブがあり、隣接する辺野古弾薬庫には催涙弾と白リン弾という化学兵器が貯蔵されています。さらに、報道では米軍の沖合い埋立て案を日本政府が修正させ、環境影響が少ないキャンプ・シュワブ沿岸移設案で合意できたと聞いていましたが、それは欺瞞でした。

海兵隊は 辺野古埋立て飛行場計画図を1966年1月に描いていました。遠浅の辺野古の海を埋め、3000m の滑走路を作る計画でした。北に隣接する大浦湾は水深が深いので、海兵隊が描いた飛行場計画にかぶせて、海軍は軍港を計画、その計画書が残っていたのです。当時の計画図を共同通信がスクープし、2001年6月2日に配信しています。

日本政府が米軍を説得したという今回の合意案は何のことはない、40年も前に米軍が計画していた基地構想そのものであり、国民を納得させるために日本政府が米軍を説得したという形にしただけでした。

辺野古崎から金武湾を迂回して勝連城へ。この城も高台にあり、金武湾が一望できます。金武湾には化学兵器が持ち込まれたホワイトビーチ、運び出し港となった天願桟橋があります。そして古い化学兵器が投棄されたと見られるのもこの金武湾でした。

科学技術が人類の豊かさの追求に大きく貢献してきたことは誰もが認めるところでしょう。しかしながら、人類を破滅に導く大量破壊兵器の製造に応用される側面も併せもっています。沖縄に密かに配備されていた化学兵器はそのことを教えているように思えます。20世紀初頭、化学工業勃興のきっかけとなった窒素固定化技術は化学肥料を誕生させ食糧の大増産に貢献しましたが、一方で爆薬製造にも応用され第一次世界大戦長期化の原因となりました。第二次世界大戦では人造石油の工業化がヒトラーを開戦へ決意させたとも言われています。工業の進歩、肥大化が新たな市場を要求し、あわよくば戦争さえ大量消費(消耗)につながるが故に期待され、誘導してきたことさえあったかもしれません。それが資本主義の実相ではなかったかとも思えてきます。その過程で化学兵器が登場してきました。

911以降、文明の衝突などという言い方がされていますが、ならば人類の智恵の中に解決策はないものでしょうか。釈迦は「小欲知足」「中道」を説きました。欲を少なくして足ることを知る。足ることを知らない者は宮殿のようなところに住んでも満足できないと諭されたのです。「もっと欲しい」が資本主義の原動力だとしたら釈迦は2500年の昔に既にその限界を教えていたのかもしれません。儒教には「中庸」があり、人間の行為や感情の超過と不足を調整する徳と示されています。そして中道・中庸を国是として日本とも中国とも適当な距離を保ちつつ平和に暮らしてきたのが他ならぬ沖縄の人々でした。日米安保体制もいつしか日米同盟と呼ばれるようになり、日本外交の基軸として当然であるかのように言われますが、日本・沖縄とも諸外国とは付かず離れずの「中庸」を保ってきた歴史の方が遥かに長いのです。

1810年代に沖縄を訪れた中国の使節団が「小国の大勢弱ければ久しく存し、強ければすなわち速やかに敗らる。琉球の俗すこぶる兵を言うを忌む」と述べていることからも、沖縄が歴史上平和友好を基本としてきたことがわかります。明治時代の「琉球処分」の際、大久保利通が欧米列強の侵攻を口実に沖縄への日本軍駐留を強行しようとしましたが、沖縄の使節団は「沖縄は列強から遠い一貧乏国に過ぎないから軍隊は不要」と大久保の申し出を断っています。とくに数百年来、他国との友好関係のみに頼って諸外国と取引することに成功してきた実績を指摘し、「軍備により逆に列強の注目を浴び、武力を行使させる危険が高まるのが心配だ」と主張したといいます。

沖縄に残る古城群の美しい石垣はかつて沖縄にも騒乱に明け暮れた時代があった証でしょう。その結果、軍備では国を守れないことに気付いたのでしょうか。江戸時代の日本も同様でした。私たちは、秀吉の時代に世界一の軍事大国でありながら徳川の御世になると自ら武装解除して天下泰平の世を開いた稀有の経験をもつ民族の末裔なのです。(ノエルペリン『鉄砲を捨てた日本人』中公文庫1991)ですから、憲法9条もあながち「押し付け」と言い切れない歴史をもっているのです。

そんなことを考えながら美しい海を眺めていると迷彩色の米軍輸送機が爆音を轟かせながら列をなして普天間基地方面へ通り過ぎて行きました。(終わり)