■開催中のトリノ 冬季オリンピックスピードスケート男子500mを制した、ジョーイ・チーク(アメリカ)の記事が、『朝日』に掲載された。■新聞紙面では、夕刊の1面の関連記事として社会面にのったが、ウェブ上では、「トリノ五輪」あつかいとなっている【太字=ハラナによる強調部】。

大統領の夢へ再び スケート500メートル 金のチーク
2006年02月14日12時16分
 「生涯最高の滑りができた」。金メダルにあこがれてスピードスケートを始めた26歳のジョーイ・チーク(米)が、13日の男子500メートルでついに頂点に立った。
 レース後の記者会見。王者は各国メディアの前で自ら切り出した。
 「米五輪委員会の金メダル報奨金2万5000ドル(約300万円)は、虐殺のために難民となったスーダンの子どもを助けるために非政府組織(NGO)に寄付をする。企業にも支援を求めたい」。難民キャンプを訪ねる計画も明らかにした。
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 五輪直前の世界スプリント選手権を制し、500メートルと1000メートルの優勝候補として迎えた五輪。選手村のベッドで眠りにつく前、白い天井を見つめながら問いなおした。金メダルにいったいどんな意味があるのか、と。
 「スケートは楽しいし、愛している。だが正直なところ、少し馬鹿げているように思う。タイツをはいて氷の上を滑り回るために、生涯を費やすなんて。でも僕はスケートが速いおかげで、寄付を集めたり、世界の問題に注意を呼びかけたりできる。大きなことを成し遂げたら、世の中のためになることをしよう」

 少年時代、米大統領になることを夢見ていた。94年リレハンメル冬季五輪で、スピードスケートの3冠を制したヨハンオラフ・コス(ノルウェー)を見てあこがれが変わった。14歳のときだった。
 そのヒーローは、NGO活動を通じて、災害や戦争で苦しむ子どもたちを助けていた
。氷を離れたときの振る舞いも、幼い心に焼き付けられた。
 それから12年。トリノで初めて対面した。幼いころの思いがよみがえる。
 500メートルのレースがあった13日の朝、もう一度コスに会ってから会場に向かった。リラックスできている自分に気づいた。レースの1回目。感触は35秒台だったが、掲示板を見て驚いた。この日初めての34秒台で首位。「油断しないように」と臨んだ2回目も34秒台を刻んだ。
 この五輪で引退するつもりだ。「98%決めている。中断していた経済学の勉強を再開したい。できればハーバード大で」。再び、政治を目指す気持ちが頭をもたげてきている


■この文章は、よみてによって、さまざまな感想がでるとおもう。■「欧米の選手は、ユトリがあって、別格だな」とか、「スポーツ・バカじゃなくて、すごい」とか、「『文武両道』は、リッパ。こうでなくちゃ」。あるいは、「スケートに人生をかけてきた 清水宏保とは、異質な人生だ」とか、「企業家/芸能人にかぎらず、なをなした欧米人のおおくは、社会貢献したがる」といった、いろいろなものが。
■なかば伝説上の人物である、野球解説者の江川卓氏<は、座右の銘として、色紙へのサインにも、「たかが野球、されど野球」とかくそうだが、これは、スポーツ関係者以外には、所詮「興行」「趣味」「職種」でしかない「野球」に対する 屈折した愛情を、うまく表現しているとおもう。■それは、「スケートは楽しいし、愛している。だが正直なところ、少し馬鹿げているように思う。タイツをはいて氷の上を滑り回るために、生涯を費やすなんて……」という金メダリストの セリフによって、ますます 本質を うきぼりにされる。■近代オリンピックにかぎらず、スポーツ興行ないしスポーツ振興/スポーツ教育に、投入される資本・公金は、ハンパじゃない。しかも、業界の利益と国威発揚以外には、ストレス発散ぐらいしか、実益はないはずのスポーツが、必要以上に美化されるのは、やはり 根本的に、おかしい。それは、「障碍者以外にも希望をあたえる」といった論理でかたられてきた、パラリンピックでさえも、巨額の資金の投入・消費を、「けっして浪費ではない」と、いいはれる根拠は、実はうすい。■たとえば「内戦や異常気象・天災などによって、飢餓・感染症で大量にしんでいくひとびとが、数十万・数百万単位でうみだされているのに、そこへの援助にまわさずに、スタジアムやテレビ中継に うつつをぬかす観衆と、それにパフォーマンスを提供する関係者のたちばの合理性は?」と、とわれたとき、「たかがスポーツ」の、はたいろは、ひどくわるい。■バレエや古典音楽のように、単純にうつくしいもの、たとえば、フィギュアスケートのばあいは、「タイツをはいて氷の上を滑り回るために、生涯を費やすなんて」といった自嘲は不要だろう。■しかし、「それがどうした」と、美をみとめない層は、たくさんいるわけだし、「それは何億円といった資金を投入するだけの 優先順位をもつのか?」という、といかけに、うまくこたえることは、むずかしい。
■しかも、オリンピックをはじめとするスポーツ選手や関係者をとりまくのは、メディアによる、極端な美化であり、「プロジェクトX」的な雰囲気である。■そこでの精神主義、禁欲主義、目的意識は、なんの問題意識もはさまれずに、必要以上の美化され、その延長線上には、選手・関係者の献身自体が、人格のけだかさとして、演出される。■しかし、そういった美化が、幻影であることなど、冷静にかんがえればすぐわかる。スポーツ選手が、スキャンダルと「せなかあわせ」なのは、政治家や芸能人と同類の「有名人」として、情報消費される商品にほなからず、その求道〔グドー〕の過程に、精神的高貴さが介在する保証など、どこにもない。
■以前もかいたことだが、スポーツ選手の美化には、大衆の願望の投影がある(「スポーツからみた日本社会5」「」「」)。■ハラナ自身、個人的には、野茂イチロー山下康裕、清水宏保といった、「世界的選手」としかいいようのない人物に、高貴さは感じるし、単純に尊敬するが、人格全体を美化し、かれらが半生をかけてきたスポーツ全体・業界全体を美化するのは、まちがっているとおもう。
■ともかく、国威発揚/ナショナリズムがかぶさるオリンピックは、はじめから、きなくさいし、ましてや、普通スポーツに関心などさほどない層までも、「にわかファン」として「市場」にまきこもうとする業界の、エゲつなさには、ゲンナリさせられる。■政治経済上の重大事項をさしおいて、ニュースの最初におかれる皇室報道などとならんで、オリンピック・ワールドカップなどの狂騒は、そろそろ自制すべきでしょう? NHKさん。スポーツ新聞や夕刊紙なみの、品位でしょ?