■劣位にあって層が「理不尽なあつかいをうけている」と意識するのは、「平等」概念が定着する以前の、前近代から実在した。劣位にあるがわが、一方的に「観察」されたままではなく、優位にあるがわを冷徹に「観察」しかえすことは、ごく普通に遍在している。といったことを、前便でのべた。
■つぎにつけくわえたいのは、優位にあるがわを冷徹に「観察」しかえすことそれ自体が、差別構造の産物だということだ。劣位者が、優位にあるがわを冷徹に「観察」しかえす行為は、「自然」なことではない。■じろじろ「観察」される。あたまごしに、かってな処遇が決せられる。理不尽なあつかいがくりかされる……といった、不当な構図が、なくならないと自覚が生じたから、付随して発生する「観察」「監視」活動なのである。■もし、「不当な構図」が存在しない、つまり差別構造がそこになければ、劣位者による「観察」「監視」は、ないですんだことなのだ。
■その典型的なものとしては、古典的な、フランツ・ファノンの一連の作品があるし、この日記でも何度かとりあげた、野村浩也さんの代表作『無意識の植民地主義』などをあげるのが、適当だとおもう。■それらは、フランスや日本という「帝国」が、自分かってな自画像をかきながら、無自覚な差別をくりかえす構図を、痛烈に批判している。ふたりは、批判せずには いられなかったから、批判しつづけた(ている)。■しかし、その「批判せずには いられなかった」というのは、いうまでもなく、植民地支配という理不尽な構造である。■そして、野村さんのような 職業的社会学者であれば、「業績」にもなりえるし、その一部は自己実現にもなりえるかもしれないが、そうでないばあいは、単なる 「理不尽への おつきあい」にすぎない。イヤでも、そうするほかないから、いきがかり上、あるいは、やむにやまれず「おつきあい」するのである。■差別者たる「宗主国」の市民には、自覚はないだろうが、安保体制を沖縄の米軍基地という視点から、うちつづける真喜志好一さんなどのばあいは典型だ(「米軍基地に翻弄される日々」)。

連日のように、このような記事を読まされてどう対応するか、考えることを強要されていることは、明らかな差別だ。考えている時間だけ、自営の私の場合、現金収入から遠ざかるわけだから、収入も下がる。

■かんがえさせられるという心身的労苦。■事態を改善させるために、能力・権限・その他条件をそなえたものが啓発的発信をつづけるほかない構図とは、搾取なのだ。
■ヘーゲル/マルクスらは、主人と奴隷、資本家と労働者のあいだでの、支配・被支配、搾取・被搾取関係が、被支配/被搾取層が、「労働」によって、自然・社会を変革することで、前進し、支配・搾取層をおきざりにしていうという、逆説=革命論をたてた。■その図式でいえば、被支配/被搾取層は長期的には、支配・搾取層よりすぐれた存在へと、しいたてられる。しかし、だからといって、支配・被支配、搾取・被搾取関係がよいものだとは、到底いえまい。■朝鮮半島の植民地経験が、日本列島住民よりも上質の哲学をうんだからといって、植民地支配を合理化できないのとおなじだ。
【つづく】