■先月、笹原宏之氏の『日本の漢字』〔岩波新書〕がでた。
■おそらく、史上空前の複雑さをかかえたモジ体系を維持している現代日本を、実に客観的・冷静にえがきだした名著といえるだろう。■著者と、ハラナ個人の見解にズレはあるが、その禁欲的で徹底した記述的態度には、こころをうたれる。この著者のような学識をもたないものとしては、おしえをこうという意味でも、インタビューをこころみてみたいとさえおもうような人物である。
■タマにキズは、障害学的、教育学的な、「漢字という障害」といった視点がぬけおち、あるいは、文化資本論的な視座の不徹底が散見され、そういった、ワキの アマさが、たとえば、実に軽薄そのものの、おびコピーをゆるしてしまっている点か(笑)?

空海も西鶴も、町の自転車屋さんも…
だれもが漢字を使いこなし磨き上げてきた

■そんなはずがなかろう。現代の自転車屋さんはともかく、空海や西鶴の時代には、「無筆」とよばれる、膨大な非識字者層がいた。いや、空海の時代には、識字者は、ごく少数の例外的エリートにすぎなかった。■そして、「使いこなし磨き上げ」るといった、意識的な姿勢をたもっている層など、ごくかぎられていることも、はっきりしている。現代日本という高度大衆社会でさえもである。

■しかし、そういった左派的なツッコミをおくなら、つまり、編集者が「うらんかな」で、つけただろう、くだらん「おびコピー」さえ、はずしてしまえば、本書は、新書とは到底おもえない、ゆたかな世界に、いざなってくれること、うけあいなのだ。

■まず冒頭部。

 世界の文字と日本の文字
 私たちは、毎日数多くの文字に囲まれ、みずからもまた文字を書いている、ふだん何気なく読み書きしているその文字は、実は世界に数百存在する文字体系の中でも、きわめて珍しいものである。その文字の起源は、ほとんどが外国で生まれた文字にさかのぼる。外国で使われるあまたの文字の中から、日本語を表記するために使えそうなものを選び出し、時にその使い方を変質させながら、日本の文字として採り入れてきた結果である。日本人がそうして創り上げたものが、現代の多様性に満ちた文字の状況をなしているのである。

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 日本語の多用な文字体系
 日本の文字の特質として、まず文字体系の豊富さが挙げられる。現代の日本語は、一般的に「漢字仮名交じり文」で表記さてるが、上のような表記もチラシやポスターなどで目にすることであろう。
 この一つの文に使われている日本語の文字全体に使われている日本語の文字全体を、由来や性質ごとに区切った狭い意味での文字体系ごとに分類すると、次のようになる。
 ? 漢字       今 年
 ? 平仮名     の に は が し た い
 ? 片仮名     プ レ ゼ ン ト
 ? ローマ字    X m a s
 ? ギリシャ文字 α
……自国語の表記に、五種類もの文字体系を取り混ぜている表記システムは、世界的に見てきわめて珍しいといえる。
 仮名にも、平仮名と片仮名の区別がある。同じ機能をもつ表音文字の体系を二種類併用する点も特異であるが、江戸時代以来、文章内で遣い分けがなされてきた。そうして仮名を漢字と並べる「振り仮名」(読み仮名)や、「送り仮名」という方法も古くから現れている。新規に定められた読みを示す「運命(さだめ)」「銃爪(ひきがね)」「本気(マジ)」のたぐいも多い。国号の「日本」自体が「にほん」と「にっぽん」とに揺れていて、漢字が書かれている場合にどちらで読むかを判断しなければならないことは、いかにも漢字を重視してきた日本的な現象を象徴することである。
〔pp.2-4〕
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■たしかに、「仮名」だって、「カナ」と よめばいいとはかぎらなくて、「カメー」とよむべき箇所は、文脈の知識・理解が不可欠だね(笑)。■「国号の「日本」自体が「にほん」と「にっぽん」とに揺れていて、漢字が書かれている場合にどちらで読むかを判断しなければならないこと」が、ホントに、「いかにも漢字を重視してきた日本的な現象を象徴すること」なのかどうかは、疑問がのこるし、単に、使用者の趣味の恣意性(てまえがって)にすぎない気もするが、それはおいておく。
■というより、ここまでの概説は、ごく普通で、よくある一般的記述にすぎない。■問題は、このあと。
【つづく】