■日本語表記の多様性・複雑性は、モジ体系の混用だけにとどまらない。
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 このほかに、日本語表記に用いられる符号(記号)もまた多種多様な姿を呈する。日本表記の中では、中国に由来する「、」「。」などの符号がある一方で、欧米に由来する符号「’」「+」「!」などが根付いている。さらに日本製の符号としては、「※」(米印。江戸時代には合い印などとして現れる)、地図記号から援用された「…」(温泉マーク)、漫画に由来する汗や涙のしずく……など、各種の記号が流れ込んできている。携帯メールなどには、表情などを表す絵文字までが、句読点に代わって用いられることがある。
 日本の文字・符号のいわば雑種性はこれにとどまらない。お寺にある墓の卒塔婆などには、インドから伝わった梵字〔ぼんじ〕を目にする。ヨーロッパの古代ルーン文字もお守りとしてありがたがられることがあるが、両者が共通することは、読めない、また意味がわからないことによる神秘性であろう。
〔p.6〕
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■いわゆる、「かおモジ」が、句読点としてもちいられることがあるにしても、それが本質でないことは、あきらかだ。■しかし、それらが「(笑)」「(泣)」「(爆)」などとちがって、「黙読」される(=ろう者以外、脳内で、聴覚イメージとして処理される)ことがないという意味では、モジではなく、しかしモジ体系をささえるための、不可欠な付随記号である点は、たしかな事実である。■そして、これら諸符号が、また雑多な起源をもっていながら、その混用が疑問視されたことがないことも、また事実。
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 このように複数の文字や符号が混用されているが、現実の生活上で混乱はまず起こることがない。それは、ふだん私たちは、文脈ならぬ「字脈」から、その字がいかなる文字体系に属するものなのかを瞬時に判断しているためである。片仮名の「ヘ」と平仮名の「へ」、……「口」と「ロ」、「力」と「カ」のように、書体によってほぼ一緒の形になるものであっても、前後の文字から即座に読み分けている。この字脈は、文章を読む際にも利用される。そのために、「女子高生ら致される」という記事の見出しを見れば、一瞬切り方を誤るのである。こうしたことは、見馴れない文字列を見馴れた文字列に見なしてしなうことから生じるものであり、偽ブランドなどの類似商標やロゴの多くは、これを利用している。我々がふだん、子供のごとっく文字を一字ずつ粒々と切って読んではいないことの現れである。
〔p.7〕
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■まあ、ハラナと笹原先生の見解のわかれるところではある。■「複数の文字や符号が混用されているが、現実の生活上で混乱はまず起こることがない」のは、一定以上の文化資本をそなえた階級・階層にかぎったばあいであって、浮上しない「混乱」が、おびただしく潜在していませんか?……ってね(笑)。■実際、「「口」と「ロ」、「力」と「カ」のように、書体によってほぼ一緒の形になるもの」は、非常にうっとおしい存在として、日本語表記のノイズ=障碍の典型例のひとつだとおもう。■有名な某アナウンサーが、「旧中山道(きゅうなかせんどう)を1日中 山道(いちにちじゅう やまみち)と読み間違えたという」伝説は誤解のようだが、当人でないにしろ、「1日中 山道」と分節のしそこないは、「混用」に つねにつきまとうリスクなのだ。■そして、某アナウンサーについて、「……「『旧中山道』を『1日中 山道』と読んだ他局の女子アナがいた」と紹介したところ、彼女が「これって旧ちゅうさんどうですよね…」と読んだというのが正確な事実。いずれにしろ、誤読なのだが。」といった、ロコツな性差別意識をともなった記述がまかりとおっているとおり、「字脈」「文脈」を「瞬時に判断」することを自明視した時空こそ、多言語化・多文化化が急速にすすみつつある現代日本の、ごく普通の状況であることも、事実である。
■「適切な敬語表現の選択=一人前の社会人=多数派日本人の条件」といった、文化資本上の「等式」、いいかえれば、社会言語学的な諸情報を悪用した、隠微な差別意識を、デュルケーム的な意味での「社会的事実(fait social)」であるといいはるのであれば、これは実に、精確な記述といえる。
■それはともかく、笹原先生、こういった「混用」を たとえば「障害」とは、みなしていない。
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……多様な文字体系を自在にコントロールすることで、多彩な表現が可能となっている。たとえば、「ひと」ということばを「人」と書くのと「ひと」と書くのでは、印象が異なるだろうし、「ヒト」や「他人(ひと)」と書けばさらに異なるニュアンスを与えるであろう。
 「金」だと「きん」と間違われかねないので「カネ」としたり、「楽」よりもらくな感じを出そうと「ラク」としてみる。「目処」は読めなさそうなので「メド」とする。「人指し指」では「指」が重なりそうなので「人差し指」「人さし指」とし、「子供」では差別的なニュアンスが感じられそうだと「子ども」と変える。
〔pp.7-8〕
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■これって、単に「共存」「混用」による、「混乱」「機能不全」にしか、ハラナにはおもえないが(笑)。■すくなくとも、全盲者たちには、全然無意味な情報だ。
■しかし、これらの「ニュアンス」とやらが、信じられているというのは、あきらかに「社会的事実」だろう。
【つづく】