■ことしは、区切りのとしではないが、台湾で1947年におきた、いわゆる「2・28事件」から59年めをむかえた。■めだった記念集会などは、ないかもしれないが、台湾を植民地支配していた日本人、および入植していた沖縄人にとっては、いまだ「現代史」として無縁にはならない事件でありつづけている。■日本人にとっては、「1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画であった。この映画がヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界的に知られる事となった」ことで、はじめて経緯をしらされたにすぎず、しかも まだ 一般的知識とはいいがたい水準にとどまるが。

二・二八事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二・二八事件(ににはちじけん)は、1947年2月28日に台湾台北市で発生した後、台湾全土に広がり、40年間かけて終結した事件である。台湾人の間では台湾大虐殺と呼ぶ人も多数いる。

1947年2月27日、台湾の台北市で闇市のタバコ売りの女性を密売取締員が殺傷する事件が起きた。これに端を発し、本省人による、外省人国民党軍や国民党政府への抗議行動や暴動が2月28日(二・二八)から台湾全土に広がった。これに対して国民党政府が武力による大規模な掃討と鎮圧(弾圧)を40年間にわたって行なった。
事件の背景

1945年に日本から中華民国に接収された直後、台湾には大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人がやってきて行政を引き継いだ。彼らは大陸の戦線で日本軍と対峙してきたため、日本に対する強い敵意があり、日本によって皇民化教育を施された台湾の人々に対しては解放された同胞というよりも、敵国に洗脳された敵性国民というイメージを抱いていた。

一方、台湾の人々(本省人)は中華民国が日本に勝利し、中華民国は台湾を日本の植民地支配から解放したとして、解放当初は国民党政権を歓迎した。しかし、台湾に来た国民党政府の官僚や軍人らが腐敗していたこと、また物価高騰、失業の深刻化、治安の悪化などにより、期待は失望へと変わり、国民党政権に対し、極度の不満を募らせていったことが、この事件の背景にあった。

事件のその後

1947年2月27日、台北市でヤミタバコを販売していた老婆を国民党政府官憲(密売取締員)が発見。公道でその老婆を射殺するという惨事が起こった。これにかねてから不満があった市民の怒りが爆発。翌28日以降、それに対する抗議行動が台湾全島に拡がり、もともと台湾に住んでいた本省人は、戦後台湾に移住して強権を恣(ほしいまま)にする外省人と、外省人によって成り立っていた国民党政府に対して抗議活動・襲撃等を起こした。このとき、台湾人がラジオ放送局をジャック。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送を行った。

当初、国民党政府は本省人側にたいして対話姿勢を示していたが、実際のところそれは時間稼ぎに過ぎず、翌月、多人数の援軍が大陸から到着してからは、国民党政府による大弾圧が始まった。日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄され、国民党軍が一般市民にも無差別的な発砲を行っていたとする証言は多数ある。約3万人が殺害・処刑されたといわれ、死者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。

このとき発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、国民党政府による、いわゆる白色テロや強権による暴力支配は永らく続いた。国民党が戒厳令を解除し、民主化がはじまった1987年の後も、戒厳令は解除されたとはいえ、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。民主化が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正して、言論の自由が認められてからのことである。

【以下、略】

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■非常に不幸なかたちで、帝国日本の支配が悲劇をもたらしてしまった。■しかし、この事件と、その後の40年間の台湾史に対して、日本人・沖縄人は、責任をおってしまっているのである。かりにその時代をいきていなくとも、「負の遺産」という次元で。

■それにしても、「Wikipedia」には、編集委員がおらず、市民がかってにボランティアでつくるからこその致命的限界が、ここでもでているね。■台湾の、現在の名称は、「中華民国」だが、そちらの項目では、「台湾語」についても ふれないし、少数民族の存在なども、ふせている。■政治性がからまる事項がほとんどだとはいえ、もうすこし客観的にかけないもんかね?